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晴れて候  作者: 桃 春花
12/17

其の漆 雲は竜に従い、風は虎に従う




恵泉院けいせんいん様」


 呼ばれて恵泉院は顔を上げた。ずいぶん長い時間、考え込んでいた。いつのまにか辺りは真っ暗だ。火鉢の火も消え、室内はすっかり冷え込んでいた。

 田島が部屋に入ってきて、持っていた灯りから行灯(あんどん)や火鉢に火を移した。


「田島……なにか用ですか」


 ぼんやりとながめながら恵泉院は訊ねた。部屋付きの女中はどこだろう。なぜ彼女がこんな雑用をするのだろう。

 かつて自分の世話親であった女は、おぼろげな明かりの中で微笑んだ。

 ――(くら)い笑みだと思った。


「もう、お悩みあそばしますな。あなた様を苦しめる者どもを、これから成敗してさしあげますから」

「……なにを言っているの?」


 恵泉院は震えた。火鉢に火が戻っても、まだ寒さが消えない。

 ……違う。これは、怖いのだ。


「わたくしたちの悲願を、今こそ果たしましょう。どうぞ、そこで吉報をお待ちくだされませ」


 女は出ていく。恵泉院は追いすがろうとしたが、足に力が入らず立てなかった。


「待って、田島……」


 伸ばした手もむなしく、彼女はまた一人で取り残される。

 おさまらない震えが、ますます激しくなっていった。




   * * * * * * *




 夕闇に沈む部屋に火の気はなく、迎えてくれるはずの乳姉妹(あね)もいなかった。


七枝ななえ……いないの?」


 夕餉の前にはかならず帰ってくるひな菊を、七枝はいつもちゃんと用意して待ってくれているのに、珍しいこともあるものだ。

 声を聞きつけて出てくるようすもない。なにか用でもあって席をはずしているのだろうか。まあいいかと思い、ひな菊は行灯に向かった。四方に灯りをつけ、ついでに火鉢にも火を入れる。しゃがみ込んで手足を温めていると、ようやくひな菊の帰城に気づいて奥女中がやってきた。


「まあ、姫様、お戻りにございましたか。お出迎えが遅れまして申しわけございません」

「うん、ただいま」


 お琴という、ひな菊より五つ年上の御中臈おちゅうろうだ。七枝もそうだが、主よりずっと優雅な挙措でやってくる。

 十歳の時から城にいるという彼女は、慣れたようすで室内の状況を確認した。


「おなかがお空きにございましょう。すぐに御膳をお持ちいたします」

「うん、ありがと。ねえ、七枝は?」


 さあ、と彼女は首をかしげた。


「見てはおりませんが……ご用でしたら、さがしてまいります」

「ううん、別にかまわないんだけど。まあ、そのうち来るでしょ」

「さようにございますね」


 お琴は一礼して部屋を出ていった。その後すぐ別の御中臈がやってきて、あれこれとひな菊の世話を焼いてくれた。冷えきった部屋に火鉢が増やされ、上衣(うわぎ)と温かいお茶をさし出される。まだ少しぎこちなさは残るものの、精一杯に気づかってくれるのがありがたかった。

 そうしてすっかり落ち着く頃になっても、七枝はまだ姿を見せなかった。

 

「なにかあったのかな……」


 夕餉の膳を待ちながら、ひな菊はそろりと這い寄る不安を感じていた。






 御膳所で温めなおされた食事を、お琴は運んでいた。途中までは格下の女中がするのだが、姫君の元へ運ぶのは御目見得おめみえ以上の役割だ。

 けれどひな菊の部屋へたどり着く前に、待ち構えていたように松尾が現れた。

 御膳を持ったまま、お琴は上司に会釈した。


「それは、姫様の御膳かえ」

「さようにございます」


 松尾はうなずき、手をさし出した。


「寄越しゃ。わたくしが持ってゆこう」

「あの……」


 お琴はどう答えるべきか、とまどった。

 女中といっても御年寄は別格である。指図をするのが仕事で、こんな身体を使う労働はしない。けれどここしばらく、ひな菊の食事は彼女が運んでいるのだった。

 

