其の陸 一顰一笑
脇息にもたれて恵泉院は息をついた。身体がだるく、頭も重い。
風邪のような感じだが、違うとわかっていた。
このところずっと、おかしな夢を見るせいだ。起きていても夢と現実との境がはっきりせず、まだ眠っているような気分なのだ。
息子を亡くして以来心が晴れることなどなかったが、今は悲しみに加えて不安がいや増すばかりだ。おそろしくていてもたってもいられなかった。
片隅に置かれた手鏡を引き寄せ、己の顔を映してみる。彼女はため息をついた。
ひどく老け込んでしまったものだ。まだ美しいと言ってもらえても、かつての若々しさはどこにもない。やつれ、衰えた女が映っているばかりだ。
ふいにそれが角の生えた悪鬼に見えて、彼女は小さく悲鳴を上げた。壁に叩きつけた鏡が割れて、畳の上に破片が散乱する。
おそるおそる顔や頭に手をあてる。角など生えていない。どこにもおかしな感触はない。なにも異常がないことをたしかめ、ほっと息をついた。
はたりと、ひざの上に涙が落ちた。
脇息に顔を伏せ、一人、恵泉院はむせび泣いた。
「あの小娘はまだ生きていやるのかえ」
田島は苛々と、煙草盆に煙管を叩きつけた。
前では中年の女が一人、かしこまっている。表使の役にある、おふでという女だ。
「はい……表からは、まだなんの知らせも」
機嫌の悪い上司にびくびくしながら、おふでは答えた。表使とはその名のとおり、外部と大奥との取り次ぎ役である。大奥の外交官とでも言うべき立場だが、おふではこのところもっぱら田島のために、ある密かな企ての連絡係を務めていた。
灰を落とした煙管を噛みながら、田島はぶつぶつとつぶやいた。
「ええい、なんとしぶといのじゃ。砒毒を食ろうて、ぴんしゃんしておれるはずはないのに」
「あのう……やはり、人間ではないからなのではありますまいか」
話が話なので、人払いをしてあってもおふでは落ち着かない。誰にも聞かれていないかと、何度もおちつきなく辺りに目を配った。
「姫君は妖の子と申しますから……普通のやり方では通用しないのでは」
「海棠どのもそのようなことを言うておったな。まさかと思うておったが、ほんに人ではないのか。つくづく忌まわしき娘よ」
「田島様、あの、姫君を狙って祟られたりしませんでしょうか。例の生首も、もしや我らのことを知って、姫君が仕向けられたことなのでは……」
「ならばどうした。祟りをおそれてこの大奥で暮らせるか。今さらじゃ。このようなこと、代々の大奥で当たり前に行われてきたのじゃぞ。なにをおそれる必要がある」
ぴしゃりと返して、田島はおふでをにらんだ。みじんも動揺しないあたり、さすがの貫祿ではある。
「そもそも恵泉院様の若君、鶴千代君が亡くなられたのも、自然のことではないのじゃぞ。祟るというならこちらにこそ権利があろう」
おふでは賢明に返答をさし控えた。彼女は大奥に勤めて二十年以上になるから、その当時のことも知っている。鶴千代君の死因は麻疹とはっきりしていたのだが、田島の中では違うことになっているのだった。
「せっかく側付きになったというに、海棠どのがぐずぐずしておるから、なんの成果も上げられぬまま年が明けてしまうわ。年始の儀ではあの娘が正式に世嗣として諸侯に披露されてしまう。それだけは我慢がならぬ」
火もついていない煙管を、また田島は叩きつけた。
「かくなるうえは荒っぽい手段もやむをえまい。おふで、急ぎ表に知らせを送るのじゃ。腕の立つ者を集めよとな。そうじゃ、海棠どのが紹介してくれた者どもがおる。そやつらに準備させるのじゃ」
「た、田島様、さように派手な真似をして大丈夫なのでしょうか。万一上様のお耳に入りましたら……」
「おふで」
眼力で田島は配下を黙らせた。
「この期におよんで怖じ気づくでないわ。もとより、ことが露顕すれば全員死罪じゃ。始めから覚悟の上であろう」
「は、はい……」
「じゃがの、公方様にしたところでいつまでも安泰ではないのじゃぞ。あの方がおられる限り、我らの憂いは払えぬのじゃからな。じきに代替わりしていただくことになる。分家筋には立派な跡継ぎがお育ちじゃからの」
「…………」
この女は姫君だけでなく大樹公をも弑する気でいる。そうして男の大樹公を擁立し、おのれの息がかかった女を側室として送り込むのが狙いだ。かつて、恵泉院を先代のそばへ上げたように。
