【敗北】閉店
女とは如何に呆気ないものか。腹の底から沸き上がる憤慨を白色の吐息にまぶして逃す。寒風が目を奪われることが無いのは、煮え滾る熱が身体すら温めているからであろう。
あんな浮ついた生命とも言えない概念を、傍に携える事は至難でしかない。女を上手く扱う世俗の皆など、とうに頭のいかれた狂人か、利しか目にない非人間に違いない。
ああ、狂乱に殺されそうであるのに、安穏に過ごす世俗に吐き気が募る。何故、己の行く先々に有頂天な男共が転がっているのだ。恋に焦がれる女がいるのだ。招かれざる客に向け、勢いに任せて蹴った小石は、街路に寂しく音を立ててぶつかった。
己の力量はこんなものだと言っているのだろうか。存在価値すらない路傍の石にすら責を咎められる。それが何処までも否定できない情けなさが、より煮え滾る腹を搔き乱した。これでは目的を達する前に、腹が溶けてしまう。傍目を気に掛けていえては、己は何処へも行けはしまい。目を潰して先に進むしかないのだろう。
そも、今日は労わりの宴会を友と行う為に、その友の店に向かっている。老若男女混ざりあう夜半の町は、騒音に耐えがたく天地が歪む。足早に抜けて仕舞いたかった。それもこれも、全て毒牙の女の所為だ。
ぶつくさと文句を言う男はさぞ恐ろしかったろう。人の子一人寄っては来ない。
幾度も幾度も足元に縋る泥屑を混ぜ合わせた人型を薙ぎ払い、ようやっと生温い光が見える。店頭には目じりに小じわの滲んだ友が立っていた。
久々に気の置けない友に会うと、口の蓋は風圧に負けて開いてしまう。ここ暫くは友人と会合する日すらなかった。女が万物を所望したからだ。己はその欲を満たすために身を削ったと言うのに。
全くこんなにも誠実な男であるのに、何故女は己の裏切ったのか。
「こんなのってないよ」
「仕方がない。今回は非を認めろ」
侮蔑とも憐憫とも取れない、生暖かい目が降りかかる。非難に聞こえる言葉は、その実慰めである。この男は色男である癖、友を実直に慰める術すら知らないらしい。
一つため息を吐き、胸を張って主張する。
「俺は自分の誠実っぷりを主張する」
共有する時間が減ったからどうだったと言うのか。他の女に現を抜かしていた訳ではない。夜を共にする後続の為に、慌ただしくビルに明かりを灯していただけだ。それを望んだのは他でもない、災厄の女であり、またそれに従った己は正しく従順な奴隷であった。
己にこれ以上何を望むのか。常に傍に居なければ、他所へふらりと立ち入る女など、こちらから願い下げである。
鼓舞する己が、ただの負け惜しみでしかなくとも、それに縋る道しか残されていない。
「そうだ、我々は正しい。正義に対してなんて仕打ちだ。あいつよりカラスの方が賢い」
同じ目に合った色男の言葉は重い。男の身に何があったかなど、染みて理解しているのに同様に括られる事に抵抗感が生じる。
「じゃあお前はニワトリ以下だな」
どうにも正論ぶった友人の男が癪に障る。ぶっきらぼうに放った言葉は、男に届かずに地に落ちた。
「八つ当たりは見苦しいぞ。お前がいちばんへこんでいるのは分かっている」
「負けを認めない方が愚かだ」
「おいおい、ここで貶し合ってどうする。無益な争いこそが愚の骨頂だ」
友に諭されて、痛感する。女に捨てられるとはここまで余裕の無くなる事だったのだと。過去見た友の荒れ具合が、幻を殴っている訳では無かったのだと思い知らされた。最も、経験すべきではないものだっただろう。
落ち着けと友は店の奥から丼ぶりを運んできた。丼には湯気が寒気に混じって揺らいでいる。ちらちと見えた丼の中身は、白銀の米の上に黄金がどっしりと佇んでいる。
まごう事なき玉子丼であった。
「ああ、玉子丼だけは俺を裏切らない。信じられるのは神の使いである君だけだ」
「大袈裟な」
大袈裟な訳あるまい。この無粋な男から作り出される玉子丼だけは、歳を重ねた今でも褪せる事無く美味だ。何事に悩んでも、この華美さのないまろみが己を奮い立たせてきた。それはまるで神の福音を思わせる。
「では玉子丼が不味かったことがあるか」
