豊臣秀頼は生きている。だが、しかし!
徳川家康が死の床にあったとき、こんな噂が流れていました。
『豊臣秀頼はまだ生きている』
大阪城を真田幸村とともに逃げ延び、西国へ落ちて、薩摩で再起を狙っているというのです。
家康は秀頼と幸村が死んだのは間違いないと確信していますが、これを放っておくと、浪人たちが薩摩や西国に集まって、一騒動あるかもしれません。
で、家康は二代将軍秀忠を呼び、どうすべきかたずねます。
秀忠はこう言いました。
「秀頼は生きているかに思われたが、やはり死んでいたらしいという噂を流しましょう」
家康は首をふりました。家康が死ぬタイミングでそんな噂を流したら、噂の出元は幕府だとバレます。世間はやはり秀頼は生きている。幕府が火消しに躍起になっているのがその証拠だととらえるでしょう。
家康が出した答えはこうでした。
「豊臣秀頼はまだ生きている」
ただし、
「真田幸村とともに落ち延びたが、幸村は秀頼を逃がすために負った傷がもとで西国へ落ちる途中で死んでしまった。幸村を失った秀頼は再起を絶望して、いまは酒色におぼれて、すっかり落ちぶれている」
と、いうおまけつきでした。
この話、何が言いたいかと言うと、人は信じるかどうかは別として、『ここだけの話』というやつを好むということです。
『ここだけの話、豊臣秀頼はまだ生きている』と『ここだけの話、豊臣秀頼はまだ生きている。だが、しかし――』。もし、あなたが誰かに噂話をするとしたら、どちらを話すでしょうか。
たぶん、後者じゃないかと思います。なぜなら、後者のほうが『ここだけの話』として、より優れているからです。
秀頼の脱出劇。真田幸村の忠臣らしい最期。そして、高貴な人間の堕落。
物語性がたっぷりであり、何より語る楽しみがあります。
もう一つ例を挙げると、だいぶ前、あるテレビ番組でのことです。
沖縄の南の小島で住民同士がみんな知り合いみたいな島にスーツ姿にアタッシュケースを手にしたよそ者がやってきます。
これはただの番組スタッフなのですが、クソ暑い真夏に島民が着る機会のないスーツ姿、そして、謎のアタッシュケース。
この謎のスーツ男が『ここだけの話』を生み出します。
スーツ男に扮するスタッフは島民の誰とも言葉を交わしていないにも関わらず、『ここだけの話』は島民の好奇心と語りの楽しみを食べて膨れていき、最後には、
「あの男はリゾート開発業者の調査員で、島にリゾートホテルを建てるつもりらしい。アタッシュケースのなかには土地の買収資金が入っている」
ここまで成長しました。それは想像力の結晶、またの名を噂の尾ヒレといいます。
『ここだけの話』はいわば『物語り』であり、噂に真実は関係なく語ることの楽しさを与えるほうが口にされる、というと、言い過ぎでしょうか。
でも、小説も同じだと、私は思います。
小説を書くとき、わたしが念頭に置いている言葉があります。
「わたしはそこに行ってきた。きいてくれ。全部、本当にあった話だ」
まだ修行中の身ですが、いつか立派な『物語り』作家になって、最高にとびっきりの『ここだけの話』を書きたいものです。