其の捌 隠逸花
死なせてください、と彼女は言った。
夜も明けきらぬうちに夢中で部屋を飛び出し、はだしで走った。一振の懐剣を握りしめ、どこへ行けばいいのかもわからず、ただ果てる場所を求めて庭をさまよった。
冷たさを感じる余裕もなく雪を踏み、ふらふらとさまよい出た場所に現れた人の姿を見て、ここが果てる場所なのだと思った。彼女が裁きにきてくれたのだと。
「お願いします……どうか、死なせてくださりませ」
「恵泉院どの」
単に上掛けを羽織っただけの姿で大樹公は立っている。凍える冷気の中、彼女も素足に草履を履いたきりだ。
雪の中、恵泉院は大樹公の前にひざをついた。
「お願いです……もう、疲れました。これ以上、誰も憎みたくない、誰もうらみたくないのです」
こぼれた涙が雪の上に落ち、溶かす暇もなく凍っていく。恵泉院は両手で顔を覆った。
「わかっているのです。あの子が……鶴千代が死んだのは、誰のせいでもない、仕方のなかったことだと。いちばんそばで見ていたわたくしが、いちばんよくわかっているのです。なのに……ありえないことだとわかっているのに、本当は上様があの子を害したのではないかと、そのような妄想を抱かずにおれなくて」
当時、そうしたうわさは奥でも表でも、多くの口がささやいた。けっして恵泉院一人が考えたことではない。むしろ、そんなうわさが彼女を悩ませたのだろう。
けれど彼女は、ただ己を責める。
「わたくしは悪鬼です。姫様のお元気なごようすを知るたびに、憎しみがつのりました。あの子は死んでしまったのになぜ姫様はと、そんなふうにしか考えられなくて。どんなにこらえても、抑えようとしても、あさましき思いを捨てることができませんでした」
寒さのためでなく、恵泉院は震える。
「悪心はわたくしを魔性に変えました。夢などではなかった……わたくしは本物の魔性と成り果てて、さまよっていたのです。もはや、ここにいるのは人ではありませぬ。怨念を抱いた化け物です。どうか、成敗してくださりませ」
大樹公の足元に懐剣をさし出し、雪の中に身を投げてぬかずいた。
「海棠に姫様を護るよう頼みましたが、あれがどれほど強く聡明でも怨念までは防ぎきれないでしょう。田島が悪事を働いたのも、すべてわたくしのせいです。彼女はわたくしの怨念にとりつかれただけです。わたくしさえいなくなれば……ですから、どうか、わたくしを討ってくださりませ。そして怨念がさまよい出ぬように、強く、深く、封じていただきたいのです」
むせび泣きながら恵泉院は懇願する。黙って聞いていた大樹公は、ひざをついて懐剣を拾い上げた。
「それほど、お苦しみか」
「……はい」
やせた背中がかなしかった。
「あなたを救うことは、かなわぬのじゃな。ならば承知した。死になされ」
はじかれたように恵泉院は顔を上げる。大樹公は鞘を払った。
「死んで、楽になりなされ」
ようやく白んできた景色の中、刀身に恵泉院の顔が映る。
彼女は微笑んだ。涙を流しながら、やっとうれしそうに、穏やかに顔をほころばせた。
静かに手を合わせ、目を閉じる。
白い雪の上に黒髪が散った。
* * * * * * *
姫君暗殺の陰謀に加担した者は、結果六十名を超した。
襲撃の現場に直接居合わせた者の他に、間接的に関与した者たちも次々罪をあばかれ、捕らわれていった。彼らは本来、切腹も許されず磔となり、一族郎党にいたるまで罪を問われるところである。しかし襲撃現場で命を落とした数名の他には、誰一人死ぬことはなかった。
襲撃に加わった男たちは遠島、毒味役の立場を利用して逆に毒を盛っていた、西の丸の中年寄も流罪となった。他の者は罷免されて追放、今回は田島の独断ということで、ひそかに彼女が通じていたと思われる分家筋の人物に関しては、一切の追求はなされなかった。
