《二》
昨日に続き、今日も天気は悪かった。
降らないのが不思議なくらいの曇天だ。風も強く、道行く者は皆身体をちぢこめている。
「はあ……おなか空いた……」
すきっ腹に寒さがこたえた。空腹も寒さも人をみじめな気分にするものだが、その両方に責められたのではたまったものではない。
あてもなく町を歩きながら、ひな菊は力ない息を吐いた。
やはり朝餉くらい食べてくるべきだったか。ぐずぐずしていたら海棠が来てしまうと思い、大急ぎで城を飛び出したが、考えてみればなんで自分が逃げねばならんのか。
そうは思えど、昨日の今日で彼とどういう顔をして向き合えばいいのか、わからないからしかたがなかった。
きっと海棠はなにくわぬ顔をしてやってくる。それはもう絶対間違いない、確信する。そういうふてぶてしい男だ。平然と笑って来るに違いないが、こちらはとてもそんなしらじらしい態度は取れない。知らん顔で迎えることなどできないし、さりとて皆の前で大げんかをするわけにもいかない。そんなことをしたら、原因を説明しないわけにはいかなくなる。
情緒にはなはだ欠けると嘆かれてはいるが、ひな菊にも昨日のできごとを知られたくないと思う程度の羞恥心はあった。
七枝にだけはいつまでも隠していられないが、話す前にちゃんと海棠と決着をつける必要がある。
ひな菊はただ逃げたわけではなく、いちおう今後どうすべきかを考えているのだった。
昨日は頭に血が上り一瞬海棠を殺してやろうかとすら思ったが、一晩たった今ではもう少し冷静にふり返ることができる。今にして思えば、あれはいかにも唐突で不自然ななりゆきだった。やはり海棠は本気ではなかったのだろう。
いつもしてやられてばかりだから意趣返しがしたくて、ひな菊は意地悪にふるまった。海棠に参ったと言わせたくて、彼が隠そうとしているものをことさらにあばき立てた。それに海棠も腹を立て、大人げない報復をしたと、言ってみればそれだけの話だろう。
ただのけんかだ。客観的に見れば大したことではない。どっちもどっちといったところか。
「……まあ、あたしも、ちょっとは悪かったわよね……」
反省する気が、ないわけでもなかった。
しかし、だ。
「でも、あれはないわよね」
海棠に対する怒りは、まだおさまってはいなかった。
いくら腹を立てたからといって、あんな真似はないだろう。無礼にもほどがある。いや、あやつの無礼は今さらだが、それにしても悪質だった。襲うふりをしてひな菊をおびえさせ優位に立とうとするなど、男としても最低ではないか。そうやって脅せばおとなしくなると思われたなら、やはり許しがたい。なめるなと言ってやりたかった。
こちらから折れて和解する気にはとうていなれない。向こうが平身低頭して謝ってこないかぎり、顔を合わせたくもない。
けれど海棠が平身低頭するなど、それも想像がつかなかった。うわべだけは礼節を守っているようで、じつのところ不遜きわまりない男だ。ひな菊に対して本気で頭を下げたことなど一度もあるまい。
そう、海棠は、ひな菊を主君とは思っていない。それくらいわかる。年上だから、ひな菊より強いからという理由だけでなく、もっと深いところで認められていない。主君どころか対等な存在とすら思われていないだろう。
その理由はひな菊自身というより、武士というものじたいに嫌悪感を抱いているような姿、叔母の不幸に対する憤り――その辺りにあるような気がした。
「――って、そうじゃなくて! あたしは怒ってるのよ! あいつを理解してやろうとかそういうんじゃなくて!」
思わずひな菊は頭を抱えた。すれ違った人がぎょっとしてふり返っていく。往来だったと思い出して口をつぐんだが、かわりに今度はぐうと腹が鳴った。
「くう……あたしがこんなに辛い思いをしているのも、全部あいつのせいよ。ああもう、海棠のばかやろー、腹黒の根性悪っ、むっつり助平のすっとこどっこい!」
すっかりやけになったひな菊は、人目もかまわずわめいた。周囲から注目を浴びるがどうでもいい。それよりなにより腹が減って、みじめで辛くてむなしかった。
「お嬢さん?」
泣きたい気分でいたら、声をかけられた。ふり向いた先にいたのは見覚えのある女だった。
昨日会ったばかりのお蝶だ。まさに今思い悩む原因たるできごとの、現場に居合わせた人物だった。
「ああ、やっぱり」