大奥で権力を握る女ならば誰でも抱く野望ではあるが、そのために暗殺にまで手を染めようとはおそろしい。たしかに長い歴史の中、何度となく同様の事件は起きてきた。しかし自分の時代に目の前で行われようとは……ましてや、みずから加担することになろうとは。
全身に震えが走ったが、おふでとてもうあとには引けぬ身だった。今さら、逃げることなど許されない。そんなそぶりを見せれば殺されるだろう。ここまで関わった以上、捨て身で勝負に賭けるしかなかった。
「十九代様がお立ちになったあかつきには、おふで、約束どおりそなたも御年寄になれるよう取り計ろうてやる。よいな、そのためには、ここが第一の正念場ぞ」
「……はい」
低く答え、おふでは頭を下げた。
「すべては紫田公家繁栄のためぞ。この華那の国に、正しきご政道を取り戻すのじゃ」
熱にうかされた目で田島は宣言する。妄念はおふでにも乗り移り、ためらいやおそれを遠くへ押しやるのだった。
* * * * * * *
「姫様は、いらっしゃいません」
告げられた言葉は、なかば予想していたものだった。
西の丸に主の姿はなく、海棠を出迎えたのは七枝だけだった。
「本丸にお出向きですか? うかがってはおりませんでしたが」
我ながらしらじらしいと思いつつ、いちおう聞いてみる。いいえと七枝はにこやかに首を振った。
「いつものごとくトンズラ――あら失礼、姫様のお口がうつりましたわ。お城の外へお出かけにございます」
「いつからでしょう」
「ご起床の時刻にはいらっしゃいました。お支度をすませ、朝餉をお持ちした時には、もういなくなっておられました」
では、昨日はちゃんと戻ったのだ。
城で騒ぎが起きるようすもなく、自分のところに遣いも来なかったから、多分そうなのだろうとは思っていたが、ひとまず息をついた海棠だった。
「朝餉も召し上がらずに出かけられたのですか」
「ええ、そうなんですの。珍しいでしょう、あの食いしん坊が」
七枝の言いように小さく笑い、海棠は室内を見回した。
ものの少ない部屋は、元気な主の姿がないとひどく寂しく感じられる。
その中で唯一、文机の上にあざやかな色があった。雪の中に咲く赤がある。彼の視線に気づいて七枝もそちらを見た。
「きれいな飾りですわね。昨日、姫様がつけて帰られましたの。とてもお可愛らしかったのでお誉めしたら、とたんに投げ捨ててしまわれましたのよ。もったいない」
「……そうですか」
姫君が失踪したというのに、七枝はいたって冷静だ。慣れているというだけのものではない、別の雰囲気があった。
ことさらにこやかすぎるようにも思える。
この少女には、知らんふりをしても意味はないのだろう。
「姫のごようすはいかがでしたか」
「ええ、それはもうご機嫌ななめで。ずいぶんふさぎ込んでおられました」
にこにこと、そんなことを言う。
「周りに当たる方ではないのですけど、その分ご自分の内に溜めてしまわれるのが心配ですの」
「理由を七枝どのはご存じなのですか」
「いいえ。姫様はなにもおっしゃいませんでしたから」
そう言いながらも、七枝は確信を抱いているようだ。微笑みながら瞳の奥では辛辣に海棠をにらんでいる。海棠はつい苦笑した。
「七枝どのからお聞きにもならなかったんですか」
「わたくしは姫様のご気性をよう存じ上げておりますもの。ご自分からおっしゃらないということは、今は聞いてはいけない時なのでしょう。お気持ちに整理がついて、話してもよいとお思いになりましたら、きっと教えてくださいます。それまでお待ちします」
武家の娘らしい毅然とした態度で七枝は答えた。
「信頼しておられるのですね」
「ええ。姫様はわたくしの妹にして主。なにより大切なお方です。わたくしのなすべきことは、姫様がお幸せであられるよう心を配ること。姫様を思い煩わせるものがあるならば、それはわたくしにとっても敵です」
微笑みの挑戦状が叩きつけられる。海棠は静かに一礼して、少女の怒りを受け流した。
「では、私も姫をお喜ばせする方法を考えるとしましょう。ひとまず今日はこれにて失礼いたします」
「はい、ご足労様にございました」
うやうやしくお辞儀をする七枝と別れ、大奥を退出する。表も通り抜けて、そのまま西の丸から出た海棠は、次に本丸へと向かった。
二月近くの間、西の丸だけに通いつめていたわけではない。本丸の役人たちにもそろそろ顔なじみが増えていた。煩雑な手続きを経て要望を取り次いでもらう。待たされるかと思ったが、意外なほどすぐに許可が下りた。
