第四話『図書室の密会』
俺のバイト先の工場は学校から少し離れた場所にあったが、その分時給が良かった。行き来の時間を勘案してもずっと良い。
バイト先の爺さんも悪人面はしているが気の良い人で、通勤用にと古臭いバイクを一台譲ってくれた。マフラーがどうかしてるのか走れば多少変な音がなるが、それでも通勤するだけなら十分だ。
そんな環境もあって、俺は夜遅く、それこそ二十二時を超えるぎりぎりまでバイト先に顔を出している事がよくあった。バイクを使えば三十分もたたず家へ帰れるからだ。
その日も丁度そうだった。時刻は確か二十二時ニ十分位。バイト先から家に帰るまでには学校の前を通るのが一番早かったから、その日も当然その道を使った。
人間の目とは凄いもので、普段と同じ景色なのに少し違うものがあると、自然とそれに視線が吸い寄せられるように出来ているらしい。
どうした事だろう。その日何時もは真っ暗な校舎の中で一つ、明かりがついている所があった。
図書館だ。職員室にすらもう電気らしきものはついていないというのに、その一室だけは浮かび上がるように灯りがついている。
それを見て、ふと、思い至った事があった。朧気なクラスメイトの姿だ。
いやいやいや。そんなはずがあるまい。ただの消し忘れだ。警備の人間か、遅くとも明日の朝には誰かが気づいて明かりを消すだろう。
一瞬で過ぎ去った景色にそんな感想を抱きながら帰路を急ぐ。後十分もすれば家だ。腹が空いた。アリュエノが晩飯の用意をしてくれていることだろう。早く帰るに越したことはない。
わざわざ夜遅くに、教師が消し忘れた電気の様子なんて見に行ってやる必要があるわけない。
「…………」
けれど何となく、本当に何となくブレーキを掛けた。
その後もまさかまさかと頭の中では繰り返したし、馬鹿らしいと何度もつぶやいた。それに例えそうだとしても、俺が様子を見に行く必要は何もないんじゃないか。
第一、今度は傷心したとしても一緒にカレーを食いに行ってくれるやつもいない。
だがどうしたわけか、俺は何かに突き動かされる様に学校へと引き返した。そうして結論から言えば、彼女はそこにいた。
学生服のまま、唯一寂し気に電気を灯した図書室の中でフィアラートは一人音を立てていた。かりかりというシャープペンシルの芯が削れる音が、等速で過ぎ去っていく。
正直に言おう。その時俺が思った事は、誰かがいた明かりの下にいた安堵ではなく、むしろ何故一人でこんな時間まで、という奇妙な疑念だけだった。
「……何時までやるんだ?」
「ふぇっ!?」
奇しくもそれは俺がフィアラートに投げかけた第一声と殆ど同じだった。流石に思わぬ闖入者の声にはフィアラートも仰天してくれたらしい。
後ろからみていて面白い程に肩を跳ね上げていたし、聞いた事がない声を出した。
面白いから動画に撮っておけば良かった。後々から思えば良い材料になっただろうに。
「不審者!? 金目のものなんてないわよ!」
知らなかった。こいつ結構ぶっ飛んだタイプだったんだな。クラスメイトから不審者の綽名を付けられるとは思ってもいなかった。
「いやいや、クラスメイトの顔くらい覚えててくれよ」
「良い? 私の手元には携帯電話があるの。百十番を押すのなんてすぐよ。そうすればすぐに貴方は捕まるわ。早く出て行った方が賢明じゃない?」
「おい待て! 本気かお前!?」
フィアラートは首をかしげるようにしながら、まじまじと俺の顔を見る。
何とも不躾で居心地の悪い視線だったが、我慢して受け止めた。何せフィアラートの手元には用心深く携帯電話が握られたままだったからだ。恐らくその気になれば一瞬で百十番通報くらい出来てしまうだろう。
そうなれば俺は明日からクラスメイトの女子に不審者扱いをうけて警察に連行された男として汚名が残ってしまう。
そうなれば多分俺の青春はヘルトとカレー屋に通い続けるだけの日々になるだろう。
いやしかし、まさかな。流石に多少とはいえ言葉を交わした相手、しかもクラスメイトの顔を覚えていないなんて事はあるまい。
恐らく先ほどまでの事は、動揺の余り意識が朦朧としていたのだろう。
フィアラートはじっくり数十秒は俺の顔を見てから言った。
「……隣のクラス?」
