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晴れて候  作者: 桃 春花
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其の壱 井蛙、大海を知らず




     世に大奥と呼ばるるあり

     美女三千と言われしも

     悪鬼羅刹も三千人

     咲くは毒花、修羅の花

     ただすさまじき人の業

     やれおそろしや、おそろしや……






 の刻をすぎて皆が寝静まった城内は、冷たい闇に沈み込んでいた。

 雪洞(ぼんぼり)薙刀(なぎなた)を手に、二人一組で巡回する御火之番おひのばんだけが起きている。


「火のー用心、さっしゃりませー」


 風の強い夜だった。雨戸がかたかたと鳴っている。


「御火之番、あい廻りまする」


 慣れた彼女達にとっても、やはり夜中の当番はいやなものだった。

 もとから大奥は怪談の多い場所だ。特に怖がられているのが、数代前の大樹公が亡くなった部屋である。凶事の前には、ここに紋付きの着物を着た老女が現れるという。

 嘘かまことか、誰もたしかめようはないが、今は使われていない部屋だという事実がなにやら信憑性を高めるではないか。

 これから通るのがまさにその部屋の前だったので、二人の緊張は高まった。


「火のー用心、さっしゃりませー!」


 おびえと闇にひそむ何者かを追い払わんと、いっそう声を張り上げる。その時、近くでコトリと物音がした。

 飛び上がらんばかりに驚いて、彼女達は同時に足を止めた。今の音は中からだ。雨戸の音ではない。

 思わず身を寄せ合い、震えながらそうっと雪洞を突き出す。たよりない明かりの中に、閉じられた(ふすま)がぼんやりと浮かび上がった。

 何もない。紋付き姿の老女などもいない。おそるおそる明かりを動かして四方をたしかめたが、これといって異常はなかった。

 気のせいか。いや、ふたりとも聞いたのだから、鼠でも走ったのかもしれない。

 ようやく力を抜いて顔を見合せ、ほっと笑いかけた時だ。


 また近くで、ひそやかな物音がした。


 ――上だ。

 頭の上に、なにかいる。

 泣きそうになりながら、それでもお役目を必死に果たそうと彼女たちは頭上を見上げた。


 暗い、暗い、闇のわだかまる天井に。

 なおも黒々とした影が一つ。


「――ひ」


 悲鳴はのどの奥に詰まり、ほとんど声を上げることもできなかった。

 かすかすと、かすれた吐息だけをしぼり出した後、二人はその場に崩れ落ちた。


 床に落ちた火が消える。

 辺りが真っ暗な闇に包まれる。

 それきり、廊下には静寂が訪れた。

 戻らないのを不審に思った同僚が探しに来るまで、御火之番たちはずっと気絶したままだった。




   * * * * * * *




 頭の上に屋根がないというのは、実に開放的でいいものだ。


「あー、うろこ雲……」


 銀鼠ぎんねずの瓦の上に座ったひな(ぎく)は、遠くに浮かぶ、まばらに薄い雲をながめていた。

 よく晴れた、気持ちのいい空だ。

 明るくさわやかで、なのに不思議とほんのり切ない気分もする。やわらかな陽差しの中に混じる、ぴりりと冷たい空気のせいか。

 城内の木々は紅葉した葉を散り透かせ、枝ばかりのさみしい姿になっていた。松などは緑を残しているが、やはりこの季節は華やぎに欠ける。

 遠くに見える山々も、明るい季節とは異なる渋い色に染まっていた。けれど城下に広がる華南津(かなつ)の町は、連なる(いらか)も輝いて、活気にあふれたようすがここからもわかる。

 絶好のお散歩日和だった。こんなに日に閉じこもっているなんて、もったいないというものだ。

 ひな菊が屋根などに登っているのは、なにも景色をながめるためではなかった。理由は、足元にあった。

 衣ずれの音を立てて、足早に廊下を奥女中たちが行き来している。あちこちでひな菊を呼ぶ声がしている。なかなかしつこいなと思っていたら、ちょうど真下あたりで立ち止まって、話をかわすのが聞こえてきた。


