最初の男の二つ目の話 ~ コインロッカー
「身近なところにぽっかりと開いている落とし穴のような存在。
それは本当にあるのかもしれませんね。
丁度、似たような話を知っていますよ。最もこれは、本人が自ら禁忌の蓋を開けてしまった話ではあります」
最初の男は、前置きをすると話を始めた。
悪くない 悪くない わたしは悪くない
絶対 わたしは悪くない
ぶつぶつと呪文を唱えるように呟きながら朝の町を歩き続ける。
引きずっているスーツケースががらがらと不快な音を立てる。がつんと道端の段差にぶつりひっくり返った。乾いた音がすでに明るい空に吸い込まれていく。
慌てて駆け寄ると、転んだ弾みで半開きになった蓋を慌てて閉める。閉めるときょろきょろとあたりを見回し、ほっとする。
よかった。だれもいない。
スーツケースから覗いてしまったものは誰にも見られていない。胸をなでおろすと再び歩き出す。でも、行くあてはなかった。このケースの中身をどうすればいいかも分からなかった。
□
鼻のあたまのてかりが気になって気になって仕方なかった。
なんどもスポンジで叩いてみたが消えない、無くならない。
「ママ。お腹すいた」
後ろから勝の声がした。
口紅ののりも今一つでイラつく。
「ママ、もう出掛けなくちゃなんないから、その辺にあるパンでも食べてなさい」
ガチャン
化粧台の上の瓶やらが勢い良く転がり神経に触る音を立てた。
この忙しい時に、とチッと舌打ちをつく。
「飲み物」
時計を見る。もう4時を回っている。急がないと遅刻だ。冷蔵庫を開けるがお茶とかを切らしていた。中から1.5リットルのスポーツドリンクをでんと机の上に置く。
のったりと勝が私の顔を見上げてくる。
「ああ、もう!」
キャップをはずして、もう一度机におき直す。全く手間のかかる。
「じゃあ、ママ、お仕事に行ってくるから。家で大人しくしているのよ」
そう言うとさっさと家を出た。
真夏の太陽に焙られて不快な熱気を立ち上らせるアスファルトを早足で駅まで歩いた。そこからお店までいく。
□
「おはようございます」
店の控え室にはもう二人ほどⅠ女の子の姿があった。どちらもだるそうに腫れぼったい目を向けるだけでなにも言わない。
挨拶ぐらい返せよ、と心の中で思ったが黙っておく。
「そうそう、洗濯物しまっておいてね。今日夕方から雨だっていってたのすっかり忘れてたから。うんうん、弟たちのことをちゃんと面倒みてね。お土産買ってくから。あい。じゃね」
声の主はサナエさんだった。源氏名で本名は知らない。この店の主のような人。入り口近くの壁に寄りかかり電話をしていた。
「ああ、チイちゃん。おはよう」
電話をしまうと、サナエが笑いかけてきた。
チイちゃんと言うのが私の名前だ。勿論本名ではない。
「おはようございます。娘ちゃんに電話ですか?」
「そう。洗濯物取り込んでもらうよう頼んだの」
「へぇ、偉いですね。洗濯物とか取り込めるんですか?おいくつでしたっけ?」
「中1。助かってるよ。弟や妹の面倒ちゃんと見てくれてね。あたしよりよっぽど母親やってるよ」
「そういやさぁ、チイちゃんのとこは幾つになるの」とサナエさんは聞いてきた。
「三歳半……です」
「三歳半? 一人で留守番させるのは危ないわよ。一人で生きていきたいって意地張るのは分からなくないけどね。自分の親とか頼ったほうがいいわよ。取り返しのつかないことにならないうちにね」
心配そうに忠告してくるサナエさんに「はい、そうですね。考えます」とあいまいに答えながら手じかの椅子に腰掛け、化粧の調子を見るふりをする。
『この人間のくず!』
『そんな風に育てて覚えは無いぞ。この親不孝者』
両親の罵倒が頭によみがえった。
親に頼る。そんなことができれば苦労しない。あんたとはちがうのよ。サナエのたるんだ二の腕やわき腹のはみ出し気味の贅肉をちらちら見ながら思う。
