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2番目の男の一つめの話 ~ 異界トイレ

「成る程、成仏できない人と言うのは無自覚に同じことを繰り返すと言いますからね。気づくまで永遠に繰り返されるというのは怖い話です。

それでは、今度は私が話す番ですね。

さて、どんな話をしましょうか。

そうですね……。『神隠し』ってありますよね。

突然人がいなくなって、いくら探しても見つからないってやつです。

あれは私たちの住む世界とは違う別の世界に紛れ込んでしまう、という説があります。

それで、その別の世界の入り口っていうのは、案外私たちのすぐ近くに静かに口を開いていたりするんじゃないですかね。ただ、私たちがそれに気づいていないだけなんですよ。

ほらほら、鳥居とか注連縄しめなわ。あれは呪術的な結界の境界線の意味があると言います。

鳥居のこちらか見えてる風景とひとたび鳥居を越えた先の風景が同じとは限らない。

不用意にその下をくぐるとその先は……

これは、そんなお話です」


と2番目の男はゆっくりと話し始めた。


「あっ、ダメ。漏れそう」


 わたしは急激に襲ってきた尿意のために額に脂汗をにじませた。


 これはまずい。一刻の猶予も無い


 わたしは、そわそわと座席から立ち上がった。

 やはり、別れ際にもらったブラックの缶コーヒーなんて一気飲みするんじゃなかった、と後悔しても始まらない。田舎のローカル列車に車内トイレなんて洒落たものはない。

 車窓から列車の進行方向へと目を向ける。線路が延々と延びていた。

 軽い絶望を感じながら、早く駅に、早く駅について、と体を小刻みに揺らしながら一心に祈った。

 やがて、電車のスピードが落ち、停車駅が近いことを教えてくれた。がんばれ、わたし!


「……駅です」


 集中しすぎて、駅名を聞きそびれたが、そんなことはどうでもいい。


 早く止まれ!


 飛ぶ鳥をも落とす強い念を電車に送る。その甲斐あってか、がくんがくんと車体をゆすり電車はとまった。

 車窓の向こうにはさびれたホームが見える。

 完全に止まってから扉が開くまでの時間がやけに長く感じられた。


 はやく はやく はやく


 私は体をせわしなくゆすり尿意に耐えた。

 プシューという音とともに扉が開く。扉が完全に開くのなんて待っていられない。半分も空いていない扉に体をねじこむようにしてすり抜け、ホームへと躍り出た。

 初めて降りる駅だった。

 一体どこにトイレがあるのだろう? 

 歯を食いしばって周囲へと目を走らせる。少なくとも今立っているホームにはなさそうだった。


 すると階段を降りた改札口の横か、それとも外だろうか?


 と思っていると向かいの反対路線のホームの片隅に同じみの男女のあのマークを見つけた。

 あった! と思った時にはもう、ダッシュしていた。転がるように階段を降りると改札口、横目でちらり見したら無人だった、を通り過ぎ、目的の反対路線のホームへ続く上り階段へ走る。

 走る。走る。

 走れメロスもかくや、という勢いで走る。

 しかし、階段口はまで到達して、その動きをぴたりと止めた。

 ホームへの階段は途中半分ぐらいのところで何枚もの板で封鎖されていたのだ。

 赤い文字で大きく『立ち入り禁止』と書かれた看板も貼られていた。

 わたしは絶望にめまいを覚えた。


 廃路線のホームなのか? 