「なにをしておる。早う寄越しゃ」


 松尾が急かす。やむをえずお琴は御膳をさし出した。奇妙な事態であっても御年寄の言うことに逆らうわけにはいかなかった。

 受け取った松尾はお琴を下がらせて、一人廊下を進んだ。

 と、見せて、人目がないことを素早く確認すると、途中の部屋に入る。誰もいない部屋に御膳を下ろし、きっちりふすまを閉めて外から見られないようにすると、彼女は御膳の前にひざをついた。

 姫君のために用意された夕餉は、すでに毒味もすまされている。ひな菊の元へ出るまで、誰も手をつけてはならないその膳に。

 彼女はそっと手を伸ばして、椀のふたを取ったのだった。






「遅い……」


 火鉢の前で頬杖をつきながら、ひな菊はなかなか来ない夕餉を待っていた。

 なかなか来ないのは七枝も同様だ。さすがに気になって、ようすを見に行くよう女中の一人に頼んだ。もしかすると具合でも悪くしているのかもしれない。

 昼にお蝶のところでたらふく汁粉を食べたとはいえ、今はもう夜。若いひな菊の元気な腹は、再び空腹を訴えていた。


「ごはんはまだー?」


 ため息まじりに聞くと、かたわらの御中臈が苦笑した。


「御膳所で温めなおしているのでございましょう。じきに参りますわ」

「今日の献立はなんだっけ」

「たしか、蟹の甲羅焼きと生麸の田楽、五菜の白和えに鯛の吸い物とか」

「あ、しまった。聞くんじゃなかった。ますますおなかが空いてきた」


 抱えたひざに顔を突っ伏す。姫君にあるまじき格好だが、もう皆慣れてしまってこの程度では文句も言われなくなった。

 火鉢を三つも置いていても、しんしんと冷えて寒い。さきほどから雨戸の向こうでひそかな水音がしている。とうとう天がこらえきれず、雪まじりのみぞれを降らせ始めたのだった。


「積もるかなあ」

「さあ、いかがでしょう」

「ここんとこ天気悪いよねえ。すかっと晴れてる方が余計寒いとはいえ、やっぱりお天道様が恋しいわ」

「陽が当たりますれば、暖こうございますものね」


 ひな菊は閉ざされた障子をぼんやり眺める。すると、にわかに廊下が騒がしくなった。

 ようやく夕餉の膳が来たのかと思ったが、それにしては騒々しすぎる。なにかあったのかと見ていると、複数の足音が荒々しく近づいてきた。


「なにごと――きゃあ!」


 かたわらの御中臈が悲鳴を上げた。廊下を集団で走ってきたのは、女中ではなくあやかしたちであった。

 一つ目小僧に百目鬼どめき、座敷童子、おまけの付喪神も一緒に、ひな菊の部屋へいっせいに転がり込んでくる。


「こらぁ! 御殿内で暴れるんじゃない! 外行ってやんなさい!」

「ひ、姫様、そこが問題では……」


 ひな菊は妖たちを叱り飛ばしたが、彼らは逃げなかった。まっすぐひな菊の元へやってきて、しきりにまとわりついた。


「なによ、ちょっと。なにかあったの」


 座敷童子が袖を引っぱる。百目鬼はなにが言いたいのかしきりにじたばた手足を動かし、一つ目小僧は背中から押してきた。ちなみに付喪神は周りをぐるぐる回っている。


「わかった、わかったから、そんなに引っぱらないで」


 彼らがひな菊をどこかへ連れていきたいのは明らかだ。しかたなく、ひな菊は火鉢の前から腰を上げた。


「姫様、あの……」

「ああ、大丈夫、ちょっとようすを見てくるわ」


 妖たちに連れられて廊下へ出れば、女中たちがこわごわと遠巻きに見守っている。やれやれと頭をかいて、ひな菊は引っぱられるままに廊下を歩いた。

 連れていかれたのは、少し離れた場所にある部屋だった。平素は使っていない小部屋だ。ここになにがあるのだろうと思いながら襖を開いたひな菊は、目の前に現れた光景に愕然となった。