私はあんたとはちがう。まだチャンスがあるの。そう。勝さえいなければ、もっと身軽でさえあればなんにだってなれる。こんなくたびれた店でうだうだくすぶっていることなんかないんだ。勝……あの子さえ、
「みなさん。時間ですよ。本日も張り切ってまいりましょう。
さあ、みなさん。大きな声で復唱してください。
私たちのお仕事は、疲れた緒逆様を癒し、明日への活力を与える、尊いお仕事です・はい!」
部屋に突然現れたマネージャーがいつもハイテンションでまくし立ててきて、私は思考を中断させた。
「「「私たちのお仕事は……」」」とサナエさんたちが壊れたテープレコーダのような気分のこもらない声で復唱しだした。黙っていたら、ぎろりとマネージャーが私のほうをにらんできた。
小さく溜息をつくと私も復唱に参加する。
「「「「……への活力を与える、尊いお仕事です」」」」
□
「チイちゃん。お絞り三つ。冷ね。いらっしゃいませ。お久しぶりですね。どうしてました」
いつもの店の喧騒。
酒と汗と化粧品が混ざりあった臭い。そこでは私はだれでもない。
チイという名はあるがそれは記号のようなもの。チイであることに意味はない。ゼロでもパアでもなんでもいいのだ。そんなことにだれも気をかけたりはしない。
いや、お店の中でも外でも同じかもしれない。自分のことを気にするものなんかこの世の中にだれもいやしない。
□
『子供ができた?』
両親の蒼白な顔が今でもはっきりと思い出せる。
高校三年の頃だ。
好きな人ができた。バイト先の先輩。年上の大学生。
運命の人だと思った。
子供ができたと分かった時、だって運命の人だもの、当然だと思った。でも私の両親は世間体を、いや、世間体しか気にしないクズだった。
産むな、と言われた。私と彼の運命の子を産むな、と言った。そういうのを世間様はクズと言うことを知らないような最低な存在だった。
□
「なあ!ほんと、バカ上司だろ? そんなのできっこねーじゃん。それをなんも知らねーでやれやれの一点張りだもんなぁ。たまんねーよ。
おっ?チイちゃん、飲んでる?」
「うん、飲んでるよ」
ズズズとストローで音を立て、空をアピールする。
「何だ、空じゃん。頼んでいいよ。好きなの頼んで」
「あざーす。じゃ、ハイボールいいかな」
「ほんと、まあクズ野郎なわけよ」
□
『こんなに世話になっておきながら、私たちの顔に泥を塗るなんて!
あんたは本当に人間のクズだよ』
グズにクズ呼ばわりされて頭に血が昇った。
だから家を出た。二人で生きて行こうと思った。上手くいくと思った。だって二人は運命で結ばれたのだから。
□
「チイちゃん。ご指名よ」
「は~い。今いきます」
笑顔で席を立ち、ご指名のお客様のところへ行く。見慣れた顔にニッコリ微笑み、横にしなだれかかる。
「いらっしゃい。ほんと久しぶり。二週間ぶり?」
「うん、そんぐらいかな」
マコトさんは私の差し出したお絞りを受けとるとそう答えた。いつもの調子で生を二人分注文する。
「「かんぱ~い」」
ビールジョッキを二人で重ねて、笑い合う。
しばらく近況や他愛ない世間話に花を咲かしてからマコトさんが耳元で囁いた。
「今晩、お店終わった後にどう?」
その誘いに答えず、曖昧な笑みを浮かべる。
「う~ん。どうしょうかな」
「な、な、いいだろ。一緒にゆっくり飲もうよ」
クスクス笑いながら、頷く。一瞬、勝のことが頭を過った。大丈夫。ドアもベランダの窓も鍵が掛かってる。あの子には手が届かないから開けられっこない。ガスも同じく安全だ。
一晩ぐらい大丈夫。それに私はあの子の奴隷じゃないんだから。
□
運命の二人。だから、絶対上手く行く。
そんなのは妄想だった。
臨月間近の病院で私は独りぼっちだった。
逃げたのだ。いや、逃げられたというのが正解か。勝という重荷だけを残して。
□
店が終わって外に出てみると、ものすごい雷雨だった。
「チイちゃん。マネージャーが車で送ってくれるって」とサナエさんが声をかけてきた。
「いえ。私はちょっと当てがあるので」
「当て?