 ならトイレは別に設置しろよ! と心の中で絶叫する。

 下腹部の張りは既に鈍い痛みを伴い始めていた。残された時間は少ない。

 と、仕切り板の下の方が剥がれて隙間が空いているのに気がついた。ぎりぎり這いずってくぐれそうな隙間だ。

 改札口の外にトイレがあるとは限らない。迷っている暇はなかった。

 制服が汚れるのも気にせず、仕切り板の下をくぐる。

 

 くぐり抜けるとスカートの埃を払うのももどかしく階段をかけ上る。トイレは確かホームの真ん中辺りの待合室の隣だった。位置を確認する。

 あった。

 残り距離は20メートルぐらい。大丈夫、私はまだ頑張れる。自分に言い聞かせると猛然と走り、トイレに駆け込んだ。

 むわっとした異臭に思わず顔をしかめる。

 カビ臭さというのか、なにかが腐ったような臭いだ。もしかしたらネズミかなにかの死骸があるのかもしれない。

 果たしてどのくらい使われずに放置されていたのだろうか。普段なら嗅いだとたんに回れ右をするレベルの臭気だったが今は非常事態だ。我慢して個室のドアを開ける。

 淀んだ空気が身体にまとわりついてくる。不快感より和式であったことにほっとした。さすがに何年放置されたか分からない洋式の便座に腰かけるには勇気がいるだろうと思っていたからだ。和式ならしゃがむけど便器に触れずにすむ。

 便器を跨ぎ、下着を下ろす。





 間に合った


 しみじみと安堵のため息をついた。しばらくしゃがんだ格好で放心する。

 どのくらい放心していたのだろう。ようやく気を取り直した。下着を戻し立ち上がり、ノブに手をかけた時だ。


        グチュリ 

      グチュ 

   グチュ


 奇妙な音がドアの向こうから聞こえてきた。

 今まで聞いたこともない音だった。


    グチュ ズリズリ 


  ピチャッ


 なにか柔らかいものを床に落としているような音だ。一体どうやったらそんな音が出せるのか分からなかったが、生理的嫌悪感を掻き立てる音だった。事実、首の後ろや二の腕の毛が粟毛たった。


 ズリュズリュ 

ズズズズズ


 音はゆっくりと近づいてきていた。

 なんで突然そんなことになってしまったのか全く理解不能だったがなにか得体のしれない存在がドア一つ隔てたところにいるのは間違いなかった。絶対にこのドアを開けては駄目だと、本能が報せてくれる。


ズリ ズズズズズ


ジャリジャリ


 木製のドアが小刻みに震える。思わず手にしていたノブを放す。

 何かがドアを(さす)っていた。


ジャリジャリ ズ、ズズズズ

ジャリジャリジャリ


ズズズズズ ズズズズズ

ジャリジャリジャリ 


 全身に汗が滲む。さっきの脂汗とは違う汗だ。


ジャリジャリジャリジャリ

ジャリジャリジャリ

ジャリ……ジャリ


 音が止んだ。

 心臓がばくばくと脈打つ。息苦しくなるのを我慢し、ドアの向こうにいる『何か』を見極めようと薄汚れたクリーム色の板を凝視し、そして耳を澄ます。

 ことり、とも音はしなかった。

 さっきまでのあの異様な音がまるで嘘のようだった。

 もしかしたら夢でも見ていたのか、とそんな風に思い始めた時、足元をさわさわと撫でるものがあった。

 そっと足元を見て、ぎょっとなる。

 ドアの下の小さな隙間からなにが細長いものがうねうねと個室に入ってきていた。節くれだった昆虫の足というか、大きなミミズというのか。一目見ただけで、現実世界のものではないと分かる代物だった。それが足首にまとわりつこうとしていた。それも一つではない。2本、3本……どんどんと隙間から中へ入ってくる。慌てて後ろに下がるが狭い個室では、すぐに背中が壁にぶつかった。逃げることはできない。

 触手、といって良いのか?はうねうねと個室の床をまさぐるようにのたくる。

 

中を、この中を探っているんだ

 

 そう直感するのと、振り払った触手が再び足にまとわりついてくるのはほとんど同時だった。

 声にならない悲鳴を上げながら、必死に足を動かし触手を振り払う。しかし、触手は振り払っても振り払ってもしつこくのたくりながらまたまとわりついてくる。パニックになって、触手の一つを思い切り踏んづける。


 ビチャリ 


 風船がはじけるような音と共に触手がつぶれ、あたりに真っ赤な血のような液体を撒き散らした。

 思ったよりももろい。もう一本、踏み潰す。ビチャリとやはり簡単につぶれた。

 必死になって、まとわりついてくる触手を踏み潰していく。床が真っ赤に染まり、魚が腐ったような生臭い臭いに満たされる。

 と、しつこくまとわりついてきた触手の動きが急に止まると潮が引くようにドアの隙間へ消えていった。


 あ、諦めたの……かな


 ドン!

