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晴れて候  作者: 桃 春花
15/17

 《四》




 深夜の乱闘はほどなく終わりを告げた。雪が踏み荒らされ泥の海となった地面に、累々と男たちが倒れている。立っているのはひな菊の側だけで、誰も怪我はないようだ。

 声をかけ合うこともなく自然と全員がひな菊の周りに集まってくる。名前を知らない侍は、血曇りのない刀を鞘におさめてひな菊のそばにひざをついた。


 見下ろしたひな菊の頬に水が伝う。すっかり濡れきった髪がうっとうしく払うと、海棠かいどうが上衣を脱いで頭からかぶせた。

 猩猩しょうじょうが屋根から飛び下りてきた。下ろされた七枝ななえは、またひな菊に抱きついた。


「ごめんね七枝、怖い思いさせて」

「いいえ、わたくしこそなんというご迷惑を……本当に申しわけございません」

「迷惑かけたのはあたしでしょ。七枝は巻き込まれたんだから」


 七枝の髪や肩から雪を払ってやり、一緒に上衣をかぶる。


「曲者たちに捕らわれてどうなることかと思いましたが……海棠様が現れて、かならず姫様をお助けするから協力してほしいとおっしゃって。しばらくは、おとなしく捕らわれているふりをすることになったのです。でもさきほどは、本当に姫様が殺されてしまうかと思いました。もう、怖くて……」

「うん、じつはあたしも内心ひやひやだった。読み違えてたらどうしようかと」


 正直に告白して、ひな菊は力なく笑う。海棠が意地悪く訊ねた。


「どう読んだんです?」


 こいつは絶対、敵をあざむくためだけでなく、ひな菊の反応も楽しんでいたに違いない。

 うらみのまなざしで、ひな菊は海棠を見やった。


「……たとえ敵でも、あんたは女子供を殺したりはしないだろうと」

「ああ、それはたしかに読み違えですね。はずれです」

「え」


 平然と海棠は言った。


「必要なら女だろうと誰だろうと殺します。そんな差別はしませんよ」

「…………」


 返す言葉もなく少女たちは身を寄せ合う。さらに海棠は、にっこりと微笑んだ。


「もっとも、殺すべき女に出会ったことは、まだ一度もありませんがね」


 ひな菊の肩を与五郎がぽんと叩いた。


「こいつをシメたいなら、いつでも協力するぜ」

「……そうね、その時にはよろしく頼むわ」


 美酒は当分お預けだ。かわりに甘味を山ほどふるまってやる。

 ささやかな報復を、ひな菊は心に誓った。

 誰かが小さく吹き出した。やがて笑いが全員に広がっていく。ひな菊と七枝は顔を見合せ、最後には苦笑まじりに笑い合った。


「……終わりじゃ」


 笑い声の中に、ぽつりと低いつぶやきが落ちた。

 ひな菊は本堂をふり返った。ただ一人残された田島が、無念のまなざしを己の足元に落としていた。


「もはや、これまで……華南津かなつ城は……紫田ゆうだの世は、滅びようぞ。神君孝成(たかなり)公が築かれ、四百年の長きにわたって繁栄してきた大樹公の御世が、愚かな女どものために滅びるのじゃ……口惜しや」

「懲りないバーサンだね、まだ言うかい」


 憤然と口を開きかけたお蝶を制し、ひな菊は一人進み出た。

 歩く(みち)を邪魔する者は、もういない。ひな菊は(きざはし)に足をかけ、田島のすぐ前まで上った。

 田島は顔を上げない。ひな菊の存在など、もうどうでもいいようだ。

 彼女が見ているものはなんだろう。本来あるべき大奥の栄光か。男の大樹公が治める、理想どおりの世の中か。それとも、この先に待ち受ける己の運命を呪っているのだろうか。


 ゆるゆると田島の手が動き、帯に差し込んだ懐剣にかかった。袋の紐がほどかれ、蒔絵の(つか)が現れる。

 これまで単なる装飾でしかなかったであろう短刀が引き抜かれた。不慣れな手つきで自分に向け、首をかき斬ろうとするのを、ひな菊は手首をつかんで止めた。


「……邪魔をなさるな。いまさら、情けでもかけられるおつもりか」


 ようやく田島の目がひな菊に向けられる。ぬかるむ足元の泥のような、どこまでも暗く濁った目だ。人の昏く(こわ)い情念は、なによりもひな菊を苦しめる。引きずられそうになるのをこらえ、つとめて意志を強く保ち、ひな菊は言った。