中奥の庭へと海棠は通された。この時刻、大樹公は私的空間で自由時間を過ごしている。学者の講釈を聞いたり時には政務を始めたりもしているようだが、目通りを願い出た海棠のために人払いをして待ってくれていた。
山茶花を愛でていた大樹公は、ひざをつく海棠に「楽にせよ」と声をかけた。今日も満開の花に負けぬ美しさと、信じがたいほどの若々しさだ。
「ひな菊はまた脱走したらしいの」
早くも知らせは来ているようで、海棠がここにいる理由を彼女は心得ていた。
「そちが来て以来おとなしくしておったのに、とうとう悪さの虫が動き出したか」
「……いえ」
ひざをついたまま、立ち上がらずに海棠は答えた。
「昨日、少々ご機嫌を損ねてしまいまして。私を避けられたのだと思います」
「ほう?」
おかしそうに眉を上げ、大樹公は山茶花から海棠に目をやった。
「よほどのけんかをしたのじゃな。あれが逃げ出すとは」
「……は」
伏せた顔の下で海棠は笑う。彼女もまた母親だけあって、ひな菊のことをよくわかっているようだ。
「それで、余に仲裁でも求めに来たか?」
「いえ、本日は上様にお伺いしたき儀があり、お手討ち覚悟で参上つかまつりました」
大樹公はさらに笑った。
「またぬけぬけと言いおる。そちを手討ちになどしたら、ひな菊にうらまれるではないか」
「……さあ、いかがでしょう」
あの一件のあとでは、ひな菊自身が海棠を手討ちにしたいと思っていることだろう。
「よい、話せ」
「では、まことにご無礼ながら」
許されて、海棠は顔を上げた。
「知りたいのは一つにございます。姫のお父君は、どなたなのかと」
二つの視線が、静かにぶつかった。
言葉ほどに、海棠はおそれてもいなかった。怒りを買う可能性はあったが、それがどうしたという気分だ。ふてぶてしいほどに堂々と大樹公の視線を受け止めた。
ややあって、大樹公が首をかしげた。
「それを聞いて、なんとする」
「さ……どうしたい、というのではなく、ただ知りたいのでございます。私がお仕えする方は、一体何者なのかと」
十六年前神隠しにあった大樹公は、その時のことを一切覚えていないと聞く。だが海棠の勘が告げていた。それは嘘だ。おそらく彼女はすべてを知りながら、隠しているだけだ。
隠さなければならない事実。公にはできない事実とはなんだ。単なる醜聞か、それとも。
しばらく沈黙していた大樹公は、また山茶花に目を戻して独り言のように言った。
「神様に、会うたのじゃ」
「……神?」
黒地の打掛をまとった後ろ姿を、海棠は見つめる。恵泉院のはかなさとも、田島の居丈高さとも違う、凛としたまっすぐな背中だ。ここにいない姫君の姿が重なって見えた。
「そちも知っているであろう。かつて、この華那の国を治めていた、皇の大王の話を」
「…………」
とっさに、海棠は言葉を返せなかった。
皇? 神の末裔の伝説が、なぜここに。
疑問がやがて理解となり、じわじわと驚愕に変わっていく。まさか、と思った。いくらなんでも話が荒唐無稽すぎる。
――だが、ひな菊の周りに不可思議が多いことは事実だ。
妖が集まり、怪異を起こす。妖の子が妖を呼ぶのだと皆は言うが、ただそれだけで妖たちが彼女を慕い、従うだろうか。ひな菊が妖の一人にすぎないのならば、彼らにとって特別な存在ではないはずだ。
「乱れ果てた朝廷を見捨て、大王は姿を消したが、この世から消えてしもうたわけではない。人知れぬところで世の移り変わりをながめておられるのよ」
おとぎ話のような言葉が、大樹公の口から語られる。
「あの時出逢うたは偶然なのか、それとも余が大樹公を継ぐ者と予知して見に来られたのか……どちらでもよいが、一目で余は虜になった。なにせ、美しい男だったからのう。人ならぬ美貌というものじゃ。そちより、もっとずっと美しかったぞ」
いたずらっぽい笑顔で大樹公はふり返った。
「なにを隠そう余は面食いじゃ。ちなみにひな菊とて余の娘なのじゃから、美形が嫌いなはずはないぞえ。その顔、せいぜい活用するがよい」
「は……」
どこまで信じたものか、はかりかねる態度だ。もしかして、からかわれているのだろうか。
「あの方が余を攫うてくれて、うれしかった。ほほ、言葉通りの神隠しよ。共におったのはわずかな時間であったが、幸せじゃった」
「では、なぜお戻りになられたのですか」
「知れたこと。余が人だからじゃ」
変わらぬ口調のまま、大樹公は言い切った。