 

 突然、ドアが鳴った。


 ドン! ドンドン!


「ひっ!」

 

 ついに悲鳴を上げてしまった。

 ドアがびりびりと振動する。何かがドアを叩いている。いや、叩いているんじゃない。叩き壊そうとしているのだ。叩き壊して中に入ろうとしている。


 バキン


 金属が軋む音がして、鍵が半壊する。


「駄目!」


 慌ててドアに取り付く。がん、と外側から激しくドアが叩かれる。重い一撃に背筋が寒くなる。なにか相当重量のあるものがドアの向こうにいるのだ。


 ドン ドン ドン ドンドン


「なんなの、なんなの、なんなのよ!」


 ドアの向こうにいるものに向かって、私は悲鳴を上げる。

 渾身の力でドアをおさえていないと、あっという間に押し負けそうだった。

 ビシッといういやな音がした。ドアに縦に黒い筋が走る。

 

 駄目だ。ドアが壊れる


 ドアの上半分が弾け飛び、木っ端が舞う。はじける木の板を反射的に避けようとして尻餅をついた。

 床についた手のひらにネチャッといういやな感触が広がる。さっきの血をぶちまけたような床が頭の中に思いだされた。でも、手のひらがどうなっているかを確認する余裕はなかった。

 私の目は、割れたドアの隙間から覗く()()に釘付けになっていた。

 

 イソギンチャク。例えるならそれが一番近いだろうか?それとも超特大、人間サイズ、のイチゴかリンゴのゼリー?

 ドアの向こう側にいた()()()は赤みがかったぶよぶよした半透明の物体だった。直接見てもそれが生き物なのか、物なのか分からない。もしも生き物だとしたら……。

 いや、こんな生き物なんてテレビかマンガの世界にでも入り込まなければ、お目にかかれない。

 半透明の体の中には黒っぽいボールのようなものが透けて見えた。大きさは野球のボールからボウリングの玉ぐらいとまちまちだが、水飴の中の気泡のようにゆっくりと上下に蠢いていた。その玉からさっきドアの隙間から侵入してきた例の触手の様なもの生えているようだ。触手はぷよぷよした体表(?)を貫通してうねうねのたくっていた。じっと見ているとウジとかミミズを連想してしまい、気持ち悪くなった。

 見ているとズズズズと他の触手よりも明らかに太い触手が現れた。人の腕の二倍ほど太い。そして、その隣からもう一本同じような太さの触手がゆっくりと出てきた。二つの触手はカタツムリの目のようにゆらゆらと左右に揺れる。揺れながらゆっくりと先端が私のほうをむく。

 ヤバい。これはきっとヤバいことになる。

 嫌な予感しかしなかった。『ぶよぶよ』から目を離さず、手探りでなにか役に立ちそうな物をまさぐると、ドアの割れた木片が手に触れた。

 『ぶよぶよ』の太い触手の先端がエイリアンの口のようにパカッと割れた。凶悪な歯が見える。


「いやぁ!」


 襲いかかってきた触手を握った木片で打ち返す。分厚いゴムの塊を殴ったような感触だった。

 手がじんじんと痺れる。

 踏みつけたら簡単に潰れた触手とは違ってかなり頑丈だ。

 とにかく逃げないと。頭の中はそれだけだった。

 立ち上がるとドアを引いて、襲いかかってきた触手をドアと壁で挟む。手に持った木片を床とドアの隙間に蹴りこんで即席のドアストッパーにする。

 ドアに挟まれて身動きがとれなくなった『ぶよぶよ』はブルブルと体を揺すり、必死に触手を外そうとし始める。その隙に個室から脱出する。


「な、なんなのここ?!」


 トイレの外に出た私は、思わず叫んでいた。

 さっきはまるで気がつかなかったけれど、空がピンク色だった。夕焼けとかではない。確かに午後の遅い時間ではあったけど、この季節ならまだ夕暮れには間がある。それに夕焼け色とはまるで色合いが違っていた。合成染料をぶちまけたような目がちかちかする色だ。それに……