「お前本当覚えてろよ」
この覚えてろよには二つの意味があった。クラスメイトの顔くらい覚えていろよという恨み言と、この恨みは忘れないからなという意味だ。
小人は恨みを忘れない。
クラスが始まって二度目の自己紹介を終えて、学生手帳まで見せてようやくフィアラートは俺を同じクラスの人間だと納得してくれたらしい。
「御免なさい、人の顔を覚えるのが苦手なのよ」
なるほど。まぁ、そういう人間は確かにいるし。フィアラートを責め立てる事も出来まい。苦手な事を当然だと押し付ける人間にはなりたくないものだ。
「ああ、正確じゃないわね。興味がない人の顔を覚えるのが苦手なのよ」
「何でお前はそう俺を追い詰めるんだ? オブラートに包むって言葉知らないのか?」
仰天だよ。もう少し手心を加えてくれよ。俺は俺なりに納得をしようと自分の心を言い聞かせる努力をしたぞ。
その努力が全て無駄じゃないか。時間を返してくれ。というかせめて思っても言わないくらいの思いやりをもってくれ。
この時点で、フィアラートが儚げだとかいう馬鹿らしい評価は俺の中から消え去っていた。どう考えてもこいつは一人で立っていけないような女じゃない。むしろ堂々と独立独歩できる人間だ。
「というより何よ。夜遅くに電気がついてたから態々来たの? 馬鹿?」
凄いな今日は驚かされっぱなしだ。大して話したこともない女子に自然に馬鹿って言われた。
中々無い事だと思うんだけどどうだろう。俺が疎いだけでこれが今のスタンダードだったりするのか。
「待ってくれ普段とのギャップが激し過ぎて言葉が追いつかない。前者はYES、後者はNOだ」
「その言い回し私格好悪いと思うんだけど、どう思う?」
もう俺こいつと喋りたくない。尊厳がぼろぼろ崩れ落ちていく音が聞こえる。
「私は先生にも許可は取ってるし、鍵も預かってるわ。まぁ、高校生にそこまで許可する教師はどうかと思うけど。それで残っていたのは勉強の為。塾の自習室は一杯だからこっちを使ってるの。やましい目的じゃないから安心して。だから貴方が特に関わるような事はなにもないの。良い?」
まくしたてる様な風にフィアラートは言う。その言葉の端に表れているのは、ただただ早く俺を追い出したいという思いだろう。何だ、凄く悲しい気分になってきた。ヘルト居残ってないかな。
このまますごすごと帰ってしまうのも癪なので、何とか頭の中で言葉をひねり出す。
「あ゛ぁー……何で何時もと口調が違うんだ」
酷く馬鹿らしい質問になってしまった。
「その方が長々としたお喋りに付き合わないで済むから。ああ、でも明日から貴方のお喋りに付き合うってわけじゃないから勘違いしないでね。私、明日には貴方の顔を忘れる事にしてるから」
「意識して忘れられるもんじゃないだろう!?」
「大丈夫、安心して。意識的に忘却してみせるわ。無駄な事は覚えたくないの」
「無駄って言った!?」
何の安心だよ。逆に安心できねぇよ。
だが、フィアラートの言う所の意味はある程度ピンと来るものがあった。俺と話す事など今後もう無いというのも事実だろう。
軽くしか知らないが、フィアラートのご家庭は官僚一族だと聞く。一族は当然のように最高学閥に入り、当然のようにキャリア官僚として就職する。
何故そんな一族の御令嬢がこの高校にいるのかは知らないが、フィアラートが女子の学年一位以外の成績を取っている姿を見たことはなかった。
それだけを見れば当然の華々しいことなのだが。それを妬ましいなどと感じるのは馬鹿らしい事だと俺は思う。
きっとそれらを得るに至るまでに、彼女は幾つかを手放し、また幾つかを諦めたはずだ。それが大きい、小さい、なんてのは他人が言うべき事ではないだろう。
両親の期待。周囲からの重圧。余りある責任感。俺が想像できる範囲から遥か遠くに超えて、きっと彼女にはそれらが纏わりついている。それらを超えて、今彼女は此処にいるのだ。
人は何かしらのものを手にする時、きっと何か別のものを捨てている。彼女は今の自分を得るにあたり十数年何かを捨て続けて来ただろうし、俺だって同じだ。
そこに何かを言う気なぞ更々無かった。だから、これ以上彼女に踏み入るべきではないと、そう思う。