そしてその田島は、遠い地へと流される。そこで生涯幽閉されて暮らすことになる。
それがはたして温情と言えるかどうかはわからない。恥をさらして無為に生き長らえるよりも、むしろいさぎよく死ぬ方を彼女は望むだろう。田島にとっては死よりも厳しい罰かもしれなかった。
だが表面上、事件は破格の温情措置でもって幕を閉じた。すべては公表されることなく、あくまでも内密のこととして始末される。
それでもわかる者にはわかったし、一見生ぬるい措置も、そうするだけの余裕があるのだと、大樹公の力をあらためて見せつける結果となった。
先のことはわからないが、これで当分ひな菊の身辺は静かになるだろう。
そうして、ようやく穏やかに年が暮れる中、恵泉院の病死がひっそりと発表されたのだった。
* * * * * * *
雪の残る門前に、質素な駕籠が待機していた。
延行寺から出てきた一人の尼僧が、待っていたわずかな供に礼を言う。彼女は小さな位牌を大事に抱き、見送りに出てきた僧侶に深く頭を下げた。
駕籠に乗り込む直前、遠く離れた道の端に立つ青年の姿に気づく。
こちらへ来ることもなく、なにも言わず見送っている姿に、そっと彼女は微笑んで頭を下げた。
やがて尼僧を乗せて遠ざかっていく駕籠を、青年は身じろぎもせず見つめていた。
後ろから近づいていったひな菊は、どう声をかけようかと迷った。今はそっとしておくべきだろうか。でもなんとなく、一人にしておけない気がするのだ。
しめっぽくしてもなぐさめにはならないだろう。ひな菊はあえて普通の口調で話しかけた。
「あんたさ、やっぱり恵泉院様に惚れてたでしょ」
海棠はふり返らない。憎まれ口も返ってこない。しくじったかな、とひな菊は焦った。
だがずいぶん間を置いて、彼は静かに口を開いた。
「叔母が大奥へ奉公に上がったのは、口減らしと仕送りのためでした」
もう見えなくなった駕籠を追い続け、ひな菊に背中を向けたままで言う。
「今でこそ五千石の高祿をいただいていますが、当時広根家は二百石取り、旗本として最低の祿高でした。祖父は無役であったため役料もなく、家族の暮らしは苦しく、食べるにも事欠くありさまだったそうですよ」
役職につけない旗本、御家人は多い。彼らの生活は町人よりも苦しいことがままあった。
「それを助けるために叔母は大奥へ入り、運もあって出世していきました。最終的には先代の目にとまり子を産むにいたりましたが、でも、それを幸せと言えるのでしょうか。二度と出られない檻の中に閉じ込められ、親子ほどにも年の離れた男に奉仕するのが、彼女にとって幸せだったのでしょうか」
責められているわけではない。海棠はただ述懐しているだけだ。けれどひな菊には耳が痛く思える話だった。恵泉院に奉仕させた男とは、つまり自分の祖父だ。
そんな反応に気づくこともなく、海棠は話し続ける。
「ある程度は、わりきっていたのだと思いますよ。でも若君が亡くなって、彼女の希望も支えも失われました。その時、うちの家族がなにを言ったと思います? 次代大樹公の親族となれるはずだったのにと、悔しがるばかりで。祖母も母も、同じ女でありながら子を失った彼女の気持ちを少しも思いやろうとはしなかった。皆、夢見ていた栄耀栄華がだいなしになったと、それを嘆くばかりでね。僕はまだ幼かったけれど、子供心にもなんとなく彼らのあさましさは感じましたよ」
嘆く者の気持ちもわからないではない。当然の反応ではあっただろう。だがそれはたしかに、言われる者には辛い。