ああ、そう。まあ、ほどほどにね。
マネージャー!ちょっと悪いんだけどコンビニ寄って。娘ちゃんにケーキ買ってく約束したからさ」
サナエさんが察したように去っていくのを待っていたように背後の闇が突然明るくなった。振り向き、ヘッドライトの光に目をしょぼつかせ、私はゆっくりと光源のところまで歩いていく。運転席にはマコトさんがいた。助手席に体を滑り込ます。
「ごめんね。お客さんが中々引かなくて」
「いいよ。酔い醒ましには丁度良かった。
しっかし、こんなザーザー降りだとさ、どっかで飲み直すのもかったるいな。
なあ、俺の家にこない?」
「えっ?」
一瞬、夜の闇が稲光で真っ白になった。
その映画のスクリーンのように夜空にテーブルに向いて寂しそうに座る勝の姿が一瞬映ったように思えた。
その幻影を振り払う。
もうあの子は寝ているに違いない。なら、明日の朝に帰っても変わりはしない。エアコンだって効いている。何の心配もない。
私はYesと答えた。
車は激しい雨の中、走り出した。
□
「「乾杯」」
重ね合わせたワイングラスが小気味良い音を立てる。
マコトさんは微笑みながら熱い視線を投げかけてきた。私も潤んだ瞳で見つめ返す。
マンションの最上階に近いワンルーム。
調度品もなかなか高級品に見えた。金持ちオーラがぷんぷんと発散されている。確か、どこかの会社社長の御曹司とか言っていた。ことによれば玉の輿も夢ではないかと妄想が広がる。
「ねえ、チイちゃんは一人身?」
何気ないマコトさんの言葉が私を現実に引き戻す。残酷な現実。勝の顔が頭を過る。
「ええっ!結婚してるように見える~?」
「いや、そんな風には見えないよ。ただ、付き合っている人の一人、二人いないかなっと思っただけだよ」
「もう、やだな。結婚なんてしてないし!」
それは本当。
「今はフリー」
これも本当。
「……一人身だよ」
これは嘘だ。
だからなに?
良いじゃない。誰にも迷惑をかけるわけじゃなし。
「そうかぁ。それを聞いて安心したよ」
「えっ?な、なんで安心するの?」
少し胸がドキドキした。
これってもしかして……
マコトさんの顔がすーっと近づいてくる。ほとんど触れあわんばかりになる。二人の唇が重なった。雷が閃き、漆黒の町をまるで真昼のように照らし出した。次の瞬間、何万と言うワイングラスをぶちまけ、割ったような雷鳴が轟いた。
「あっ?!」
電灯が消え、部屋が不意に真っ暗になった。
「て、停電だよ」
「そうだね」
暗闇の中、見えなかったが目の前にマコトさんの顔があるのがわかった。吐息が頬に触れる。マコトさんに肩を抱かれ押し倒される。
「ねっ、いいだろ?」
甘えるような囁き声。耳朶が心地よく震える。お腹の中がきゅっと締まる。
稲光が煌めき、室内を刹那照らし出す。
その光の中に浮かび上がるマコトさんの顔。
暗転。
何もかも幻想的で夢を見ているようだ。
「ねっ、いいよね」
幼子がおねだりをするような声。その手が私の胸にかかる。
抵抗はしない。
力が抜ける。
フラッシュのようにピカリと空が光った。真っ白な空を背景に上半身裸のマコトさん。
力が抜ける。ぐにゃぐにゃになる。ぐにゃぐにゃになって身も心も全てマコトさんに投げ出した。
□
「あちぃ」
暗がりの中、マコトさんが呟く。
カチリとスイッチの入る音がするとブーンとうなり音がした。
やがて、冷えた風が背中を撫で始めた。
エアコンが動き出したんだ。とベッドの上で、トロトロとした甘いまどろみの中で、私は思った。
