最初の男の三つ目の話 ~ 黒いヒト
「なかなか終電、来ませんねぇ」と2番目の男が言った。
そうですね、と最初の男は答える。どこか上の空な感じであった。それに気づいた2番目の男は問いただす。
「どうしたんですか?」
「いえ。何でもありません。ただ、あそこのベンチの下でなにかが動いたようなので」
「なにかが動いた? はて、ネズミかなにかですかね」
「そうかもしれません。そうでないかもしれません。
そうだ、それで思い出した話があります。
丁度良い。では、次はその話をしましょうか」
最初の男はそう言うと唇のを舐め、喋り始めた。
大学に進学したのを機に一人暮らしを始めた。
通学には市をぐるりと囲む環状線をつかう。大体、片道1時間ぐらいかかった。
その日もいつものように大学に行こうと駅のホームで電車を待っていた。会社員や中高校生の通勤、通学時間に重なるのでホームはいつもごった返している。
ホームに電車が入ってきたので携帯から目を離し、乗車の仕度をしていると目の前を男の人が通り過ぎていった。
あれっと思った。
何かやけに頭の長い人だな、と思わず二度見してしまった。そして、勘違いに気づく。
頭が長いのではなかった。
「えっ、子供?」
一瞬、小さな子供を肩車していると思ったが、それもちょっと違うようだった。子供にしては異様だったからだ。
真っ黒なのだ。日に焼けて黒いというような比喩的な意味ではない。文字通りに黒いのだ。真っ黒。
ピクトグラムというのがある、非常口へ駆け込もうとする人の姿や、信号機の赤信号で直立している人の形を模した絵文字、あれの真っ黒い奴、という表現がぴったしだった。その黒いピクトさんが男の人の後頭部にしがみついていた。
「何かの被り物かしら? 最近流行ってんのかな」
と、思っているとその人はそのまま、線路に飛び込んだ。
電車の断末魔のような急ブレーキの甲高い音がホームに響き渡った。
その音が止んだ時、ホームは一瞬の静寂に包まれた。が、すぐに一種独特のざわめきがあちらこちらで湧き立った。
私は、というと慌てて駆け寄ってきた駅員さんたちが電車の隙間を覗き込んだり、線路へ降りるのを呆然と眺めていた。
生まれて初めて投身自殺を目撃してしまったことに思考が追いつかなかった。
すかさず写メをとったり、SNSで友人たちに拡散するのはあまりに不道徳すぎと思えたし、かといってまるで何も無かったように無関心を装うのも人の死を軽んじているようで違和感があった。だから、駅員さんたちが右往左往するのを黙って凝視するばかりだ。
その時。
ホームと電車の隙間からひょこりと黒いものが現れた。さっきの黒いピクトさんだ。
ピクトさんはホームによじ登るとぴょこぴょこと騒然とする人々の間を何事も無かったように歩いていく。
誰も、その黒いピクトさんに反応を示さなかった。
「もしかして、他の人には見えないのかしら?」と小さくつぶやいた時、不意に手首をつかまれた。
驚いて振り向くと見知らぬ男の人が怖い顔をして睨んでいた。
「えっ? 誰ですか」
「ちょっと、こっち来て」
男の人は私の手をつかんだまま、構内の隅のほうへ歩いていく。突然なことに声も出せずに私はついていった。
「さっきのをじろじろ見ていたら駄目だ」と男の人は小声でぼそぼそと言った。
さっきのって、黒いピクトさんの事だろうか?
私は俄然と興味が湧いてきた。
「さっきのって、黒いヒトみたいな奴のことですか?
あなた、あれのこと何か知っているんですか。あれは一体なんなんですか?」
「しっ!」
男の人は慌てて口に指を立てて言った。そして、きょろきょろとあたりを見回す。まるで誰かに見られていやしないかと恐れているようだった。
「大きな声で話すんじゃないよ。
あいつらに聞かれでもしたら面倒なことになるだろう」
「聞かれると面倒? 一体誰に聞かれると面倒だって言うんですか?」
「誰にって、そんなのあいつらに決まって……」
男の人は言葉を切ると私の顔をまじまじと見つめた。
「君、あいつらのことを知らないのかい?」
男の人の問いに私は首を傾げることしかできなかった。
□
そこは駅の建物内の喫茶店の一角。
目の前にはさっきの男の人が座っていた。男の人は柊心と名乗った。
「つまり君は、あれを今日初めて見たって言うんだね」
柊さんの質問にうなづいて答える。
「その……、君は今まで変なものが見えた経験はないかい?」
「変なものって、具体的にはどんなものですか?」
「う~ん。例えば黒いもやのようなものとか、半透明の人とか、空を飛ぶ女の生首みたいなもの、とかだよ」
「あー、いわゆる、ユーレイみたいなものって事ですね。ないです」
「ああ、そう。すると、今日、急に見えるようになったってことか」
「ちょっと待って。じゃあ、あのピクトさん、いえ、黒いヒトみたいなのは幽霊なんですか?」
「う~ん。幽霊とはちょっと違うかな。
妖怪とか悪霊と言ったほうが近い」
「妖怪とか幽霊とか言われても、信じられません」
「今までそういうのを見たことない人には中々信じてもらえないかもしれないね。
正直、あいつらの正体がなんなのかはよく分からないんだ。もしかしたら元は人間だったのかもしれない」
「元は人間?」
「うん。人間の悪意っていうのかな。そんな存在なんだ」
「あのー、良く意味が分からないんんですけど」
「人が持つ悪い感情。憎悪とか怒り、嫉妬。そう言うものの塊と言うのかな。それがああいう黒いヒトみたいな形に見えるんだ。
あいつらは人に取り憑いて悪さをするんだ」
私は男の人の頭にしがみついていたピクトさんを思い出した。
「それって人を自殺に追い込むとか……ですか?」
「君も、あの男の人が飛び降りるのを見ていたろう?