「僕が叔母と再会したのは偶然です。何度か会ったことはありましたが、正直よく覚えていなかった。おぼろげに、優しそうな人だったとしか。たまたま彼女が延行寺に参詣に来られるということを知り、一人で家を抜け出して覗きに行ったんです。そして叔母と出会って……彼女は泣きながら駆け寄ってきました。若君の名を呼んでね。年が全然違うはずなのに、僕を若君だと思ってすがりついてきたんです」
その時の情景が目に浮かぶようだった。やはり、海棠は鶴千代君と似ていたのだ。
「それからですね、僕が毎回彼女と会うようになったのは。泣いてばかりだった彼女が、だんだん笑ってくれるようになってうれしかったですよ。でも、僕の――彼女の家族が、また泣かせるんです。せめてもっと出世できるようとりはからえと。側室の親族なのだから万石の大名にだってなれるはずだと迫って。じっさい彼女が口利きすれば、それはかなったでしょう。でも叔母は、ご寵愛くださった先代亡き今、そのようなわがままは言えないと退けました。皆そのことに腹を立て、恩知らずだの自分一人を可愛がる利己的な女だのと、よくもまあ己を棚に上げてと呆れることばかりをまくしたててね。彼女のおかげで昔と比べ物にならない豊かな暮らしを手に入れられたのに、恩知らずはどっちだか」
「……今の幕府のありようが、そんな人々を生み出したんだわ」
「違いますよ、彼らが欲深なだけです。あなたが責任を感じる必要はないし、そう言われても白けますよ。なにもかもを大樹公が責任取れるわけがないでしょう」
そうかもしれない。人は結局、己の心根によって人生を切り拓いていくしかないのだ。
ひな菊も、海棠も、そして恵泉院も。
「叔母があんなにも若君のことに執着したのは、家族の心ない仕打ちのせいだったんじゃないでしょうか。大奥では過去の人として寂しい暮らしになり、頼りのはずの実家からはののしられて、なにもすがれるものがなかった。希望がなかった。若君が生きていたらこんなことにはならなかったのにと、そういう気持ちになったでしょう。人からかしずかれる暮らしをしていても、あの人は常に孤独だったんです」
「あんたがいたじゃない」
月並みな言葉だと思いながらも、ひな菊は懸命に海棠の背中に語りかけた。
「孤独だったはずがないわ。あんたはずっと、恵泉院様を支えていたんでしょう? たった一つの希望もなかったはずがないわよ。あんたがそうして、恵泉院様のことを思いやっていたんだから」
海棠がどうして武士の姿を嫌い、町人たちと付き合うようになったのか、今ではわかる。出世に目をくらませ欲得で娘を犠牲にする家族たちを、武士の社会というものを、どうしようもなく嫌悪していたのだろう。
それほど深く叔母の不遇を思いやっていた彼が、恵泉院にとって救いでなかったはずがない。
「でも、僕はあの人の涙を止められませんでしたよ。泣いてほしくなかったのに。笑ってほしかったのに。そのためなら、なんだってしたのに」
「もし、恵泉院様が本当にあたしの死を望まれたなら、殺していた?」
「……そうですね」
ため息とともに彼は答えた。
「それで、本当にあの人が救われるのなら」
続く言葉はひな菊には届かない。あなたを知る前ならばと、口の中だけで海棠はつぶやいた。
「うん……なんかあんたって、そういう人間っぽいよね」
「ええ。僕はけっして善人ではありませんよ。前にも言ったとおり、必要なら女でも子供でも、たとえそれが罪なき者でも、何十人何百人でも殺してみせます」
壮絶なことを言いながらも、ようやくふり向いた顔は穏やかだった。泣いているかと思ったのだが、どこにも悲痛さはなく、かすかに微笑んですらいた。
「ですから僕はお買い得ですよ。大切な人のためなら、どんなことでもしますから」
ひな菊は眉を寄せて考え、首を振った。
「あたしなら、そんな仲間はいらないわ。『正正の旗、堂堂の陣』が座右の銘でね。けんかを売られたら真正面から受けて立って、自分のこの手で殴り返す主義だもの」