電気はいつのまにか回復しているようだ。雨もすでにやんでいた。
体をぐっと抱き寄せられてキスされる。
どこかでカチリとスイッチが入ったような感覚があった。
体の芯がじんじんと熱くなる。
錆び付いていたヒーターに電気が通い始めたようにあっという間に私の中の何かが真っ赤に燃え上がる。
「ああ、マコトさん……」
熱に浮かされたようにマコトさんにむしゃぶりつく。燃え上がる体の中の何かに従い、私はただひたすらに欲望の海に溺れていった。
□
昼間でベッドの中でマコトさんとイチャイチャした後、遅い昼食を外で取った。
「海でも見に行こう」と言うマコトさんの言葉に私は黙って従った。
海はサイコーに綺麗だった。
昨日の雨が嘘のような真っ青の空に夏の雲がどこまでも高く登っていた。それを見ているとこの世界に二人しかいない、そんな気分になった。
丘の上に建つ洒落たペンションのようなレストランでランチを食べ、そして、昨日の続きをした。
結局家に帰ったのは夜の9時を回っていた。アパートの階段を上り始めた時、急に勝にすまないと言う気持ちが湧いてきた。
「ごめんね、勝」
カチャカチャとドアを開けながら開口一番謝った。むあっという熱気が出迎えた。
どういうことだろう。エアコンは入れっぱなしの筈なのに。
「勝……」
リビングに入る。やはりエアコンは止まっていた。勝の名前を呼ぶ。返事はない。
いやな予感がして勝の名前を呼びながら部屋を見回す。そして、テーブルの下で倒れている勝を見つけた。上半身裸。一目みて、血の気のないのが分かった。
慌てて駆け寄り、抱き起こそうとして思わず手を離した。まるで彫刻のように硬かった。
勝の体が床にあたってゴトリと音を立てた。
「勝、勝、起きなさい、勝」
死んでいることは直感的に分かったけれど、それでも諦めきれず体をゆすり何度も名前を呼んだ。しかし、勝が目を覚ますことはなかった。
ああ、どうしよう。
頭の中に、「幼児虐待死」、「育児放棄」という単語がぐるぐると渦巻く。ばれたら、もう私はおしまいだ。なんとかしないと。でもどうすれば……
途方にくれているとふと視界の片隅に赤いスーツケースが見えた。
そう、まず、死体を隠さないと。
□
スーツケースを抱いたまま、電車に揺られていた。目的地があるわけではない。
とにかくどこか遠くへ。
私のことも勝のことも誰も知らない場所へ行きたかった。
できれば山かどこか人のこないところ、たとえば富士の樹海のようなところへスーツケース捨てる、そんな漠然として考えで何度も路線を乗りついで、ついに名前を聞いたことも無い駅で降り立った。
陽はもう傾き始めていた。
ほぼ一日中飲まず、食わずで電車に揺られていたので駅の改札口を出た頃には精も根も尽きていた。呆然と遠くに見えるうっそうとした山々を見つめていた。
とてもあんなところまで、スーツケースを引きずっていくことなんかできない。それも誰にもみられずに、だ。
土台、むりなのだ。
我ながら自分の無計画さにあきれた。
そうよ。私は馬鹿よ。馬鹿だから、男に騙されて、知らない間に重荷を背負わされて、結局こんな貧乏くじをひくことになったんだ。
西日がじりじりと照りつける。
頭がぼうっとしていた。
もうどうでも良い、そんな自暴自棄な気持ちになった。そんな時、古ぼけたコインロッカーが目に入った。ちょうどスーツケースがまるごとは入りそうなサイズのロッカーもあった。
どこかでヒグラシが夕暮れを告げるように鳴きだした。
一瞬の躊躇の後、私はスーツケースをそこに押し込む。そして、後を振り返ることなく、逃げるように駅を立ち去った。
