二十六、政春、采配を振るう。
2016年4月24日:誤字・文章修正
2016年8月5日:誤字修正
無事に目的を果たし一色領へ帰還できた。
城は出立する前より騒がしく、話を聞くところによると西国の竹鳥も援軍として駆けつけたらしい。たった数日の間に当主政春は方々に手を回し、勝ち戦を収めようとしている。
そんな中、忠治は主の部屋の前で座っていた。
どれくらいそこにいるだろう。忠治は身じろぎせずじっと襖を見つめている。
目的は果たせた。
しかし、その当事者たる彼はかなりの手傷を負い、まだ目を覚まさない。医師が最善を尽くし、五体欠けることなく命に別状はない。
待つことしかできない。忠治は己の不甲斐なさに唇を噛んだ。
「……忠治」
苦痛に顔を歪める彼に美羽が呼びかけた。彼女の後ろには五右衛門も立っている。二人とも怪我をしていて額や腕に晒しが巻かれており、その顔色は芳しくない。それは忠治も同様だが。
「メシ、持ってきたぞ。つってもこんなんしかないけど」
五右衛門が肩をすくめながら、味噌汁と麦飯の乗ったお盆を廊下に置いた。忠治は視線を合わせないまま首を振る。
「いや。いらない」
「ちゃんと食べなきゃ駄目よ」
「私は大丈夫だ」
「何言ってんの」
忠治の態度にむっとした美羽は腰を下ろして、ずいっと味噌汁の入った椀を突き出す。
「これから何が起こるかわからないのに、食べられるとき食べなきゃ駄目よ。あなたまで倒れたら元も子もないでしょ。若様だって悲しむわ」
いつになく強情な美羽に忠治は戸惑い、はっとした。美羽はきゅっと唇を結び、柳眉をひそめ、澄んだ漆黒の瞳は揺れている。自分だけではない、彼女もまた不安なのだ。
「……すまない。いただこう」
忠治は椀を受け取った。すると美羽は安心したようにふんわりと微笑み、悲しそうに目を伏せる。
「あなたのせいじゃない。私も頭が回らなかった……」
肯定も否定も、何も言わなかった。いや、もともと自分に言葉を紡ぐ権利は無い。忠治は静かに味噌汁を啜る。五右衛門もあぐらをかいて肩をすぼめたままだ。
美羽は廊下に目をやったまま、唇を震わせた。
「若様は待ってくださったのに……。何もできなかった」
拳を力いっぱいに握る。
主が危機にあるとき、三人はあっさりと騎馬隊に包囲され、それを破ることすらできなかった。そしてあの大男の忠言がなければ、忠治は間違いなく渡邊頼綱を斬り捨てていた。大男は冷徹に両国の情勢を見極め、自国のため利を追求し、戦場を動かしていた。
自分たちには出来ない芸当だ。あの穏やかで揺るぎない瞳はどこまで見通していたのだろうか。
「強くならねば」
「おう」
「そうね」
三者三様、頷いたとき廊下の向こうから一人の武士が現れた。この非常時だが甲冑を身につけず、羽織袴を着て二本差しをしている。左頬に一筋の刀傷がある男は、床を踏み鳴らし近づいてきた。
三人はその人を見て、目を剥いた次の瞬間。男は腰帯から本差しを鞘ごと抜いて、鐺で忠治の腹を容赦なく突き刺した。椀が倒れ、味噌汁と飯が廊下にぶちまかれる。男は忠治の鳩尾を抉る打刀を軽々とすくい上げ、忠治を庭に放り出した。
「忠治!」
美羽と五右衛門は慌てて忠治に駆け寄ろうとすると、まず五右衛門が襟首を掴まれた。仰天する五右衛門を男は無言のまま、五右衛門の脳天に拳骨を見舞った。
「い……ッ!?」
廊下でのたうつ五右衛門を茫然と見ていると、美羽も頬を強く打たれた。
平手でも首が折れるかと思った。口に滲む血を飲み込み、美羽は顔をしかめながら顎を上げた。
「忠行様」
こちらを見下ろすのは忠治の父親だった。線の細い体格だが、鍛え上げてられた肉体は剣を振るう武人に相応しい。犬養忠行は打刀を背負い、凛々しい眉を歪めた。
「情けない。一度ならず二度も若殿を守れぬのか、貴様らは」
檄が飛ぶ。
そんなことは帰還してから何度も聞いてきた。だから誰も声を上げない。忠行は庭に転がる忠治を見下ろして言う。
「犬養として恥ずべき行為だ。腹を詰めるだけで終われぬぞ」
「まさかっ」
思わず悲鳴を上げた美羽に忠行は目をやる。
「それは若殿のご裁断だ。だが俺は犬養家棟梁として言う。――許されることではないぞ、忠治」