「神に恋をしても、余自身が神になれるわけではないからの。俗世の欲やしがらみを捨て、隠遁することなどできぬわ。悟りを開くには若すぎたし、そも、そんなに悟っておったのでは恋もしなかったであろうよ」
未練も見せず、ただの事実として彼女は語る。女として生きるよりも公人としての生を選んだと気負いなく言う姿は、たしかに大樹公の威厳に満ちていた。
ただ直系だから跡目を継いだというだけの人ではない。自らの意志で、これまでの人生を歩いてきたのだろう。
「――とはいえ、このようなことを馬鹿正直に話したところで誰が信じようの。どうせ好き勝手に憶測されるならば、言おうが言うまいが同じことよ。はじめから話す気もせなんだゆえ、なにも覚えておらぬと言うたまで」
「これまで、どなたにも話されず?」
「いや、ごく親しい者には打ち明けた。信じてくれると思える者にだけの。父上には言えなんだが、乳兄弟の山吹には教えた」
「そうですか」
表面上会話を続けながら、海棠は内心で目まぐるしく考えをめぐらせていた。
ひな菊の父親が、人でも妖でもなく、神の末裔――紫田家以前に華那の国を支配していた、皇の系統だというならば。
ではひな菊は、妖姫どころか、誰よりも正当な血を引く継承者ではないか。
そらおそろしくも感じる結論に鳥肌が立ってくる。
「姫も、そのことをご存じなのでしょうか」
「あれに隠す理由はないの」
「……そうですか」
妖姫ではなく、姫神と呼ぶべきだろう。かつて失われた現人神が、ふたたび人の世に戻ってきたのか。
「信じるのか?」
あっけらかんと訊ねられ、海棠はいつのまにか伏せていた顔を上げた。大樹公の表情には重大な秘密を明かしたという雰囲気はかけらもなかった。
「……ご冗談だったのでございますか?」
「さあ、どうであろうな」
意地悪く大樹公は笑った。
「証拠なぞどこにもないからの。嘘八百やもしれんぞ。あるいは、余もだまされているのやもしれん。あの男は皆の言うとおり、妖だったのやもしれぬなあ」
少しもそうは思っていない顔で、堂々とうそぶく。
「したが、それがなんじゃ? 余と出逢うたのが何者であろうと、どうでもよかろう。ひな菊はひな菊じゃ。それ以外になにを知る必要がある」
恋する女でも母でもなく、為政者の顔で大樹公は言った。
「余が言うのもなんじゃが、血筋がどれほどの問題かの。初代孝成公が幕府を開かれるまで、紫田家なぞ一領主にすぎなんだわ。遙か神代に遡れば、皇の前に世を支配しておったのは祟り神じゃとな。さて、そちが相手にするのは単なる血の容れ物かの。その血が何色かが問題か。ひな菊が何者かと問うたな。その答えを出すのはそち自身であり、そしてひな菊の行いであろう」
穏やかな物言いが、打ち据えてくる雷のように思えた。権威になど価値を認めていないはずの自分が、返す言葉もなく頭を垂れるしかない。
「余が言うてやれるのはこれくらいしかないの。あとは自分たちで考えよ。人に聞いてばかりではいかんぞ」
海棠の返事を待たず、大樹公は背を向けて御殿へ戻っていった。言うべきことは言ったと考えたのだろう。じっさい、これ以上聞くべきことはなかった。
長い間、山茶花の木の前でひざをついていた海棠は、すっかりひと気もなくなった頃、ようやく立ち上がった。まだ整理しきれない頭をもてあましながら、御殿には入らず庭を歩いていった。
石段を下りて人工の池や木立の間を通り抜ける。通常使われることのない場所だから、行き交う人の姿もない。しんとした寒さがあるばかりだ。城の中にありながら山中を歩いているようだった。遠くに見える茶室も閉ざされて、なにもかもが寒々しい。
しかし海棠にそれを実感する余裕はなかった。さきほどの話を何度も思い返しては、落ち着かない息をつく。昨日のことも思い出した。常識では考えられないできごとと、怒りに燃えたまなざしと。
今もまだ、あの目ににらまれている気分だ。
「広根」
抑えた声が彼を呼んだ。ゆっくり顔を上げた海棠の目に、見覚えのある姿が映った。
人目を避けた木の影から、数人の男がこちらに合図している。
――ああ、そうだ。
ようやく、海棠の意識は現実へ戻ってきた。
ひな菊が誰の血筋か、そんなことは問題ではない。大樹公の言ったとおりだ。
合図に応じて、海棠は彼らの方へと足を向けた。
人でも、妖でも――神であっても関係ない。今重要なのは、彼女の存在が周囲にどんな影響をおよぼすかだ。
彼女は、いてはならない者なのだから。
一顰一笑=顔をしかめたり笑ったりすること。表情の変化。