□
携帯が鳴っていた。
お店からの電話だ。あれから二日たっていた。あの日からお店にも出ていない。無断欠勤だから出なくても用件は分かる。だから無視した。
しつこく鳴っていた携帯が切れるとネットを調べた。
3歳ぐらいの幼児の死体遺棄の記事を見つけた。コインロッカーで見つかったと報じられていた。駅の名前などは伏せられていたが、勝のことなのは間違いないだろう。
記事の内容を貪るように読んだけけれど大したことは分からなかった。自分に繋がりそうなことも一切かかれていない。本当に何も分かっていないのか、それとも伏せているだけなのかは分からない。
自分に繋がるものは何もないはず、だからきっと大丈夫。そう、何度も自分に言い聞かせた。
私は電車に揺られていた。
車窓から差し込む西日が目をじりじりと焼き神経に障った。
見知らぬ駅で降りる。
あたりには誰もいなかった。私は引きずっていたスーツケースを古ぼけたコインロッカーに押し込む。鍵をかけ、足早に立ち去ろうとする。
「……ママ……」
微かに私を呼ぶ声がした気がして立ち止る。
「ママ……」
ゆっくりと声に向き直り、息をのむ。
確かに鍵をかけたはずのコインロッカーの扉がゆっくりと開いていくではないか。
「ママ」
扉が開くにともない声も大きく、はっきりしてくる。
ロッカーの扉が完全に開いた。
勝が立っていた。「ママ」と言った。
「いやぁ」
絶叫して目を覚ます。全身が汗でぬれていた。
夢だ。
荒い息で胸を波打たせながらつぶやく。
いつの間にか眠っていたようだ。
そういえば、コインロッカーの鍵はどうしたんだろう。持ったままだと、それが自分と勝をつなぐ致命的な証拠になることに思い当たった。私は必死に思い出す。確か、ポケットかどこかにつっこんだままな気がする。あの時着ていた服は……
クローゼットの中だと思い当たる。
私はクローゼットを開けて、固まった。
勝がいた。クローゼットの中に勝がいたのだ。土気色の肌。顔や上半身のところどころに紫色の死斑が浮いている。
「ママァ……」
「うわあぁーー」
大声をあげて、目を見開く。薄汚れた天井が視界に映っていた。
「……夢……なの?」
顔だけ動かし、周囲を見回す。いつものアパートのリビングだ。何の異常もなかった。当然、勝の姿などどこにも無い。クローゼットの扉もきちんと閉まっていた。
夢から覚めた夢を見ていたのか。
ふらふらと立ち上がり、クローゼットへ近づく。さっきの夢の光景が頭にこびりついて開けるのがためらわれたが、呼吸を整え、クローゼットを開ける。
クローゼットの中には服がぶら下がっているだけだった。勝の姿はなかった。当たり前だがほっとした。
目当ての服のポケットからは案の定コインロッカーの鍵が出てきた。どこかでこれを始末しなくては、と思った。
その時だ。呼び鈴が鳴った。
ピンポーン
心臓が止まるかと思うほどの驚きで、ドアを見つめる。世の中から見捨てられた母子が住んでいる場所に訪問客などほとんどない。一体誰だというのだろう。
覗き穴から外を見ると、見知らぬ男が二人立っていた。
「どなたですか?」
「警察のものです。すこしお話が聞きたいのです」
その言葉に体が縮み上がった。動揺を精一杯隠し答える。どうか声が上ずっていることに気づかれませんように。
「どのような用件ですか?」
「えっと、お子さんのことです。まずドアを開けてもらえませんか?」
冗談!絶対開けない。
「勝がどうかしましたか?」
「勝さんと、言われるのですか?