「どう、いらっしゃった?」

「いいえ、どこにも。ほんに、どこに隠れておられるのかしら」


 ――屋根の上とは、なかなか思いつかないものらしい。誰も探しにこないし、そもそも上を見上げようともしないので、よほどの物音でも立てないかぎり、見つかりそうにはなかった。

 これだと曲者が入り込んでも気づかないのでは、などと思っていたら、実際にさっき、どこかの間者とおぼしき男と出くわしてしまった。なんだかものすごく緊張している様子だったので、とりあえず「頑張って」とはげましておいたが。


 足元で立ち話をしている声には聞き覚えがあった。名前は……なんだったろうか。顔はなんとなく思い出せるのに、名前が出てこない。


「琴のお稽古となると、たちまち消えてしまわれるのだから、困ったものだわ」

「お茶も嫌っておいでよね。お歌も、手習いも、全部だめ」

「まるで端女(はしため)のようなお姿で走り回られて、あれが大樹公たいじゅこう唯一の姫君とは、なげかわしい」


 悪かったねと、屋根の上でひな菊は小さく独りごちる。


「長らくお城の外でお育ちだったから、まるで躾けがされていないのよ。これはお育てした山吹(やまぶき)様のご責任だわ」

「でも、もう少しご本人に自覚があれば違うのではないかしら。山吹家だってれっきとした旗本(はたもと)、町家で育ったわけでなし」

「やはり、血筋かしらねえ」


 当の本人が頭の上にいるとは思っていないものだから、話の内容がだんだん遠慮のないものになってきた。


「ねえ、ご存じ? 姫様のお父君って、表向きは山吹様ということになっているけど、本当は違うって」

「あら、そんなのみんな知ってるわよ。だから里子に出されたのでしょう。いっそ、そのままにしておかれればよかったのに。今になってお城に住まわせるなんて、上様も何をお考えなのやら」


 聞こえてるぞーと、ひな菊はまた彼女達には届かない声でつぶやいた。


「悪い方ではないのだけど、ともかく姫君らしくはないわよね。それにわたくし、正直あの方が気味悪いの。こんなふうに忽然と消えてしまわれるなんて、ちょっと普通じゃないでしょう。いくらすばしこいと言ってもお城にはたくさん人がいるのに、いつもどうやって抜け出しているの」


 女中が少しばかり声をひそめた。ひそめたとは言っても、まだひな菊にもちゃんと聞こえる程度だ。内緒の陰口という興奮が、どうしても声高にしてしまうのだろうか。


「まるで神隠しのように消えて、戻る時もいつのまにかそこにいて。ほかにもいろいろ、奇妙なことが多いし。なんだか怖いのよ」

「そもそも、お生まれになった時からして普通じゃないお方だものね。神隠しというのも当たっているかもよ。だって……」


 その時、わざとらしい咳払いが聞こえた。とたんにぴたりとおしゃべりが止まる。年かさの女の、厳しい声がした。


「そなた達、姫様は見つかったのかえ」

「あ、いいえ、まだ……」


 この声は御年寄(おとしより)松尾(まつお)だ。御年寄と言えば表の老中(ろうじゅう)に相当する、奥女中の筆頭である。城内の誰もが恐れる、怖い怖いおばさんだ。女中達の小さくなっている様子が目に見えるようだった。


「ならばお探しせぬか。立ち話をしている暇はないであろう」

「は、はい、申し訳ございません」


 優雅さを忘れた足音があわてて遠ざかっていく。ひな菊も屋根の上で、松尾がその場から立ち去るまで懸命に息を殺していた。


「……あー、びびった」


 ずいぶんたってから、ようやく身体の力を抜く。ご多分にもれず、ひな菊も松尾が苦手だった。

 誰しも年を取ればそれなりに貫祿が出てくるものだが、あれはまた格別だ。単なる奥向きいちばんの権力者というだけでない、独特の威圧感がある。

 びしりと背筋を伸ばし、眼光鋭く、人を誉める時ですらにこりともしない。岩に顔を彫ったかのような風貌は、とにかく迫力に満ちていた。


 今年五十になる彼女は、現在の大樹公が生まれる前から大奥にいたという。大樹公ですら頭の上がらないお局様に、若い娘たちが対抗できるはずもない。ひな菊とて屋根の上にいるところなど見つかったらどうなることか。