あれは、あいつらのせいだよ」
「えっ?なんでそんなことをするんですか?」
「さあ。なにかあいつらなりの理由があるかも知れないけれど、僕は長年あいつらを観察しているが理由なんてない気がするね。
悪意の塊って言ったろ。
つまり、やつらはそういう存在で、それ以上でもそれ以下でもないんだ」
柊さんは声のトーンを一段潜めて答えた。
「今更なんですけど、柊さんはさっきから『あいつら』って言ってますけど、あの黒いヒトってたくさんいるんですか?」
「たくさんいる。いろんなところに潜んで、僕たちに取り憑く機会をじっと伺っている。
特にこの環状線には異様に多いんだ。
普通、少し人の多い街に一人二人しかいないのに、この環状線には一駅毎に少なくとも四、五人はいるね。
この環状線って人身事故が全国一位って知ってた?」
確かに、1週間に1度、多い時のは連日事故が発生して足止めされることがある気がした。田舎から出てきたから、都会の電車はこんなものなのかと思っていた。
「じゃあ、その人身事故ってみんなその黒いヒトに取り憑かれた人たちなんですか?」
「さあ、全部って訳ではないだろうけど、多いと思う。少なくとも自分が目撃したのは全部、『あいつら』が取り憑いていたね」
「えっ!柊さんは見ていて止めなかったんですか?
そんな。見えるならその黒いヒトを取って上げればいいじゃないですか」
私の言葉に柊さんは目を剥いた。
「馬鹿なことを!
そんなことをしたら『あいつら』に見えている事が分かってしまうじゃないか。
良いかい。『あいつら』に見えている事を悟られては絶対駄目だからね」
「なんでですか?」
「『あいつら』は自分たちの存在を知られると知られた相手を排除しようとするんだ」
「排除って、えっ? それはつまり……
でも、どうやって?」
「色々さ。やつらは悪知恵が働くから事故に見せかけることもある。もっと直接的に手段も取れると思う。
例えば、やつらに取り憑かれたら、さっきの人のようにふらふらと線路に飛び込んでしまうかもしれない」
その言葉に背筋がぞくりとした。
本当にそんなことがあるのだろうか。でも、さっきの人を見ればあながちでたらめとも思えない。
「とにかく」
柊さんの言葉に我にかえった。テーブルの上にメモが置かれていた。
「『あいつら』のことが見えていると絶対に気取られてはいけないよ。
でないと君の身にどんな災いが降りかかるか分からないからね。
もしも、なにかあったらここに電話してくれ。もっともどこまで力になれるかは分からないけどね」
その日から、黒いヒトを良く見るようになった。
柊さんの言っていたように確かに、駅のいたるところに黒いヒトはいた。
自販機の隙間。
ベンチの下。
天井の柱にしがみついていたり、廊下の端をひょこひょこ歩いているのを見かけることもあった。大きさは手の平サイズから3歳児ぐらいの大きさまでさまざまだった。
「バカヤロー、優先席なんだから席譲らんか!」
眼を吊り上げてお年寄りが優先席に座っていた女性に罵声を浴びせていた。
女の人は突然のことに涙目になって慌てて席を譲って逃げるように別の車両へ移動してしまった。優先席を譲るとか譲らないとかいろいろ意見はあるだろうけど、私が気になったのはぷりぷり怒っているお年寄りの肩に例の黒いヒトが乗っていることだった。
大きさは、手乗り文鳥ぐらいの大きさだろうか。私は見てみぬふりをしてそっと車両を移動した。
黒いヒトに取り憑かれた人は必ずしも投身自殺とかをするわけではないようだった。だけどさっきのお年寄りのようにものすごく怒っていたり、へんなことをつぶやいている人、あるいは気分を悪くしてる人の方とか背中、足元にはたいてい黒いヒトがまとわりついていた。柊さんのいうように決して取り憑かれたらいいことはなさそうだった。だから柊さんの言いつけを守り、黒いヒトを無視し続けていた。
そんなある日のことだ。
電話がかかってきた。相手は大学で友達になった美恵子ちゃんだった。
電話に出ると突然のみっちゃんの泣き声が飛び込んできた。面食らいながら話を聞くと、どうやら彼氏に手酷く振られたようだった。