「そう、情けをかけるわ。そなたにはさぞ不快でしょうが。そなたも大奥という、あのゆがんだ世界の犠牲者だから」


 田島とて、はじめからこんなにもかたくなで、欲にとりつかれた人間ではなかったはずだ。若い頃にはもっと明るい気持ちを持って生きていただろう。長年大奥で暮らし続けるうちに毒され、変質してしまった。自ら望んでそうなったのだとしても、そもそも大奥などという場所が存在していなければと、思わずにはいられない。

 こんな考えを海棠などは甘いと言うのだろうが、大奥という奇怪な場所を創り出した紫田一族の末裔(すえ)として、自分には責任があると思うのだった。


「田島、母上は――上様は、大奥を廃止されるおつもりよ」

「……なんと」


 田島の目が、愕然と見開かれる。さすがに背後の面々も驚いて、ひな菊の言葉に聞き入った。


「少なくとも、今のような形での大奥制は廃止する。女たちを追い出すというのではない。大樹公の子を成すという、それだけが目的の場所なのではなく、普通に人が暮らし働く場所にするのよ」


 ひな菊がまだ山吹家で養われていた頃、お忍びで会いに来てくれるたび、母は理想の未来像を語って聞かせた。今の世に、幕府に存在するさまざまな問題、矛盾、軋轢をどうやって解決すべきか。自分がなさねばならないことはなんなのかと。

 彼女はいつも政治家としての情熱に燃えていた。大奥に対する改革案もその一つだ。かつて自分もそこで暮らし、見てきた場所の、閉鎖的で陰湿なありさまを深く憂えていた。もしかすると恵泉院(けいせんいん)の不幸も理由のうちだったのかもしれない。


「だいたい、夫一人に妻も一人であるべきでしょう。世間ではそれが常識だわ。四人も五人もごろごろ側室を抱える大名や大樹公の方がおかしいのよ。奥さんがいれば、それ以上必要ないじゃないの」

「…………」

「あれだけの広さだから働き手が必要なのはたしかね。だけど宿下がりなしの一生奉公だとか、男子禁制とか、そんな決まりはいらない。もっと自由に宿下がりや外出ができればいいし、都合が悪くなれば暇乞(いとまご)いしてもいい。なんなら、自宅から通ってもいいんじゃないの。そうすれば所帯を持って子を生んでも、勤め続けられるでしょう」


 幼いなりにひな菊も精一杯考えて、母と語り合ったものだった。


「表との境はもっと低くして、互いに交流すべきだわ。男が奥に入ってきてもいいし、女が表に出てもいいでしょう。同じ城の中なのだから、どうして区別する必要がある? 皆で協力して働けばいいじゃない」

「ばかな……そのような……風紀の乱れをわざわざ助長するなど」

「出会ってにくからず想い合っていい仲になる、それは普通のことでしょう。城内だから許せないなんて道理はないはずだわ。もちろん、行き過ぎた乱交は別よ。そんなのは世間でも許されない。ようは、当たり前の道徳を守り、当たり前に恋もして、当たり前に働く。それだけでいいのよ」


 海棠が、そっと目を伏せた。

 当たり前――それが、あったなら。


「当たり前などと……お城を下々と同等に考えることじたい、許しがたき暴挙です……幕府の権威はどうなります」

「権威?」


 ひな菊の顔に、年に見合わない辛辣な笑みが浮かんだ。声が一段低くなる。


「かつて権勢に溺れ、奢侈の限りを尽くし、(まつりごと)わたくしした宮廷人(きゅうていびと)たちをすめらぎ大王おおきみは見捨て、世を去った。残りかすを駆逐した孝成公は、新たな世を創るために幕府を開いたはずだった。だがそれから四百年を経て、幕府もまた同じ道を辿ろうとしている。権威とは世を治め、民を守るために存在すべきものではないのか。それじたいを守るために世から乖離(かいり)し人を虐げたのでは、本末転倒にほかならぬ。幕府が特殊な存在である必要はない。まして、それを人に見せつけ認めさせようとするは、ただの傲慢ぞ」


 田島の手を取り押さえたまま、ひな菊は毅然と言い放つ。まだ少女の細い背中が、しかし誰の目にもこのうえなく力強いものに見えた。伏竜(ふくりょう)という言葉が思い出される。

 ふと、ひな菊は息をついて笑った。


「ま、そうは言っても、四百年ものの伝統を根底から覆すのは容易なことじゃないでしょうね。とても母上一人の代では成しきれない。だから、あたしは大樹公になるわ。母上の跡を継ぎ、志も引き継ぐ。女だ(てて)なし子だ(あやかし)の子だと、文句を言われたって負けないわよ。何度邪魔をされても、何度でも返り討ちにしてみせるわ」