 そもそも抜け出した時点で叱られるのは必至であるが、それはそれとして、見られちゃならない場面というものがある。

 ひな菊はそっと下の様子をうかがって、誰もいないことをたしかめると、ほっと息をついたのだった。

 音を立てないよう静かに立ち上がり、うんと背伸びをする。首筋をなでる風は冷たいが心地よかった。

 それからひな菊は、忍びも顔負けの足どりで屋根の上をひょいひょいと移動した。頃合いを見はからって、ひと気のない場所で庭に下りる。植え込みの陰から、ひな菊を招く手があった。


 人の片手だけが植え込みから突き出て、おいでおいでと誘っている。


 植え込みに、人が隠れられるほどの丈はない。にもかかわらず、そこに見えるのは肘から先だけだ。着物のそでも見えず、青白い腕だけがまるで植え込みから生えたかのように伸びて、ゆらゆらと揺れている。

 あの女中たちが見たら、きっと悲鳴を上げて逃げ出すか、卒倒するだろう。

 だがひな菊は、異様な光景におびえることもない。微笑んで、変わらぬ足どりで植え込みに向かう。

 不思議な手がどこかへ消えた時、ひな菊の姿もまた、煙のように消え失せていた。




   * * * * * * *




 神の末裔と言われる(すめらぎ)の系統が華那(かな)の国を治めていたのは、今は昔の話である。その時代のことは、現在においてはおとぎ話と同等だ。

 代わって天下を治めるようになったのは、武士の頭領たる紫田(ゆうだ)家だった。初代の紫田孝成(たかなり)は自らを大樹公と称し、華南津の町に幕府を開いた。これが今の武家政治の始まりである。


 現大樹公は十八代目、その名を成慶(なるよし)という。俗に「セイケイ公」とも呼ばれ、男のような名だが、華南津幕府実に百六十年ぶりの女大樹公だった。

 即位前、沙羅(さら)姫と呼ばれていた人は、当年三十四歳の女盛り。しかしそれより十歳は若く見える、美貌の君主であった。陰で妖怪だとか化け狸だとか、いやあれはむしろ狐だろうとか、いろいろ言われてはいたが、安定した治世には評価が高い。

 その大樹公の美しい顔が、今はこころなしか憂いを帯びていた。蕾をふくらませた山茶花さざんかの木をながめながら、心はどこか別の場所にあるようだ。


「お悩みにございますか」


 控えめに、やわらかな声をかけられて、大樹公は微笑んで室内をふり返った。


「いや、申しわけない。不調法をした」


 障子窓を開け放した茶室内にいるのは、二人だけだった。茶釜のそばに座すのは、地味ながら上等な装いの、やはり美しい女である。大樹公とは五つしか違わないが、こちらは年齢相応の姿だった。


 先代の側室の一人、由岐(ゆき)の方だ。今は恵泉院(けいせんいん)と呼ばれ、大奥の一角で静かに暮らしている。


 かつて彼女は、先代との間に男子をもうけた。成慶公にとって弟にあたるその男子がわずか三歳で病没しなければ、大樹公生母として大奥内で最高の地位を築いていただろう。

 寵愛を受けた先代が亡くなり、唯一の若君も失われた今、彼女は過去の人として華やかな表舞台からは忘れられつつある。だがそのことに不満も見せず、ひっそりとした暮らしを自ら望む彼女に、大樹公は常に敬意をもって接していた。