「太陽が二つ?」


 空には青白い光を放つ球と線香花火のような暗い赤色を帯びた光球が浮かんでいた。

 

 ああ、ここ。私の住んでいる世界じゃないんだ。


 と頭の奥のほうでそんな考えが湧き起こる。よくよく見ると、ホームの周囲もとんでもないことになっていた。周囲には何も無くなっていた。サハラ砂漠のど真ん中に駅のホームだけを建てたなら、ちょうどこんな感じになるのだろうか。茶色い砂丘が四方の視界の届く範囲で続いていた。

 いや、おかしいだろ。さっきまで私は田舎とはいえ、町中を走る市電に乗っていたのだ。見慣れた家やビル、アスファルトで舗装された道路はどこへ行ってしまったのだ?

 そもそも、私が乗ってきたはずの路線も、尿意を我慢して降りたった対面のホームもない。


「どうなっているのよ」


 頭がおかしくなりそうだった。いや、ひょっとしたらもうおかしくなっているのかもしれない。

 ビチャリ、ビチャリと耳障りな音に振り向くとトイレからさっきの奴が出てきた。

 

 まずい。私を諦めていないのだ。

 

 逃げなければ、と思うが、でも、どこへ? という疑問が即座に返ってきた。ホームから降りてどこまでも続いている砂の世界を永遠に逃げるのか? 

 とても助かるとは思えない選択だ。

 

 ジュルリ ジュルリ


 『ぶよぶよ』はゆっくりだが確実に近づいてくる。戦って勝てるだろうか? そう考えた時だ。パアーーン、という甲高い音がした。電車の警笛のような音。

 もしかして電車が来たのだろうか? 電車ならそれに乗って逃げれるかもしれない。

 期待を込めて、警笛のしたほうへと目をむけて、絶句する。

 黄色い砂煙を舞い上げながら、私の立つホームに向かってくるものがあった。しかし、それは確かに電車ほどの大きさだけど、電車ではなかった。遠目にも分かる。なんというのか巨大な唇が歯をむき出して、ものすごい勢いで突進してきていた。あと数十秒もすればここに到達するだろう。


 無理。


 目の前の『ぶよぶよ』はともかく、あんなのには勝てない。やはり逃げるしかない。逃げるしかないけど一体どこへ逃げればいいんだろう。


 山に迷ったら、最初のところへ戻れ。

 

 不意にそんな格言が頭をよぎった。最初の場所とは、すなわちあの階段の仕切り板のところだ。

 勿論、リスクはある。仕切り板を潜り抜けても元の世界とは限らない。ここと同じ世界だってことも大いにありうる。そうなれば逆に自分から逃げ場のない袋小路に入り込むことになるだろう。

 でも、今はそこにかけるしかないと思った。『ぶよぶよ』の横をすばやくすり抜けると階段へと走る。

 走る私の後を『唇列車』の足音(?)が追いかけてくる。

 

      シャカシャカシャカシャカ 

    シャカシャカシャカシャカ

  シャカシャカシャカ

 