俺は両手をあげて、フィアラートに頷いた。もう関わらないという意志表示だ。
「さ。分かったならもう帰って――」
――愛と勇気の魔法少女――♪
そんな折、携帯が妙な着信音を伴って鳴った。
当然俺のものではない。フィアラートのものだった。びっくりするくらい速攻で切られた。
暫し、俺とフィアラートの間に沈黙が浮かび上がる。
どうしよう。最高に何も聞かなかった事にしたい。全てを忘れて帰りたい。それが一番平和だと思うのだがどうだ。
「………………何よ」
フィアラートが、頬を震わせながら崩れた声で言った。何時もの整った言葉遣いではない。心なしか頬が赤い気がした。
嘘だと言えよ。いきなりこんな所でコメントを求めないでくれ。俺に何を言えというんだ。あっ。子供の時やってたの知ってるとか言えというのか。幾らなんでも俺はそんな無神経な事は言えない。
今のは明らかに、昔セレアルが熱中してみていた魔法少女アニメの主題歌だった。
高校生が着信音にしていておかしいとは言わないが、正直一般的なものではないだろう。俺なら多分その場で携帯を叩き割るくらい恥ずかしい。
後どう考えてもフィアラートも恥ずかしがってる。やめろ、余計に恥ずかしくなる。
「その、何だ……妹がすごいグッズ集めてる」
嘘ではない。実際に集めていたのはだいぶ前だが。グッズ自体はまだ家にある。
「……妹さんって何歳?」
「ええと……俺達の一つ下だよ」
「そうなんだ、ふーん……へぇー……」
口の中でもごもご呟いてどうしたのだろうか。今の内に帰ってしまっても良いという意志表示かもしれない。
バイクのヘルメットを片手に持って、ひっそりと背を向ける。挨拶も無しに立ち去るのは礼儀に欠ける気もするものの、よく考えると別に挨拶を交わすほどの仲でもないのだ。問題はない。
音を立てぬようにして扉をようやく開いた所で、背中に声がかかった。当然、魔法少女ではなくてフィアラートの声だった。
「待ちなさいよ。まさかこのまま帰る気じゃないでしょうね」
「いや、このまま帰る気だよ。他に何があるんだよ!」
「駄目よ。貴方にそんな権利ないわ」
「権利がない!?」
何でだ。何時の間に俺の権利はそんな地の底にまで落ちてしまったんだ。流石に図書室から出る権利というのは聞いた事がないが。
フィアラートは両眉を捩って焦燥したような、慌てたような顔つきを見せて言った。
「少し待ってなさい。貴方の家によるから。いいわね?」
「いや何も良くないんだが。どこ行くんだよおい」
フィアラートはそう言い残すと、何故か俺を置いて図書館から出た。どうやら俺の心情を推し量るという事は何もしてくれないらしい。
えっ、いや本当に待たなくちゃいけないのか。嘘だろう。
本当に待った。
丸々十分はもう誰も帰ってこない。しかし流石に待っていろと言われて帰る事も出来ず。俺はよく分からないまま図書館に放置プレイを食らって、一人ぼぉっと埃臭い本棚と対面しなければならなかった。
どういう事だろうかこれは。
もしかするとお前は私の恥ずかしい秘密を知ったのだから消すという意志表示なのだろうか。となると今はその為の凶器探しやアリバイ作りでもしているというわけだ。
なら俺はいち早く逃げた方が良い事になる。いや流石にそんな馬鹿々々しいことは考えてはいないが。こうも一人静寂の中に取り残されるとそんないらぬ妄想すら湧き上がってくるということだ。
ふと、余りに手持無沙汰になってフィアラートが先ほどまで一心に書きこんでいたであろうノートに眼を移した。細やかな字だ。やはり男子の字とは全く違う。アリュエノの字ともまた違った。
アリュエノはどちらかといえば丸く大き目の字を書くが、フィアラートは所々尖った小さな字だ。几帳面なのか、それぞれの文字が等間隔に並びノート自体がまるで一冊の本にすら思えてくる。
ぺらり、ぺらりとノートの頁が捲られる音だけが図書室に染みわたっていく。別に覗き見をするわけではなかったのだが、フィアラートへの僅かな苛立ちと好奇心から、その行為に大した忌避感はなかった。
そこでふと、気づく。
何語だこれ。英語とは違う、まるで見たことがない文字がうねうねとノートの上を走っていた。いや、何というか。独自言語?