 今日は久しぶりに、恵泉院に招かれての茶席である。

 優雅なしぐさでさし出された茶碗を作法にのっとって取り、大樹公は口をつけた。

 茶碗の柄は山茶花。まだ開かない庭の蕾に代わって、こちらはたおやかに咲き誇っている。

 縁を指先でぬぐった後、大樹公は手の中で茶碗を傾け、上品な柄を堪能した。


「おそれながら、上様のお悩みは姫様のことにございましょうか」


 遠慮がちに訊ねられ、大樹公は苦笑した。

 三月みつき前に養家から引き取られ、西の丸で暮らし始めた姫君のことは、近頃城内でなにかとうわさの種になっている。


「あれの悪評が、恵泉院どののお耳にも入りましたか」

「まあ、いえ、そのような……」


 悪意でもって嘲笑うということをしない人だから、恵泉院の反応は生真面目だ。


「ただ……姫様が、いつも供も連れずにお一人でお城を抜け出しておられると、そのように聞き及びましたので、少々不安に思いまして」

「ええ、どうやら今日もさっそく脱走したようです」


 まあ、と彼女は目を見開いた。


「それで、供は?」

「いえ、誰もついていないようです」


 ――人間は、とこっそり胸のうちで付け足す。


「それは、心配なこと」


 内心のつぶやきなど聞こえない恵泉院は、繊細な顔を曇らせた。


「何事もなければよろしいのですが。城下では物騒なことも多いと聞きます。姫様のお身に、万一のことがありましたら……」

「まあ、それは大丈夫でしょう」


 大樹公は鷹揚に笑った。


「十五年間、城下で育った娘です。世間知らずの箱入りというわけではなし、武芸もそこそこ身につけておりますゆえ、そう心配することもないでしょう」

「ですが、かよわい女子おなごの身です。それに、上様のご息女と知られればどんな危険があるやも」

「町娘のようななりでその辺をひょこひょこ歩いているアレを、姫と思う者もおりますまい」


 一人娘の安全については、それほど案じていない大樹公だった。本人も腕が立つ上に、いざとなれば力を貸してくれる存在があれにはついている。難儀しているのは、そろそろ姫らしさも身につけてほしいのに、本人にまるでその気がないことだった。

 稽古ごとからは逃げ出すし、周りからどう見られるかなど歯牙にもかけず、奇抜で粗末な衣ばかり着る。いつもふらりと一人で姿を消してしまい、そのせいでなかなか女中や役人達がうちとけることもできない。唯一彼女と親しくしているのは、山吹家からついてきた乳姉妹の七枝(ななえ)だけだった。

 自由奔放に育った娘とはいえ、城へ入ってもう三月だ。いいかげん、ちょっとは世継ぎたる自覚を持ってもらいたいものである。


「上様は、のんきにあらせられます」


 いちど叱ってやらねばなるまいと大樹公は考えていたが、恵泉院はあくまでもひな菊の身辺警護を問題視していた。


「たったお一人の、大切な姫君ではありませぬか。幾重にもお守りしてしかるべきですのに」

「まあ、それは……それなりに」


 大樹公は言葉をにごした。実は娘を城に引き取ってすぐ、警護けごの武士をつけたことはつけた。が、それらはみな、守るべき姫君本人に果たし合いを申し込まれ、完膚なきまでに叩きのめされてしまったのだ。

 果たし合いを申し込んだ理由というのが、警護役ならば相応の腕があるところを見せよというもので、そう言われては男達も断れない。彼らは多分、手加減しつつも負けるつもりはなかったろうが、あいにく加減して勝てる相手ではなかった。腕自慢の武士達が十五歳の少女に打ち負かされて、どれほどの衝撃だったか、想像すると哀れではある。

 わが子が並ならぬ腕前を持つのは、武家の頭領として喜ぶべきところではあるが、方向的になにかが間違っているような気がしてならなかった。


「並の者にあれの世話役は務まらぬゆえ、どうにも、こうにも」


 思い出してため息をつくが、恵泉院はなおもくいさがる。


「では、並の者でなければいかがでしょう」


 はて、と大樹公は首をかしげた。

 恵泉院の口ぶりは、どうもなにかを含んでいるようだ。単に姫の身を案じているだけでなく、その先に本題があるらしい。無言で続きを待っていると、彼女はためらいがちに切り出した。


「実は……本日お招きいたしましたのは、上様にお願いがありまして……あつかましいことは百も承知にございますが」

「ほかならぬ恵泉院どののお願いとあらば、なんなりと。かなう限り、善処いたしましょう」


 世辞ではなくそう答える。ありがとう存じますと頭を下げて、それでもまだ申しわけなさそうにしながら、恵泉院は話を始めたのだった。

 その後しばらく、茶室では女達の密談が続けられた。


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