 階段の降り口のところに到達すると、階下をみる。仕切り板があった。下のほうの隙間もある。

 内心、ほっとする。下へ降りる階段がなくなっていたらどうしようと思っていたのだ。後はあの仕切り板の先が私の世界につながっていることを願うばかりだ。 

 階段を二、三段下りて思わず立ち止まる。顔に何かが触れた。すごく気持ち悪かった。例えるなら、歩いている時に顔にクモの糸に引っかかった時のあれだ。

 顔に手をやり触れたものをとる。指に何かが絡んでいる感触はあるのだけど、実体は見えない。その辺もクモの糸と同じだ。 

 クモ…… 

 いやな予感がする。とても嫌な予感が。

 そっと階段の天井に目を向ける。

 天井には毛むくじゃらな毬のようなものがびっしりと貼りついていた。


 ポトリ


 毬が一つ足元に落ちた。落ちた毬は弾みも転がりもしなかった。地面に吸い付くようにピタリと止まる。その不自然な動きに首をかしげているとぞわぞわとこれまた毛むくじゃらな脚が幾つも出てきた。ぼこりと毬の一部が陥没する。その穴には上下に二本ずつの黒光りする針のような牙が見えた。


 キー、キーと耳障りな金切り声を上げながら、()()()()()()()がわしゃわしゃと私の足元に近づく。


「ひゃぁ!」


 思わず悲鳴が出た。


 ボトリ ボトリ ボト ボト ボト


 それを合図にするように天井の毬がぼとぼとと私に降りかかってきた。


「あ、痛っ!」


 腕に鋭い痛みが走った。噛まれた!腕についた『毬蜘蛛』を振り払い、逃げようと後ろを向いて息をのんだ。『ぶよぶよ』がすぐ目の前まで迫っていたのだ。思ったよりもこいつ、移動速度が早いようだ。

 『ぶよぶよ』の体からはさっきの太い触手が何本も突き出ていた。

 背後の階段には無数の『毬蜘蛛』がひしめいている。逃げるに逃げられない。


 ビシュッ


 と触手が風を切る。避ける間もない。来るであろう痛みと恐怖に身を固くしたが、想像したことには一向にならなかった。

 恐る恐る目を開けると、『ぶよぶよ』の触手は床ではい回る『毬蜘蛛』を捕らえては、体の中に取り込んでいた。

 『毬蜘蛛』たちは『ぶよぶよ』の出現にパニックに陥ったようで、さらに騒々しく床や壁を這いずり回っていた。


「きゃっ!」


 この騒ぎに乗じて仕切り板まで逃げようとしたが、上手くいかない。『ぶよぶよ』の触手が逃げようとする私の足に絡みついた。私はバランスを崩して階段に倒れ込んだ。

 胸の辺りでブシュっと何かが潰れるような感触と音がした。『毬蜘蛛』の二、三匹を潰したようだ。服を通してじわっと湿った感触が広がる。

 うげぇ、と思っているところを『ぶよぶよ』にズリリリと後ろに引きずられる。

 階段の縁に手をかけ、必死に抵抗する。


「ひっ、ひ、ひっ、ひぃっ」


 泣きながら、必死に『ぶよぶよ』の触手を外そうと足を蹴りあげた。


 と、そこへ


 シュシュゥー、という電車がブレーキをかけるような音とともについに『唇列車』が『ぶよぶよ』の背景にゆっくりと現れる。

 それは最初の直感通りに電車に似ていた。例え、窓に当たるところが全て血走った巨大な目玉だとしても、やはり全体的なフォルムは電車だった。『唇列車』の無数の目玉がギロリと動く。


 見られてる


 そう思った時、全身から力が抜けた。さっき膀胱を空にしておいて本当に良かったと思った。

 わさわさとホームの下から触手が現れる。『ぶよぶよ』の触手が端くれだったミミズやムカデの体のようなものに例えるならば、『唇列車』のそれはイカ、もしくはタコのそれだった。触手は粘液に覆われているようで、ヌメヌメといやらしい光を放つ。触手には無数の吸盤のようなものがついていた。


「いや!いやー、イヤだって!!」


 必死になって『ぶよぶよ』の触手を蹴る。

 蹴る。蹴る。でも、外れない。

 『唇列車』の触手が背後に迫る。

 蹴る。

 蹴る。

 蹴る。

 ようやくスニーカーがずるりと脱げかけた。


「あ、あああ」


 ぐぐっと片足が宙に引き上げられる。


「ピキキキキキキ」


 『唇列車』の触手に絡めとられたのは『ぶよぶよ』の方だ。そのゼリーのような体にタコの触手が幾重にも巻きつき宙に吊り上げられる。その巻き添えで私の足も吊り上げられる。


 鮎の友釣り? 冗談じゃない!