「松尾!」


 部屋の中で、松尾が倒れていた。

 着物のすそを乱し、苦悶の表情を浮かべてうめいている。畳には吐いた跡、そして彼女のすぐそばに、ひっくり返った御膳があった。

 こぼれた吸い物の椀から、ひな菊にだけ見える、まがまがしい瘴気が立ち上っている。


「松尾様が――!」


 後を追ってきた御中臈が悲鳴を上げた。

 ひな菊は松尾に駆け寄った。


「松尾! 松尾、聞こえる!? 松尾!」


 大声で呼びかけると、松尾があえぎながらも目を開けた。ひな菊は背後の女中たちに怒鳴った。


「医師を呼びなさい! それから水を! やかんでも瓶でもなんでもいい、飲みやすい器に入れてありったけ持ってきなさい。早く!」

「はっ、はいぃっ」


 女中たちがあわてふためいて走っていく。ひな菊は松尾の手を握りしめた。


「松尾、もう少しこらえて。すぐよ、すぐ助けるから……!」


 震える手が意外な強さで握り返してくる。なにかを訴えようとしているのか、それとも苦痛のせいなのか。

 ひな菊は額に彼女の手を押し当てた。畳に転がった椀を叩きつぶしたい気持ちだった。


「松尾……どうして」


 ひな菊の元へ運ばれるはずだった、毒入りの御膳。

 それを、かわりに彼女が口にしたのだ。






 幸い口にした毒の量は少なく、大量に水を飲ませて吐かせたため、松尾が命を落とすことはなかった。

 急ぎ呼ばれた奥医師は、数日経てば毒は自然に体外へ排泄されると言った。当分安静が必要だが、まずは安堵したひな菊である。

 汚れた着物を着替えさせられて床に横たわった彼女は、普段の迫力が影も見えずひどく弱々しげだった。

 少し前から意識を取り戻していた松尾は、枕元に座して見守るひな菊にかすれた声で言った。


「姫様……どうぞ、おかまいなく……お部屋へお戻りくださいませ」

「かまうに決まってるでしょう」


 ひな菊は押し殺した声で言い返した。怒鳴りたいのか、泣きたいのか、自分でもよくわからない。腹が立っているのは誰に対してなのか、それもわからなかった。


 誰よりも、自分自身にかもしれない。


「松尾……どうしてあんな真似をしたの。あたしなら毒なんか平気だったのに。食べなくても、入ってることが一目でわかるのに。母上から聞いていたでしょう」

「万一ということも、ございます」


 弱い声ながら、松尾はしっかりと答える。あまりしゃべらせてはいけないとわかっていながら、聞かずにいられなかった。


「上様と相談し、この西の丸には極力信頼できる者を集めたつもりでしたが……再三、姫様の御膳に毒が仕込まれていたと知り、己の甘さを思い知りました。誰が下手人なのやもわからず……なれば、自分で毒味をするよりございませぬ」

「だから、あたしなら大丈夫だったのに」

「いかなる危険をも姫様にはお近づけせぬと、誓っているのでございます。たとえ、ご自身で見抜かれるお力をお持ちであろうとも……それでも、念には念を入れねばならぬのです」

「そんな……」


 そんなにまで、してもらう必要はない。

 自分にそこまでの価値はない。彼女が命をかけて守るに値しないのに。


 ひな菊は松尾を信用していなかった。敵でないことはわかっていたが、すべてを打ち明けられる相手とは考えていなかった。

 毒のことを松尾に話せば、ことが表沙汰になる。内々に処理してよけいなさわぎを起こさずにすませる、ということができなくなると考えたのだ。

 表沙汰にしたくない理由だって、自分勝手なものだった。

 関係のない者がとばっちりをくっては気の毒だと、そう言ったのは嘘ではないけれど、ほとんど建前だ。本当のところは、ただ人に知られたくなかっただけなのだ。


 自分が、誰かに殺したいと思うほど厭われていることを。

 ああ、やっぱりと、冷たい目を向けられるのがいやだった。


 そんな利己的な理由で、母が信頼する腹心にすら秘密にしていたのに。


「……ごめんなさい」


 ひな菊はうなだれて、ひざに置いた拳をきつく握りしめた。こんなに心の狭い自分のために、彼女が命をかける必要などなかったのに。

 いいえ、と松尾は淡々と否定した。

 