「ルーギス」
反射的に大きく肩が揺れ動いた。耳を突いたのはまごう事ないフィアラートの声だった。咄嗟に目の前のノートを閉じながら、唇を開く。
どう取り繕うべきか。とりあえず今まで何となく寝ていました、とすべきだろうか。
「遅くないか。何してたんだよ」
眠たげな声を出しながら、瞼の辺りを擦っていった。自分でも渾身の演技だったと思う。
「何をしていたか、はこっちの台詞だけどね。驚いたわ、貴方がそんな覗き魔みたいな真似するだなんて」
こいつ今凄い馬鹿にした表情したな。ここまで一日で馬鹿にされきったのは初めてかもしれない。恐らくは俺が慌てながら誤魔化そうとした事もフィアラートに露見していたのだろう。
降参しかない。大きく両手をあげていった。
「悪かった綺麗なノートだったから参考に見させてもらったんだよ」
「そう。覗きって皆同じこというのね。弁解は貴方の家についてから聞くわ」
俺が知らない間にノートを覗き見るというのは相当の大罪になっていたらしい。分かった、弁護士を呼んでくれ。国選じゃないぞ。私選だ。この世に二度とない見事な弁解を見せてやる。
*
俺とフィアラートとの出会いはそんな青春とも何とも言えない奇妙なものだった。それからこうして、俺の部屋にフィアラートが入り浸り、そうして好き放題にグッズ置き場にし始めるのには紆余曲折があったのだが。
正直な所その経緯は誰かに言って信じて貰えるとは思えない。それほどに馬鹿げていて、日常的でない事件だった。語るべき所があるなら何処かで語るかもしれないが。好き好んで口に出したい内容ではない。
フィアラートがアニメを巻き戻しては再生し、巻き戻しては再生を繰り返して、ようやく一話を見終えた。これ確かシーズン全てを通せば相当な数あったはずなんだが今日見終わるのだろうか。
「見終わるまで一緒に見ましょうよ。見てくれないの?」
「そう言われてもな。明日にはバイトだってあるし、お前だって帰らなきゃ何言われるか分からないだろう」
「大丈夫よ、家にもバイト先にも連絡を入れてるから。お爺さん、快く休みを受け入れてくれたわよ。何も問題はないからゆっくりしてこいって。良かったわね?」
「お前、たまにそういう怖い事いうよな。やめてくれよ」
「根回しが上手と言いなさいよ。何かをする時には用意周到に全てを終わらせておくべきでしょう。こうしておけば貴方が受け入れてくれるくらい甘いってのも了解済みだもの」
いや本当に怖い。何故ならフィアラートは冗談を言わないからだ。言えないとも言えるが。少なくともその場をごまかす為に嘘をつく人間ではない。
つまり彼女がバイト先に連絡を入れたというなら、本当に入れているのだ。今からバイト先の爺さんに電話を入れても同じ答えが返ってくることだろう。
行動的と言えば聞こえはいいが、カリアとはまた違う強引さを感じる。こいつに逆らうと、気づいたら全てが終わっていた、みたいな落ちになりそうで本当に怖い。
精々良き友人でいるとしよう。その程度の距離感であれば、フィアラートも害意を加えようとはしないはずだ。
相変わらずセレアルと一緒に魔法少女アニメに熱中するフィアラートの横顔を見て、何となしに声を掛けた。
「やっぱり女子ってのは皆、こんなアニメみたいな魔法少女になりたいって思うのか?」
「私はそういう事はなかったわね。あくまでこれは物語だから楽しいの。本当に手元にないからこそ、あってほしいって思うし応援もしたい。手に入らないからこそ望みたいってやつ。わからないかしら」
「言わんとする所はあるが、夢のない子供だな。幼少期はもう少しくらい自由に振る舞って良いとも思うがね」
フィアラートは一瞬唇をもごつかせて、言葉を探しながら言った。
「とは言っても、私家庭環境が家庭環境だしね。そこがルーギスとはちょっと違うわ」
まぁ、そこを引き合いにだされると確かに何も言えない。フィアラートの家庭環境はどこまでも特殊だ。少なくとも一般的とは言えまい。きっと幼少の頃から優秀である事を求められたのは間違いがないだろう。
だがそれでも、せめて子供の間くらいはフィアラートも夢持つ少女であってほしかったというのは、俺のエゴなのだろうか。人間だれしも、それ位の時期はあって良いんじゃないかと思うのだ。
「それに、私魔法少女というより魔女だしね」
「家で笑いながらジャガイモでも煮込んでんの?」
俺の頭の中には三段階くらいにわけて奇妙な笑い声をあげている皺くちゃの婆さんが浮かび上がってきていた。緑色の何かが煮立つ鍋の前で、いーっひっひとか言って両手をあげているあれだ。
「次同じこと言ったら私と一緒に魔法少女のコスプレしてもらうから。色んなコスプレ会場練り歩くから。絶対やるから」
分かった。二度と言わない。どうやらこれはフィアラートの中の何かしらに酷く引っかかる言葉であったらしい。俺は心の奥底へと深く、それは深くへと封印した。
「まぁ……魔女なのは本当だけど」
フィアラートは繰り返し、そう言った。俺はコスプレが嫌だったので何も言わなかった。