とりあえず駅の近くの喫茶店で待ち合わせることにした。
「ううう、死にたい」
何時間もかけてようやく落ち着かせての別れ際にまたそんなことを言い出した。素直な良い子だけにダメージが大きいらしい。立ち直るのにはそれなりの時間がいるのだろう。
「馬鹿なこと言わないの。
そもそもみっちゃん全然悪くないから。相手が二股かけてたんでしょ。そんなのこっちから願い下げよ」
何を言っても虚しいとは思いながらも、出来るだけ元気づける。
「とにかく何も考えずに帰ったらすぐ寝るんだよ」
スンスンと鼻を吸いながら、みっちゃんは階段を上っていった。みっちゃんの家は私とは逆方向だから駅のホームは陸橋を跨いで対面になる。線路を挟んで最後のお見送りをしようと待っていた。
やがて、みっちゃんが姿を現した。私は出来る限りの笑顔で手を振る。
「あれ?」
みっちゃんはこちらには目もくれず、ヨロヨロと歩いていく。
「みっちゃーーん!」
手を振りながら声をかける。しかし、みっちゃんはまるで心ここにあらず、といった風に歩き続けていた。
「えっ?」
みっちゃんの背中が真っ黒に染まっていた。あり得ない光景に私は驚愕する。何て言うことだろう。例の黒いヒトがみっちゃんの背中にへばり憑いていた。
まずい……まずい、まずい、まずい
そう思った時には私は陸橋をかけ上っていた。構内アナウンスが電車の進入を告げていた。
ああ、まずい。電車が入ってきたら。みっちゃんは……!
転がるように階段をかけ下りて、みっちゃんの姿を探す。
いた!
みっちゃんはホームの前の方へふらふらと歩いていた。その先にはホームに進入してくる電車が見えた。
「ダメーー!」
今にも線路に飛び込もうとするみっちゃんに追いすがると、渾身の力で引き戻す。意味不明なうめき声をあげながら身をよじり、なおも電車へ身を投げようとするみっちゃんを必死に押さえつける。背中にへばり憑いている黒いヒトが目に入った。
無性に腹がたった。
私はみっちゃんの背中の黒いヒトを鷲掴みにすると地面に叩きつけた。
「私の友達に近づくな!」
腹の底から怒鳴りつけた。
黒いヒトを引き剥がしたとたん、みっちゃんは糸が切れた操り人形のようにぐったりとなった。みっちゃんを腕に抱えたまま、私は黒いヒトを睨み付けた。黒いヒトも私をじっと見つめていた、いや、いるようだった。なんとなく怒っているようにも見えた。やがて、黒いヒトは立ち上がるとひょこひょこと歩いて自販機の隙間に潜り込んだ。
「大丈夫ですか?」と駆け寄ってきた駅員さんが声をかけてきた。そこでようやく、ほっと胸を撫で下ろす。勢いとはいえ、黒いヒトに見えているのがバレてしまってどうなることかも思っていた。大事にならずに本当に良かった。
「はい。この子、少し調子が悪いようでどこかで休ませてもらえないでしょうか?」
みっちゃんを抱いたまま、私は駅員さんにそう言った。
□
結局、迎えに来てもらったお父さんの車でみっちゃんは家に帰っていった。
それを見送り、私も家に帰ることにする。
何だかんだと遅くなったけれど終電には間に合いそうだ。
ホームにつながる細く長い廊下を歩いていると、何故だろうか、人の姿などどこにもないのに気配が感じられた。歩きながら、何度も振り返り、振り返り進む。気配は徐々に強くなっていった。それに伴い、私の足も早くなる。なんともいえない胸騒ぎがした。
角を曲がって足が止まった。
黒いヒトがいた。
大きさは私の膝下ぐらいあった。
大きい。大きいのだ。
この大きさの黒いヒトは滅多に見ない。私も最初に投身自殺した男の人の頭にしがみついていたヤツとみっちゃんの背中にしがみついていたヤツの二回ぐらいしか見た記憶がない。そのサイズの黒いヒトが角を曲がった廊下の両脇にずらりと並んでいた。
「嘘……でしょ」
あまりの異様な光景に私は後退る。と、立ち並ぶ黒いヒトの一人が近づいてきた。
反射的にそいつを持っていたバッグで払いのける。
心の弱っている人がこれに取りつかれると正気を失うのは知っている。でも、普通の精神状態の人が取り憑かれたらどうなるんだろうか、と疑問に思った。なんにしても良いことがあるとは思えなかった。
逃げないと、と後ろを向いて絶句した。