拳を見せる彼女に、海棠は小さく吹き出した。
「あなたはそうですよね。腹が立つくらいに強くて、愚かなほどにまっすぐで……その強さが、あの人にもあったなら……」
やはり彼は泣いている。面には出さず、心の中で涙をかみしめている。
どんなに嫌っても、姿を変えても、それでも彼は侍なのだと、ひな菊は思った。強く、義に篤い、本来あるべき武士の姿だ。
海棠はまっすぐにひな菊に向き直った。
「あなただって、幸せな生い立ちとは言いきれないでしょうに。妖の子と嫌われ、蔑まれ、辛い思いをすることが多かったでしょうに。今だって白い眼で見られて後ろ指さされて、本来なら姫神として尊ばれていいはずなのに、ずいぶん冷たくされているじゃないですか。なのになぜ、そんなに平然としていられるんです?」
見下ろしてくる眼が冷たい。つぶてのように言葉を投げつけてくる。
「おかしいですよ。そんなの、ありえないでしょう? 普通そういう境遇にあったら、己の出生や周りの仕打ちをうらむものですよ。人はそうせずにはいられない生き物ですよ。なのにあなたときたら、少しもいじけたところがない。むきになって人を従えようともしない。あからさまに陰口を叩かれてもとがめない。意地悪をしても文句を言うだけで終わりだ。あなたが本気で怒ったのは一度だけでしたよね。それすらも、結局は黙って許してくださった。ありえません。出来すぎです。気持ちが悪い」
本当に気持ち悪そうに海棠は吐き捨てた。ずいぶんな言われようだと、ひな菊は頭をかいた。
「あなたも泣けばいいんですよ。打ちのめされて、泥にまみれて、嘆き悲しめばいいんだ。……そうすれば、なぐさめてあげられるのに」
声が急に低く、ささやきになる。
「この腕で抱きしめて、守ってあげられるのに」
「……屈折してるわね」
やれやれと、ひな菊はため息をついた。
この男は本当にひねくれている。一見普通に優しいように見えて、実は冷たくて、でもその冷たさこそが本当の優しさの裏返しだなんて。
なんてややこしいやつなのだろう。
「人、木石に非ず。あたしだってね、泣くこともうらむこともいっぱいあったわよ。あんたたちのせいでって、妖に当たり散らしたことだってあったわ」
ひな菊は胸を張り、毅然と言い返した。
「でも孤独ではなかった。嫌われることも多かったけど、理解してくれる人たちだってちゃんといた。母上も、山吹の義父上と義母上も、あたしをとても可愛がってくれた。いつだって愛情たっぷりに育ててもらってたわ。これでぐれたって、そんなのただの甘ったれでしょう」
いつも、まるでかなわなかったはずの年上の男を、叱るように言う。
「泣いていじけたってなにも変わらない。変えたいと思うなら自分でどうにかするしかない。それに、妖の存在は逆にありがたくもあったのよ。本当に信頼できる人をすぐに見分けられるんだもの」
数は少なくとも、妖をいとわず、ひな菊を受け入れてくれる人たちはいた。山吹家の人々以外にも、まれには出会えた。松尾も、お蝶たちだってそうだ。それに――
「どうしても辛くて落ち込んだ時には、ちゃんと七枝がなぐさめてくれるわ。姉やがいつもそばにいてくれたもの」
「……恋敵は七枝どのですか。それは、手ごわいなあ」
海棠が苦笑した。ふふんとひな菊は鼻を鳴らした。
「七枝を越えようとは百年早いわね。……あたしはそうして、いつも救われていた。一人で苦しむことなんてなかった。だから絶望せずにいられた。それだけの話よ」
「それだけ、ですか?」
「そうよ。それだけ。神の末裔だなんて、本当かどうかわかんないわよ。父上はやっぱり妖の親玉だったのかもね。どっちにしろ、あたしには神通力もなにもない。間違えることも苦しむこともあって、失敗だらけで、だけど頑張れば強くなることもできる。それだけの、当たり前の人間よ」