「たった今がそうだ。こんな気持ちで食べて美味しいものか。お前は浅薄なんだ」
「仲間になんて物言いだ。俺が泣いちゃうぞ」
「お前の涙に何の価値がある」
この男にとって己の涙など雀以上に価値がないに決まっている。本当に欲しい涙を見ない振りして、男は現実を睨みつけている。
だが、そんな努力も小鳥が馬鹿にする程の虚しさだ。途端、じわりと目尻に水滴を溢れさせた。
「そういうお前が泣いているではないか」
「泣いてなどいない」
「玉子丼が塩辛くなるぞ」
幾年経てども想いは断ち切れず。情けなく似合わない澄んだ涙を流す男の、なんと憐れな事だろう。
女は別れ際貪欲に縋ってくる癖、数年経てば笑って手を振ってくる。その隣に新しい男を携えている事も、大いにある。その軽忽さが女の強味なのだと言えば、押し黙る他ない。
それと比べて男の女々しさよ。女の文字を冠する言葉で有りながら、これ程男に相応の言葉はないだろう。月が経ち、年が経つ程女に未練が湧く。雨樋を伝い垂れ下がる想いが、やがて未練という石を打って割くのだ。しかし、その先に女はいない。有るのは仄暗い地面のみだ。
「それくらいがちょうど良いんだ」
友はそれもまた良いのだと言った。何がそこまでの諦めをもたらすのか。別れた女の愛が、未だに友を縛り付けている様にも見えた。
「存分に泣くがいい。お前の涙は美しい」
思っていない事だった。少なくとも、己の自覚の上でこの男の涙が美しいなどと賛美を持ったことは無かった。
だが、するりと口から出た言葉は、己の言葉だっただろうか。まるで、今でも男を恋願う女の幻覚が己の内に滑り混んできたような乖離感を覚える。
「お前こそ目を擦るな。明日まぶたが腫れるぞ」
そういう友は音を立て、力強く目を擦った。まるで愛しの女の幻覚と未練を拭い去るようだった。
そんなもので拭えるのならば、今頃この男はここで燻ぶってはいまい。すぐさま継ぎ足された愛情が目から流れ落ちた。
友も、己も、会話を続ける気分にはならなかった。食欲も共に無かったのだろう。
しかし、玉子丼があるから。何処かで神妙な空気も、暗雲立ち込める気分も飲み込んでくれないかと切望し、手を伸ばした。
「玉子丼が美味い」
「玉子丼が美味い」
箸に乗った玉子はぼろりと椀に崩れていく。どれだけ富が失われようと、摩耗した精神に差し込むのは簡素な玉子だった。十年前より遥かにみすぼらしい、草臥れた座布団のような茶碗が僕たちの過去を癒す。
この男と同じ様には決してなるまいと心に誓った日が遠い。若年の瑞々しい妄想が、正しく理想だと体感出来たのは何時の頃だろうか。この店と同様の時間を有し、共に廃れていく男二人。生産性も利益もなく、閉まる日を延々と待ちわびている。ここで店を構えてしまった以上、もう何処にもいけないのだ。
薬指に朱く濃く残った輪状の跡は、一年を経ずに消えてなくなるだろう。愛した女の傍に居たと言う、確かな証拠は年月と共に忘却されていく。己の募る愛を置き去りにして。
たとえそこに証拠がなくとも、己の愛が薄れゆく訳ではない。どうしようもなかった。消える筈がないのだ。愛おしさも憎しみも、何もかもが水泡に帰すなど、それこそ理想論でしかない。ぼろぼろと崩れ落ちていく涙に、女への有り余る情が流れていけばいいのに。醜態を晒して咽び泣いているというのに、何故誰も救ってくれないのだろうか。憐憫でも、同情でも、たった一欠けらでも愛した女からの情が欲しい。米粒一粒でも構わない。玉子の殻だけでも良い。廃棄される芥の塵と女が思っていても構わない。
じくじくと一人米を運んでいると、ただ未練だけが目に浮かんだ。弁解の余地なく、己が悪かったでいい。だから、帰ってきてはくれないか。
一口一口塊を含む度、女への愛は募った。それと同時に、女からの愛は薄れていった。
嚥下するたび、女からの愛を噛み締めた。滲むような温かさがあった。やはり同時に、女からの愛は消化されていった。
全て食べきった頃、己はこれ以上ないくらい女が愛おしかった。女からの愛は、終ぞ途絶えた。
酒すらない飲み会に差し込む朝日は、憎いほど美しかった。
店のシャッターはもう開かない。