「はぁなぁせって!!」

「ピギギギギ」


 渾身の蹴りでスニーカーがずるりと脱げた。『ぶよぶよ』の悲しげな断末魔がホームに響いた。一方私はお腹を階段の縁で強かにうちつけ悶絶する。


『ピギャ!』


 『ぶよぶよ』は『唇列車』の触手に二つに引きちぎられ、体液と体内の玉を周囲に撒き散らす。


「はぁ。はあ。はひ、はひ……」


 脇腹をおさえて、必死に仕切り板へと這いずっていく。目の前をパニックになった『毬蜘蛛』たちがわらわらと走り回っていたが、もうそんなものは気にならない。とにかく、とにかく今は仕切り板へ、一秒でも早く。そこをくぐり抜けたい。


 ああ、早く! 

 あと、もう少し、あれをくぐれば……

 



 気づくと仕切り板を背にしてへたりこんでいた。

 頭がぼうっとして、夢でも見ていたかのようだ。でも、夢ではない。その証拠に手やセーラー服がひどく汚れていた。臭いもひどい。汚泥、いわゆるドロ川の臭いだったが、それが今までのことが夢でないことを雄弁に主張していた。

 立ち上がると仕切り板の隙間へと目を向ける。

 それはまるでなんの変哲もない板の隙間に見えた。実際、そうなのかもしれない。もう一度くぐってみても何も起きないかもしれない。


 試してみる?


 私の好奇心がそう言ってきた。


 絶対にいや!


 私は即座に答えるとよろよろといつもの路線のいつもの私が住んでいる世界のホームへと向かった。


 家に帰ると、お母さんにドブ川で泳いできたのかと、驚かれた。服は脱ぎ捨てて、すぐにお風呂でシャワーを浴びる。石鹸で念入りに洗ったけど中々臭いが落ちずに困った。

 噛まれた腕もシャワーがしみて、ヒリヒリ傷んだ。




 その後のことは普段と変わらない。

 通学の途中、例のホームを通りすぎる。何度見てもいたって普通のホームだった。廃線なのでいつみても立っている人はいない。

 『ぶよぶよ』や『毬蜘蛛』も見ない。

 当たり前か。

 あんなのがいたら、ネットとかで話題になっているだろう。

 一応、調べてみたけどなにもなかった。

 だよねぇ。と通りすぎるホームを横目で見ながら思う。

 早く、忘れよう。








 

 腕が痒い







 一週間経つけど、腕の痒みが止まらない。なんか腫れているようにも見える。化膿して膿でも溜まっているか、押すとなにかゴロゴロした感触があった。化膿どめを塗っておく。












 かゆい
















 化膿どめもあまり効果がない。あの変なのに噛まれた傷だから、変な毒とかあったらイヤだなって思う。明日になっても変わらなかったら、医者にいこうと思う。




 痛い!

 痛い。猛烈な痛みに夜中に目を覚ました。見ると腕がパンパンに腫れている。

 なんなんだ。痛い。我慢できない。

 あ、痛い、痛い。

 えっ?! 腫れがもこもこ動いている。一体どうなってるの?

 痛い。イタタタタァ。ああ、腕が、腕が裂ける。

 なに、なんなの? 腕からビー玉みたいな玉がポロポロこぼれ出てくる。私の体、どうなっちゃったの?

 え、えっ? えっ?!

 これって、このビー玉見たいの、まさか、まさか……これって


















 『毬蜘蛛』の子供だ


2020/08/24 初稿

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― 新着の感想 ―
[良い点] 鳥肌が立つくらいに怖いですね。 第2話も凄く怖くてホラーはやっぱり疾風さんの伝家の宝刀だと思いました! とても面白かったです!
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