ひな菊は微笑んだ。雪をはらう春の花のように、優しく晴れやかな笑みだった。
長い間黙って見つめていた海棠は、やがて深く息を吐いた。
「あなたという人は……」
伏せた顔が、かすかに笑っている。
「……参りました」
腰から鉄杖を引き抜き、彼は身をかがめた。
どうするのかと見守るひな菊の前で、雪の上にひざをつき、その前に鉄杖を置く。離した手を地について、海棠は深々と頭を垂れた。
「ひな菊姫――いえ、紫田宗家がご嫡嗣、菊王君」
厳かな声で、ひな菊の本名を呼ぶ。
「この広根海棠、御身のために私心を捨て、身命を賭し、終生お仕えすることをここにお誓い申し上げます」
隠逸花――百花がしおれた後にも毅然と咲く、隠逸の士にも似た気高き花の姫君に、海棠ははじめて心からの忠誠を誓約した。
彼女はけして暗い情念にとりつかれない。どれほどの困難にでくわしても、きっと持ち前の強さと前向きさでへこたれずに立ち向かっていくのだろう。
いつまでそれがもつものか、などと斜にかまえた態度でながめるのはもう終わりだ。素直に、心惹かれている自分がここにいる。彼女の挫折を望むのではなく、そばで手助けしたいのだと、いいかげん認めるしかなかった。
ひな菊をただ一人の主と認め、守っていくことを海棠は誓う。
「よき世をお創りください。わが君」
まぶしいように目を細め、いとおしげに微笑んで、可愛らしくもたのもしい姫君を見上げる。出会ってはじめて海棠の笑顔に見とれたことを、ひな菊はこのあと長い間秘密にしていた。
「うん。ありがとう」
口に出しては簡単な言葉だけで返す。これからも共にあろうと言うかわり、いつもどおりの言葉を口にした。
「そなたの杖術、見事だったわ。あたしにも教えてくれる?」
「……御意」
海棠は幸福そうにうなずいた。
そして、
「茶の湯の作法を完璧にこなされましたらね」
いきなりいつもの調子に戻って言う。ひな菊はがくりと肩を落とした。
「結局、そこへ戻るのね……」
「あれほど熱心にご指導しているのに、どうして上達してくださらないんでしょうねえ」
鉄杖を取って海棠は立ち上がった。
「形ばかりは覚えても、いつまでたっても大雑把というか男前というか。とにかく優雅さに欠けるんですよね。困ったものです」
「茶なんて飲めればそれでいいでしょうっ」
「君主には教養と品格も求められるものですよ。明日からまた、みっちりしごいてさし上げます。ふふ、楽しみですねえ」
本当に楽しそうに含み笑いする。ひな菊は頭を抱えた。
「くっ……や、やっぱり考え直そうかしら。前言撤回して……」
「聞きませんよ。もう誓いは立てましたから」
「そこを曲げて」
「聞きません。ああ、ようやくお日様が顔を出してくれましたね」
そっぽを向いた海棠は、雲間から出てきた光に目を細めた。
「これで少しは暖かくなるでしょう。正月には晴れるといいですね」
つられてひな菊も空を見る。遠く、分厚い灰色の雲を切り裂くようにして、太陽が姿を現していた。
冬の陽差しは薄く、弱くて、けれど言いようのない温かさとなぐさめを見る者の心に与えてくれる。
「やまぬ雨はない。明けぬ夜はない……」
独り言のように、ひな菊はつぶやいた。
「いつか、恵泉院様……いえ、浄心尼様のお心にも、日が差すわよね」
一度死んで、すべてのしがらみから解放されて、悲しみばかりの多かった場所を去って。
遠く離れた地で静かに菩提を弔う日々が、彼女を癒してくれることを祈った。
海棠は一瞬泣きたいように顔をゆがめ、目を伏せた。
「……ええ」
道に、屋根に、木に残る雪が、陽差しを受けて白く輝いていた。
隠逸花=菊の異名