そういえば、いつのまにか彼女の店の近くに来ている。人込みの向こうにわかば屋の看板が見えた。
「昨日はどうも。今日はお一人で?」
足を止めたひな菊に、お蝶は愛想よく近寄ってきた。昨日のできごとなどなかったかのような顔だ。どう反応すればよいのか、ひな菊は迷った。
「海棠の旦那は一緒じゃないんですか」
この一言に、たちまち顔がこわばる。お蝶も気づいて苦笑した。
「まだ仲直りしてないんだね」
「…………」
ひな菊はふくれっ面をそむけた。
「まあ、あれはちょいとやりすぎだと思ったけどねえ。許してやっておくんなさいよ。旦那も本気じゃなかったんだよ」
それはわかっている。わかっているが、許せることと許せぬことがあるのだ。
「あたしからもお詫びしますよ。そうだ、また店においでなさいな。旦那のかわりにごちそうしますよ」
この申し出にはかなりよろめいた。あやうくうなずきそうになったが、なけなしの矜持をかき集めてひな菊は断った。
「けっこうよ。あなたに詫びてもらう必要はないわ」
「まあそう言わず。あたしらは身内みたいなもんだからさ。旦那の失礼はあたしの失礼ってことで、お詫びさせてくださいよ」
お蝶は引き下がらない。どういうつもりなのだろうと、ひな菊はいぶかしんだ。
昨日、目の前であれだけ派手な真似をしたのだ。たいてい怖がって逃げ出すか、存在を拒絶して無視するようになるか、さもなくば追い払おうと攻撃的になるものなのに。
そうならない者も、まれにはいるけれど……。
「ね? すぐそこじゃないか。寄ってってくださいよ」
どう答えようと、ひな菊は口を開きかけてためらった。すると口より先に、腹が盛大な音を立てて訴えた。
「…………」
今のは三間四方に響きわたったことだろう。沈黙するひな菊の顔は赤かった。
「美味しいお汁粉がありますよ。なんなら蕎麦でもうどんでもご用意しますから」
お蝶は笑わずに優しく言ってくれる。意地を張るのをやめて、ひな菊はうなずいた。
連れ立って向かえば、店先で若者が尻っぱしょりに股引で掃除していた。これも昨日会った三平だ。お蝶が戻ったのに気づいて、そばかす顔を向けてくる。その目がひな菊を見つけた。
「あっ、昨日の……」
ぎくりとした顔で彼は固まった。それが当然の反応だ。さて、逃げるかどうするか。ひな菊は黙ってようすをながめた。
すると、
「……やっぱり、可愛いなあ……」
てれん、と三平の鼻の下が伸びた。
「は?」
ひな菊の眉が寄る。
「三平、汁粉があったろう。あっためてきとくれ」
「へいっ」
お蝶に指示され、三平は威勢よく厨房へすっ飛んでいった。
「……あの人、記憶力ないの?」
「言ったろう、アホなんだって」
お蝶は軽やかに笑った。
「だから喉元をすぎれば、すーぐ熱さを忘れっちまうのさ」
――じゃあ、あなたは?
店に入っていくお蝶の背中に、ひな菊は無言で問いかける。
「そら、寒かったろ。そんなとこいないで火鉢のそばにお行きなさいな」
うながされて店の奥へ行けば、昨日の頬傷の浪人がまた酒瓶をかたわらに一人で呑んでいた。
「よう、昨日の嬢ちゃんか」
ひな菊に驚くでもなく、ちらと目を向ける。
「……こんにちは」
「おう」
あいさつはそれきりだ。ひな菊は黙って彼の向かいに腰を下ろした。
「餓鬼は元気だな。そんな格好で寒くねえのかよ」
むき出しのひざ小僧を見てくる目に、いやらしげな色はない。軽い苦笑だけだ。
「そういや、まだ名前を聞いてなかったな。俺は杉生与五郎だ」
「ひな菊よ」
「ひな菊……ね」
湯呑みを口へ運びながら、与五郎はなにかを思い出す顔になった。
「遊里にそんな名前の妓がいたなあ」
――遊女か。
「ちょいと与五郎さん、失礼だろ」
「なんだよ、本当にいるんだからしょうがねえだろう」
そうか、この名前は遊女風なのか。新たな発見である。
まあひな菊というのはじつは通り名で、本名は別にあるから、遊女の源氏名に通じるものがあるのかもしれない。
「ああ、悪かったよ。別にけなしたわけじゃねえや。あれだ、雅びな名だってこったろ」
考え込んだひな菊に、与五郎は言いわけをした。
「……昨日もいたけど、あなたがこの店の主なの?」
「俺が?」
ひな菊の隣に腰を下ろしながら、お蝶が答えた。
「ここはあたしの店だよ」
「お蝶さんの?」