いつの間にか後ろにも黒いヒトがいた。いや、後ろの方が多い。まるで黒い絨毯を敷いたように通路全体が真っ黒に染まっていた。
私はもう一度前を向くと、覚悟を決めた。
バッグをめちゃくちゃに振り回し、近づいてくる黒いヒトを蹴散らしながら階段を駆け上った。
階段を上がればすぐに改札口だ。改札口の駅員さんに助けを求めよう。
「あの、あの。すみません。変なヒトに追われていて……」
少なくとも間違ってはいない。
とにかく誰かと一緒に入れば黒いヒトも諦めるのではないか、少なくとも黒いヒトに取り憑かれて自分が正気を失っても駅員さんが止めてくれると期待していた。
私の言葉に駅員さんがゆっくりと振り返った。
振り返った駅員さんの首や胸、腹に複数の黒い人が取り憑いていた。
「ひっ?!」
その姿に私は後ずさる。苦し気に顔を歪めていた駅員さんの目がぐるりと白目に転じる。
「ううう、あああ」
呻きながら駅員さんが襲いかかってきた。とっさに身を捻って駅員さんをかわす。
さっきの疑問の答えを目の当たりできた。
複数の黒いヒトに取り憑かれると正常な状態の人も正気ではではいられなくなるようだ。
私は走りながら、その事実に恐怖した。
ホームのいたるところからまるで染みか浮き出るように黒いヒトが現れてきた。
黒い人がこんなに沢山いるなんて想像もしてなかった。もうすっかり囲まれてどこにも逃げ場がなかった。
さっきの駅員さんが両手をぶらぶら振りながら近づいてくる。
私はキョロキョロと逃げ場を探す。
丁度、そこへ電車が入ってくるのが見えた。
最終電車だ。
あれにさえ乗れれば助かる。
私はそう思うと電車に向かって走った。
電車は停止するとゆっくりと扉を開く。
私はそれに飛び乗る。
駅員さんがギクシャクした動きで近づいてくる。もうすぐそこまで来ていた。
早く 早く 閉まって!
私は心の中で念じる。
間一髪!
ガシュッ、と音がして、扉は駅員さんの目の前で閉まった。
ゆっくりと電車が動き出す。
それとともに駅員さんの姿は後ろへと流れていった。
とりあえず、当面の危険を乗りきったことに大きくため息をついた。
でも、この後どうすれば良いのか悩んだ。あいつらがこれで諦めるとは到底思えない。なんとか対策を考えないと、と思っていると不意に柊さんがくれたメモを思い出した。
あの日以来、お守りのように肌身離さず持っていたのだ。
携帯を取り出し、柊さんに電話する。何度かの呼び出し音の後、ようやく出てくれた。
「ああ、柊さん?」
私は嬉しくて叫んだ。
「ごめんなさい。私、やらかしちゃいました。黒いヒトに私が見えてるってことがバレてしまって。
それでたくさんの……黒い……ヒトに…………」
声が小さくなり、止まった。
目の前の信じられない光景に思考が停止する。
終電の車両には何人かの乗客が乗っていた。座席に座っている人。立って手すりを持っている人。その一人一人が私の方を向いていた。一人残らず、口元を歪め、白い目向いて、私の方をじっと見ていた。彼らの肩や背中には黒いヒトがへばり憑いている。
「ああ、そんな……」
私はその車両から次の車両に移動する。しかし、その車両にいる人たちも黒いヒトが一人残らずへばり憑いていた。私は逃げるように移動する。次の車両、そしてさらにその次と。しかし、どの車両も黒いヒトに取り憑かれた人しかいなかった。そうこうしているうちについに先頭車両に行きついた。
なんてことを。まさかこの電車の乗客全員が黒いヒトに取り憑かれているの?
そうだ! 運転手さんなら。
私は運転席のドアをどんどんと叩き、運転手さんの気を引こうとする。そして、絶望に囚われた。
運転手さんの背中に三人ほど黒いヒトが張り憑いているのを見てしまったからだ。
ガクン
急に電車の速度が上がった。
どんどん、電車の速度が上がっていく。危険なスピードだ。こんなスピードでカーブを曲がろうとすれば脱線してしまうだろう。
ああ、そういうことなのか
私は納得して、目を閉じた。
そうする間にも電車のスピードはどんどん上がっていった。
どんどん
どんどん
どんどん どんどん
どんどん
2020/08/27 初稿