「わたくしは己の職分を果たしたにすぎませぬ。……いえ、毒の件を見落としていた時点で、お詫びのしようもない失態でした。すべて、わたくし自身の責任です」


 ひな菊は何度も首を振った。違う、そうじゃない。自分がもっと彼女を信頼して、はじめから相談していれば――

 ……今さらそれをくりかえしても、起きてしまったことはどうにもできない。


 しゃべり疲れたように松尾が目を閉じたので、ひな菊はそれ以上なにも言わなかった。ようやく落ち着いたばかりの彼女に無理はさせられない。しばらくようすを見、松尾付きの女中に後を任せると、ひな菊は廊下に出た。


「あの、姫様……」


 廊下で控えていた女中が、ためらいがちに声をかけてくる。ふり返らないまま、ひな菊は静かな声で訊ねた。


「今日の毒味役は誰?」


 声にまじるひやりとしたものを、女中は感じて口ごもる。重ねてひな菊は命令した。


「のちほど詮議せんぎする。関係者を全員待機させておきなさい」

「は、はい」


 甘いというなら、ひな菊こそだろう。自分さえ口をつぐんでいれば大きな問題にはならないと思っていた。自分は毒など見破れるからと。

 その慢心が、かえって事態を悪くした。調べるべきことは調べ、処罰すべき者は処罰せねばならなかったのだ。

 

「姫様、七枝のことですが……」


 無言で部屋へ戻ろうとしたひな菊の背中に、女中が懸命に話しかけてきた。

 ひな菊は瞬時にふり返った。そうだ、忘れていた。七枝はどうしたのだ。

 ――まさか、七枝まで。


「七枝はどうしたの」

「はい、あの、ようやく事情を知っている者が見つかりました。七枝は急な宿下がりをしたようにございます」

「宿下がり?」


 ひな菊は眉を寄せた。おもいがけない話だった。

 御目見得以上の女中に宿下がりは許されない。唯一の例外は、親が危篤になった時くらいだ。


「宿下がりの理由は?」

「父親が、町で崩れてきた材木の下敷きになったとか……大怪我で、命に関わるやもという話でしたので、急ぎ宿下がりのお許しが出たよしにございます」


 父親。山吹の平太郎が?


「それは、いつ」

「七つ頃にございます」

「…………」


 冷気とは別の寒さが身体を這い登ってくる。ひな菊は震えそうになり、唇を噛んだ。


 その話は嘘だ。七つ頃というなら、ひな菊はまさに山吹家で平太郎たちと話をしていた。彼の無事をこの目で確認していた。

 家へ帰ることができない七枝のためにも、ひな菊は城下へ出た時には山吹家へ寄るようにしていた。互いの近況を話し合い言づけなどを預かるのが習慣だ。今日もそうして彼らの顔を見てきたばかりだった。


 いつもとなにも変わりはなかった。平太郎もその妻も使用人たちも、皆元気そうにしていたのに。

 誰が、そんな嘘で七枝を連れ出したのだ。


「その知らせを持ってきた者は」


 女中は困ったように首をかしげた。


「さ……表からの使いとしか」

「わかった。ご苦労」


 話を伝え聞いただけの彼女からは、これ以上の情報は得られない。ひな菊は女中を下がらせ自室へ戻った。

 誰が仕向けたことにせよ、目当ては七枝自身ではないだろう。それなら大奥内で毒でも盛ればよい。わざわざ連れ出したということは、相手の真の標的は十中八九ひな菊だ。


 さわぎの後でも、ひな菊の部屋はきちんと整えられていた。行灯の灯りも火鉢の火もそのままだ。中へ入ったひな菊は、さきほどはなかったものがあることにすぐ気付いた。

 火鉢の前、ひな菊の指定席に、結んだ文がさりげなく落とされている。ひな菊は文を拾い上げて開いた。




  御小姓七枝殿、預かりし候

  ()こく板槻(いたづき)千静寺(せんじょうじ)にて

  尚姫君様御一人のこと御願申上也おねがいもうしあぐるなり

  くれぐれも、余人に話さるゝべからず




 短い書き付けを、ひな菊は手の中で握りつぶす。

 瞳に怒りを宿し、長い時間、ひな菊は一人座って時を待った。



七つ=4時

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