第四十五話
「ちくしょう、またかよ」
青年は背後の木にもたれかかりながら、脇腹を抑える。懐かしい絵面だ。
「死にたく、ねえ………。どうせ、また誰か通り掛かるんだろ。痛えから早くしてくれよ」
青年は顔を歪ませる。深手から来る苦痛が故で無く、この先の展開が読めるからだ。木漏れ日の指す前回とは別の岡の上、ゴールデンウィーク明けに初夏の暖かな風の吹く、穏やかな風景。
(この際だから、今度はラハムでもいい。早く誰かやって来てくれ)
「あの大丈夫ですか」
広場になった岡の上の公園、その入り口にたたずみ、こちらの様子をうかがう一人の少年。少年は、脇腹を抑えうめく青年のただならぬ様子に、警戒をあらわにしながらも近づいて来た。
平凡な、取り立てて言えるような特徴の無い、普通の、としか形容しようの無い、中学生くらいの少年。
それほど好奇心が強そうにも見受けられず、実際、その青年の様子をうかがう顔にも、好奇の色は浮いていない。
今も何か特別な事件に巻き込まれる可能性に、憂いこそあれ、冒険心に駆られる気配は全くない。この少年はただ、苦しそうな青年への心配だけで、近づいて来たのだろう。
(碧とは、全く違うタイプだな。なんだってまた、こんな少年が………)
「え! 血だらけ⁉ うわっ、ひどい怪我してるじゃないですか。すみません、僕ケータイ持ってないんです。救急車までひとっ走り行って来るんで、待っててください」
碧の時よりいっそう深い罪悪感に苛まれ、運命の無情を呪う青年。
(先にラハムが駆けつけてくれれば、こんな事には為らなかったのに。ラハムを待ってる余裕はねえ。悪く思うなよ)
青年は少年に向けて手を伸ばす。自身の血に染まった手を、少年が両手を差し伸べてしっかりと握る。その瞬間、
「ア~レェ~エ~」
男にあるまじき悲鳴を挙げる少年。詳しい描写は避けるが、若干、嬉しそうだ。
「オウライ、大丈夫⁉」
少年がひざを下ろしてその場にしゃがみ込むのと入れ違いに、もう一人、少女がこの岡の上の広場に駆け付ける。
「ああ、今何とかなった所だ。悪かったな、少年」
「ァ、あ、アナタ、僕に何をしたんで、す、……か」
立ち上がり、少年を見下ろす青年に、思わず食って掛かるも、目線を巡らし今ここに駆け付けた少女の姿を捉えるや、
「君は――、だれ―――」
「?、私はラハム」
その存在感が希薄で、儚く、光を透過するような真っ白な肌と髪をした、触れるだけで脆くも崩れてしまいそうな、目を逸らす間に光に融けて消えてしまいそうな、美し過ぎる少女。
「アナタがオウライを助けてくれた?」
「そうっ、そうです」
「改めて、ありがとな、少年。じゃあ行くか、ラハム」
「うん」
背を向けると同時に振り返り、少年に向けてペコリと頭を下げ、立ち去ろうとする少女。
「え、あっ、あの」
「ラハム、今日もどこかで野宿だな。どこかに寝心地の良い野原でもあればなあ」
「うん、オウライと一緒なら、どこでもいい」
「ええええっ! ちょっと待って下さい、そこの二人‼」
立ち去ろうとする青年と儚げな少女に、堪らず声を掛ける少年。少年はこの時もう、自分の気持ちを自覚していた。
この二人、特に今まで脇腹を抑え、血を流していたはずの青年は深く関わってはならない存在だと。それでもこのまま、この少女と別れたくない。
ここでこのまま見送れば、二度と再会する機会は無いだろうと。
学業成績、運動神経、どちらも普通で、特別な趣味も取り得も無く、この後の人生も平凡なまま、ドラマらしいドラマも無い、平均的な人生を送るだろうことが決定している。
それ以上、何も望む物の無い少年が、この瞬間に、絶対関わってはいけない少女に、電撃の恋へと落ちたことを、自覚してしまった。
「行く当てが無いなら、僕の家に来ませんか」
自分でも何を言っているか分からない。でも、この機会を絶対に逃してはならない。住む所も無く、刺されでもしたような怪我をしていた上、こんな可憐な少女を連れまわしている青年。
常識で考えても犯罪者か逃亡者。
それを自分は、自宅にかくまおうとしている。
のみならず、先程、少年の手を掴んだ際の、不可思議な感覚、恐らくそれによって治ったのであろう血塗れだった傷。
やばい、これを冒険の始まりなどと浮かれるヤツの気が知れない。少年はそういうタイプでは無かった。それでも、それらすべてに優先するほど、少年の恋心は一途だった。
そう、それは、ラハムと呼ばれたこの少女が、この危険な匂いしかしない青年を、慕っている事を分かった上でだ。
「え、おまえこの一軒家に独り暮らしなのか? 中学生、まだ義務教育なのにか? 保護者はどうなってんだ?」
「僕にも複雑な事情があるんです。あなた達の事情も聴かなかったんですから、そちらからも訊ねないでください」
「オウライ、めっ。ありがとう、何も訊かない」
二人を横目に見つつ、うなずく青年。明らかに少年の少女に懐く気持ちに気づいている。そして、少女ラハムの青年応雷に懐く気持ちにも気づいている。
にもかかわらず、素知らぬ顔でこの家で三人の共同生活を受け入れるつもりらしい。少年は思った。応雷は明らかに悪い人だ。
「聞き忘れてたけど、おまえ、何て名前だ?」
「姜原 耕田です」
「とてもいい名前ね」
「あっ、ありがとうございます」
「それで耕田君。俺たち無職で一文無しなんだけど」
「分かってましたよ。お二人の生活費、僕が面倒見ます」
「後で請求しない?」
「ラハムさんの分は請求なんかしませんよ」
「え? 俺は? まあいいや。言いたかねえけど、ごまかしはもっと良くないと思うから言っておく。こんな生活はいつまでも続けていられない。俺はまた直ぐに、この街を出る」
「なに、立派な振りして、カッコつけてるんですか。只で養いませんよ。炊事・洗濯・掃除、家事全般、全部やってもらいますから。住み込みの家政士として働いてくれるなら、衣食住、面倒見ます」
「オウライ、がんばって」
「器、でけえな、ラハム。まあ、今回はこれで退屈で死ぬ心配が無くなったか」
「以前にも誰かの世話になっていた事が有るんですか」
「それが、そこに居られなくなった事情があってな」
「ここではトラブルは勘弁してください」
「心掛けるよ」
「明日は朝から登校するんで、朝食もお願いします。今日の昼食、夕食も頼めますか。冷蔵庫の食材、足りなければ買い出しも頼めますか。そもそも料理、出来るんですよね」
「組織の下に居た頃、一通り習っている。ラハムにだけは好評だったぜ」
「大丈夫。オウライはやれば出来る子」
「ラハムさんは本当に優しいですね。組織って何ですか」
「おっと、お互い聞かない約束だろ」
「くれぐれも、僕を巻き込まないで下さいね」
「おや、ラハムを守るために戦わなくていいのか? 耕田少年」
(くっ、この人は本当に悪い人だ)
こうして、仙丈応雷、ラハム、姜原耕田、三人の新しい生活が始まる。