えっと、勝さんの姿を確認させてもらえれればそれで用件は終わります。
なので、すみませんが、ドア、開けてもらえませんかねぇ?」
刑事はしつこそうだった。観念してドアを開ける。でも、部屋には入れない。刑事たちは部屋の中を確認するように首を伸ばす。
「えっと、勝さん、でしたっけ。お子さんを確認させてもらえませんか?」
「何でですか?」
「最近、コインロッカーで子供の遺棄事件がありまして。その関係です。お子さんの姿が見えないようですが?」
心臓が破裂しそうだった。なんとしても誤魔化さないと。
「今はいません」
「いない? 今はどこにいるんですか?」
「は、母……、両親のところにいます」
勿論、嘘だ。両親なんてここ何年も連絡すらとっていない。二人の刑事は無言で顔を見合わせる。
「さしつかえなければ、連絡をとってもらってよろしいですか? 勝さんの声を確認させてもらえればそれで、終わりです。あっという間ですから」
顔や声の調子は穏やかだったが、有無を言わせない圧力が感じられた。私は、しぶしぶ携帯で電話をする。勿論でたらめな電話番号にかける。当然、どこにもつながらない。
何度か呼び出し音を確認してから携帯を切って、残念そうに首を横に振った。
「……駄目です。外出しているみたいでつながりません」
「そうですか。すみません。ご両親の連絡先を教えていただけませんか?こちらから時間を置いて確認させてもらいたいのです」
「困ります。警察から電話がきたら、要らぬ心配をさせることになります」
「そこを何とかお願いします。ちゃんとご説明をしますから。
それとも、もう少し時間を置いて、電話をしていただいてもかまいません。我々、待ちますから」
このまま居座られるのは最悪だった。観念して電話番号を伝える。
「外で食事とかしていると思いますので、1時間ぐらい後にでもかけてください」
「了解しました。ご協力ありがとうとうございます」
ドアを閉じ、刑事たちが立ち去るのを確認すると、急いでバックに必要と思われるものを詰め込んだ。
こんなのは単なる時間稼ぎに過ぎない。1時間もすれば、刑事たちは両親に電話して、私の言ったことがでまかせだと分かる。そうなれば、すべておしまいだ。逃げなければ。とにかくどこかへ逃げなければ。私の頭の中はそれだけで一杯だった。
10分ほどで私は部屋から逃げ出した。行く当ては無い。ただ、とりあえずマコトさんを頼ろうと思っていた。
責任の一端は、あの人にもあるんだから、絶対に責任をとってもらう。そう思った。
「ずいぶん、お急ぎ気のご様子ですが、どこへいかれるんですか?」
後少しで駅、というところまで来た時、不意に声を掛けられた。
振り向くと先程の刑事たちが立っていた。張り込まれていたことを瞬間的に悟る。もう、どんな言い訳も聞いてはもらえないだろう。
私は何も言わずに逃げ出した。
□
「あれ、くそ。見失ったぞ」
「まずいっすね。始末書モンですよ」
「女の足とかなめてたな。お前はあっち調べろ。俺は駅の改札口で聞いていくる」
「了解」
真っ暗な空間の中、私は耳を澄まして刑事たちの会話を聞いていた。
どうやらうまくいったようだ。
角を曲がり、駅へ逃げる途中、コインロッカーが目に入り、とっさにその一つに体をねじ込んだのだ。
刑事たちが走り去る音を確認すると、そっとコインロッカーの扉を開け、外の様子を伺う。
誰もいない。今の内に逃げよう。そう思った時、背後から声が聞こえた。
「ママァ……」
体が凍りつく。
狭いコインロッカーの中は私の体で一杯一杯だ。背後から声が聞こえるなんてありえない。いや、声が聞こえること自体ありえない。
「ママ、暑いよぉ」
聞き覚えのある声、忘れようにも忘れられない声。私はゆっくりを振り返る。しかし、コインロッカーの中は真っ暗で何も見えない。ふと、首にちいさな手が抱きついてきた。それは、その感触は紛れも無く、あの子のものだった。母親なんだから、間違えるはずがない。
「ま、勝なの?」
何も見えない暗闇に向かって、私は精一杯の優しさと懐かしさを込めてささやいた。
「ママァ」
勝の甘えたような声がコインロッカーに幾重にもこだまする。そして……
ゴリュ
□
「ああ、あった。コインロッカー」
「ふう、暑いねえ。その大きいのに二人分入るんじゃない?」
「そうだね。あっ、気をつけなよ。もしかしたら女の人の生首出てくるかも」
「イヤだぁ。例のあの事件でしょ?コインロッカーから女の人の生首出てきたヤツ。
マジ、シャレになんないって。
ほら、貸して。ヨイショっと。これでよし」
「でもさ、真面目な話はこの路線の駅のロッカーらしいよ」
「へー、ヤバいじゃん。じゃあ、ここかも知れないねぇ。
ほいじゃ、どこ行く?
まず、どっかでコーヒーでも飲むか?」
「だねぇ。うんとあっちの方にあるみたい」
「……」
「なに?どうしたの」
「うん。なんか、今、子供の声が聞こえたような」
「へっ?何にも聞こえなかったよ。何て聞こえたの?」
「う~ん、なんだろ。
甘えたような声でさ……『ママァ』って」
2020/08/25 初稿