ずいぶん若い店主だ。てっきり店主の娘かなにかだと思っていた。
「金を出してくれたのはおとっつぁんだけどね」
「立派な女将だぜ。俺の仕事は、ヒモだな」
「紐?」
下駄の先でお蝶が与五郎の足を小突いた。
「ほら、そんな言葉教えるとまた海棠の旦那に怒られるよ」
海棠の名前が出てくると、たちまちひな菊の顔は不機嫌になる。気づいたお蝶は困ったように笑いかけた。
「旦那は、今日はどうしてなさるんで?」
「知らない。会ってないわ」
「なんだ? 痴話喧嘩続行中か」
与五郎が低く笑う。ひな菊はむっと彼をにらんだ。
「変なふうに言わないで。あたしと海棠は別になんでもないわ」
「そうか? ま、どっちでもいい。仲がいいことに変わりはねえや」
仲などよいものか。どこを見てそう思うのだ。
「海棠が好きなのは別の人よ」
「ああ、たしかに、どれだけ女遊びしても本気ではまるようすはなかったな。意外と純に一人を想い続けてるって感じだったが……それがあんたなんじゃねえのかよ」
「違うわ。あたしは二月ほど前に知り合ったばかりよ。そんなに親しい間柄じゃない」
「そうかい」
お蝶がお茶を淹れてさし出してきた。
「でも旦那はお嬢さんを大事にしてるよ。それは昨日ちょいと見ただけでもわかったよ」
「義務でやむなくね」
「そんな……」
「あんたがそう思うんなら、そうなんだろうな」
そっけない与五郎の物言いが、なぜかぐさりときた。叱られたわけでもないのに顔が上げられない。
「与五郎さんってば」
「んだよ……ったく」
お蝶ににらまれて、与五郎は面倒そうに頭をかいた。
「餓鬼は難儀だな。いちいち言ってやらなきゃわからねえのかよ」
「あんただって、こんくらいの時はそうだったろ。昔を忘れて偉そうな顔してんじゃないよ」
与五郎をやり込めて、お蝶はひな菊に優しく話しかけた。
「ねえ、お嬢さん。旦那はね、なにも意地悪であんな真似をしたんじゃないんだよ。お嬢さんが大事だからこそさ」
「……どういう意味?」
理解できずにひな菊は彼女を見る。大事で、なぜあんなことをする。
年上の女らしい優しさと、たしなめるまなざしとで、お蝶はひな菊を見返した。
「あたしにゃ旦那の気持ちがよくわかるよ。だってねえ、こんなにきれいで可愛いのに、自分じゃ全然わかってないみたいなんだもの。無防備っていうかさ。男の目なんかちぃとも気にしちゃいないだろ。旦那にしてみりゃ気が気じゃないと思うよ」
ひな菊は自分の脚を見下ろした。短い袴の裾からむき出しの素肌が伸びている。七枝にも松尾にもさんざん叱られた。海棠もことあるごとに指摘していた。手合わせの時などにさわったりしたのは、ひな菊への警告だったのだろうか。
ひな菊は与五郎を見た。
「そんなに気になる?」
与五郎は鼻で笑った。
「俺から見りゃ、まだ小便臭ぇガキンチョだ」
「……あ、そ」
「けど、寄ってくる男は多いだろうな」
からかうでもなく彼は言う。ひな菊は真面目に聞くことにして、どうだったろうかと考えた。
たしかによくからまれる。最近は特に多くなってきた。だが女が一人でいればそんなものだろうと、深く考えなかったのだ。
にやけた連中など自力で撃退できるから、いくらからまれても気にしていなかったが……気にするべきだったのだろうか。
「旦那はねえ、多分お嬢さんのことを、大事に守って隠し込んで、そこらの男にさわらせたくも見せたくもないんじゃないのかね。それが色恋のせいじゃないとしても、旦那にとってお嬢さんは宝物なんだよ」
さすがにそれはどうだろうと首をかしげる。そこまで思われているとは、ちょっと信じられない。
仮にそうなのだとしても、
「よけいなお世話だわ。あたしは海棠の持ち物じゃないわよ。見せるも見せないも、決めるのはあたしよ」
「まあね、男の勝手な言い分じゃあるけど」
お蝶は愉快そうに笑った。
「そうつれないこと言っておやりなさんな。女に女の気持ちがあるように、男にも主張したいところがあるんだよ。いじらしいだろ? 守りたい、大事にしたいっていうんだからさ。男心も尊重してやるのが、いい女ってもんだよ」
あのにくたらしくもくえない海棠が、お蝶にかかるとまるで純情少年のごとき言われようだ。あらためて彼らの親しさを感じさせられた。
「海棠とは長いつきあいなの?」
「うん? そうだねえ」
お蝶と与五郎は目を見合わせた。