 竜はいつか雲を従え、悠々と天を行くのだろう。

 姫君が引き継ぐ女大樹公の御世とは、いったいどのようなものだろうか。


 庶民にとって幕府とは、遠く漠然とした存在だった。ただ上から見下ろし、支配してくるだけの存在だ。人々は政に、時には文句を言い、時には無縁のものと考え、ただ日々の暮らしを汲々としのぐばかりだった。けれどこの姫君は、それを根底から変えるという。一体どんな時代が訪れるのか、まだ想像もつかず、途方もない。

 誰からともなく、海棠の姿を見た。

 旗本の家に生まれながら武家社会を嫌い、政にも関心を持たなかった彼は、今なにを考えているのか。さしあたって海棠の顔からはなんの感情もうかがえない。彼は静かにひな菊の背中を見つめていた。

 

 田島が低く笑い出した。調子のはずれた笑いが、しだいに高くなっていく。


「なんという……なんという痴れ者じゃ。なにもかもがでたらめじゃ、狂うておるわ」


 海棠が無言で足を踏み出す。


「お前は気が狂うておるのであろう。ええ、そうであろう。お前の言うことは目茶苦茶じゃ。およそ正気の沙汰とは思えぬわ。公家こうけのご威光も世の秩序も、なにもかもを無視して貶めて……このような……このような痴れ者にっ!」


 瞬間、激した田島がひな菊の手を払いのけて懐剣を振り上げた。一気に間を詰めた海棠がひな菊を引き、自分の後ろに回す。

 かまわずに田島は斬りつけようとした。血走った眼は憎い娘の姿しか見ていなかった。

 ――だが。


「やめて!」


 悲痛な叫びが彼女を止める。

 目の前に飛び込んできた顔に、田島はわれに返った。


 白くはかなげな顔が涙を流しながら見つめてくる。繊細な美貌にいつも翳りをまといつかせていた彼女が、泣いて田島を止めようとしていた。


「もう、やめておくれ……」

「け、恵泉院様……」


 なぜ、ここに彼女が。その疑問を自覚するより早く、別の事実に田島は気づいた。

 力の抜けた手が懐剣を取り落とす。

 田島の眼は極限まで見開かれ、口は開いたまま声も出せない。


「く、首が飛んでる……っ」


 かすれた声で叫んだのは三平だった。髪をふり乱し、涙に濡れながら、恵泉院は首だけでそこに存在していた。


「……叔母上……?」


 あえぐように海棠がつぶやいた。宙に浮いた恵泉院の首が、ふわりとふり返った。

 二人の目が合う。

 背後にかばったひな菊の存在も忘れ、海棠は言葉もなく叔母を見つめていた。恵泉院もなにも言わず、ただ悲しそうな顔で見返すばかりだ。

 その時、地に落とされながらも燃えていた最後の灯りが、ついに力尽きてかき消えた。闇が辺りを覆い、互いの姿もしかとは見えなくなる。

 闇の中、遠く飛び去っていく影を見たように思った。


 与五郎たちが使えそうな龕灯がんどうをさがして拾い上げた。松明は濡れて使い物にならなかった。苦労して火をつけ、辺りを照らす。雪の中に漂う生首はもう見当たらず、田島が放心して座り込んでいるばかりだった。


飛頭蛮(ろくろくび)、ですか? あの、でも、恵泉院様って……?」


 ひな菊以外でいちばん妖に詳しい七枝が、ためらいがちに訊ねた。ひな菊は海棠を見た。彼はまだ、信じられないという顔で黙り込んでいた。


「さすがにあれは、知らなかったのね」


 ひな菊の言葉にふり返る。あの海棠が混乱し、説明を求める顔だった。


「あたしも聞いたことがあるだけで、見るのははじめてだったんだけど」


 ひな菊は息をつく。


「人がなにかに強く執着して、ああなってしまう場合もあるそうよ」

「に、人間なんすか、あれ」


 三平が言ってお蝶に小突かれる。海棠はうつむき、苦しげに息を吐き出した。


「だから……あんなに……」


 それ以上は言葉が続かない。じょうを握る手がかすかに震えていた。


 もう誰も口を開かなかった。ひな菊はそばに来た七枝をそっと抱き寄せた。

 彼らの上に雪は降り続く。いったんは踏み荒らされた地面が、ふたたび白く覆われていく。

 今はただ、静かで冷たい夜だ。

 心の底まで凍えるような冷たさだ。

 いつまでも、いつまでも、雪が降っていた。


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