「初めて会ったのは、旦那がお嬢さんよりもうちょっと下くらいの頃だったかねえ」
「あの頃からふてぶてしい、にくたらしい餓鬼だった」
「紅顔の美少年ってやつだね。そりゃもう可愛くて、いいとこの坊ちゃんらしくお上品で、なのにやることはえげつなくてさ」
どうえげつなかったというのだろう。聞いてはならないような。
「うちのおとっつぁんが呆れっちまうくらいの悪童だったさ。なんかお家の方がややこしいみたいでね、早い話ぐれてたんだろうけど、そのうちそれが地になっちまった」
「……よほどの、悪行を?」
いやいや、と二人は笑った。
「仁義に反するこたぁしてねえぜ」
仁義? とひな菊は首をかしげる。
「暴れん坊でも非道じゃなかったってことさ。堅気衆にゃ迷惑をかけないってのがあたしらの掟だからね。そういう意味での悪さはしてないよ」
お蝶の説明を聞いて、少しひな菊は安堵した。海棠がどんな過去を持っていようと関係ないと言えばそれまでだが、やはり悪人だったとは聞かされたくない。
「相手にしてたのは、もっぱらやくざ者さ。まあ、敵には容赦なかったね。けど身内には優しかったよ。お武家の息子だからって威張りちらさなくて、あの頃からにくい男だったね。だからついたあだ名が『旦那』なのさ」
「はあ……それってあだ名だったの」
なんだかもう、言葉もない。想像をはるかに超える少年時代だったようだ。初めて会った時、城仕えの武士たちとはまるで雰囲気が違うと感じた自分は正しかったわけだ。
「家の事情っていうのは……」
そもそも、海棠がぐれた原因とはなんだったのだろう。彼が武士のいでたちを嫌うのも多分同じ理由だ。核心に近づいた気がしたが、お蝶と与五郎の表情に気づき、ひな菊は質問を取り下げた。
「立ち入りすぎたわね」
お蝶が申しわけなさそうに言った。
「お嬢さんが直接聞いたら、きっと話してくれるよ。けど、あたしらが勝手に言うわけにはいかないからね」
「そうね」
もっともだ。
「仁義に反するのよね」
聞いたばかりの言葉を使えば、一瞬お蝶と与五郎は目を丸くし、そして吹き出した。
「ま、そういうこった」
ひな菊も笑う。話をするうちに、すっかり彼らのことが好きになっていた。
やくざ者だと言いながら、彼らは親切で暖かい。ひな菊が呼び出した妖のことを、なにも聞こうとせず優しくしてくれる。ひな菊が海棠の知り合いでなかったとしても、彼らの態度は変わらないのだろう。
「へい、お待ちぃ! あっつあつのお汁粉でござーいっ」
厨房から三平が出てきた。盆の上で湯気を立てている椀は四つ。ちゃっかり自分の分も用意したらしい。
「ありがとう」
さし出された椀を微笑んで受け取れば、そばかす顔が真っ赤に染まった。
「ねえ、ここって居酒屋なのよね。今さらだけど、なんでお汁粉が出てくるの」
「客に出すもんじゃないけどね。仲間の溜まり場になってるから色々用意しとかなきゃいけないんだよ」
四人で火鉢を囲んで食べる汁粉は、今まで食べた中で最高に美味しかった。身体の奥まで温まって、沈んでいた気持ちが穏やかになってくる。
「海棠は、甘いものが嫌いみたいね」
「そりゃもう。こんなの見るのもやだって顔するね」
「匂いだけでもいやがるっすよ」
「じゃあ、好きなのは?」
「酒だな。ザルっつーかウワバミっつーか、やつがつぶれたとこはまだ見たこたぁねえ」
「酒か……」
やわらかく伸びる餅を食べながら、ひな菊は考えた。では松尾に頼んで、とびきりの美酒を用意してもらおう。
明日は逃げずにちゃんと彼と話をしよう。謝るべきところは謝って、もちろん向こうにも謝らせて。もう少し、歩み寄ってみてもいいだろう。
厭味で、腹黒で、気障でむっつり助平のむかつく男だけれども。
多分、そんなに悪いやつじゃない。
主君だとは、そう簡単に認めてもらえないだろうけれど、対等の友達くらいにはそのうちなれるかもしれない。
……なりたいと、思う。
そのために努力しようと、ひな菊は思った。とりあえず明日、仕切り直しだ。
気持ちを決めて、ひな菊は汁粉を飲み干した。心が晴れればさらに食欲がわいてくる。好きなだけどうぞというお蝶の言葉に甘えて、ひな菊は三杯もおかわりをしたのだった。
だがその後、ひな菊は仲直りどころでない事態に直面することになる。
城に戻った彼女を待っていたのは、冷たく長い夜だった。