肩に置く打刀を握り締め判然と殺気を放つ忠行に、美羽が堪らず叫んだ。
「忠治だけに責があると思えません。私も五右衛門も若様に怪我を負わせました。だから」
「黙れ。これは犬養の問題だ」
「私はっ! あなたを父と思っております」
言うと、忠行は彼女に冷たい視線をやった。
「美羽、お前は雉野の子だ」
その一言に美羽は目を見開き、言葉を失った。
忠治は一言も発しず、庭にうつむいて座っている。垂れた前髪で顔色は窺えないが、拳は絶えず握られていた。
そんな息子に何を思ったか、忠行は鼻を鳴らした。
「今は時が惜しい。沙汰は追って下す。……お前たち、若殿から目を離すなよ」
そう言い捨て、忠行は刀を腰に戻した。渋い顔のまま束ねた黒髪を揺らして踵を返す父に、忠治は顔を上げた。
「父上、どちらに」
肩越しに振り返った忠行は冷たく答えた。
「鬼柳だ――」
***
「……まさかお前が来るとは思ってもみなかった」
屋敷の広間には千哉の他、鬼柳の鬼たちが控えている。鬼たちは不快そうに訪問者に不躾な視線を送っていた。
しかし訪問者はそんな視線を意にも介さず、人を食ったような笑みを浮かべていた。
「おまえたちに話があるのだ。ならばわしが出向かねばのう」
千哉は目を疑った。麓に人間がいるという報せを受け、千哉は桃太郎が来たかと胸が高鳴ったが、間違いだった。
目の前に座るのは、茶色の小袖を着た口髭をたくわえた中年の武士。こう面と向かって会うのは片手で数えるほどしかない。男の瞳が不遜に輝いた。
「久しいな、鬼柳」
一色政春は御自ら、鬼柳の里に足を運んだのだった。
「何故一色が来る?」
「わからぬ。まさか戦が」
「人間も無為な争いをする」
鬼たちが口々に言う。それは隠すこともなく、もはや政春に聞こえるように話し出すのだ。千哉はそれを視線で殺し、場を鎮めた。
静かになって千哉は、政春が本題に入る前にこれだけは聞きたかった。
「桃太郎は」
「若殿は、命に別状はありません。まだ眠っておりますが」
答えたのは政春の側に控える彼と同年代の男。凛々しく整った眉に怜悧な瞳。左頬に刀傷があった。どこか忠治に似た風貌であったが、彼と比にならないくらい落ち着きがあった。彼は警戒するようにこちらを眺めている。
「そうか……」
これでやっと心から安堵できる。千哉は緩む口元を抑えきれず、顎を撫でながら政春を見た。
「此度の責任は俺にある。どうか桃太郎たちを責めないでほしい」
「詫びなど必要ない。倅が勝手に出向いて勝手に怪我をして帰ってきただけじゃ。おまえたちに非は無い」
「殿……」
不満そうに従者が声を上げるが、政春は無視して口角を上げた。
「それに、おまえが『人間』に頭を下げるのは些か問題があるんじゃないのか?」
千哉は目を瞬き、押し黙った。
やはりこの男もよく理解している。つくづくこの親子は食えないと痛感し、そして何とも言えない己が腹立たしい。千哉はきまりが悪くなって眉をひそめた。しかしわからないことがある。我ら『鬼』を理解する彼が何を目的に訪れたのか。
「……そうだな。詫びついでに、ちと手伝ってくれんか?」
「手伝う?」
千哉は訊き返し、はっとなった。
「やはり戦が……」
拳を作って低い声で吐き捨てる。控える鬼たちがざわつくと、政春はうっとうしそうに手を振って、口を開いた。
「先走るな。一色は戦などしておらん」
「俺が四天王と接触したことは知ってるだろう!」
「そんなことはどうでもよい」
「ど、どうでもいいっ?」
即答する政春を疑った。己の息子が死にものぐるいで生還した戦闘をどうでもいいと切り捨てた。政春は鼻を鳴らして続ける。
「おまえたちが何をしてきたかなどどうだってよい。まだ小競り合いで終わっていることこそ重要じゃ。つまり策を巡らす時がある、ということだ」
「策だと?」
ますます眉をひそめる千哉に政春はほくそ笑んだ。
「待て、一色の」
声を上げたのは鬼柳の男鬼だ。彼は険しい顔をして政春に声を荒らげた。
「策ということは何か仕掛ける腹積もりか!?」
「そうじゃ」
「冗談ではないぞ!!」
どんと床を叩き鳴らし、唾を飛ばす。
「すると我らに戦を手伝えと言うことか! ふざけるなッ、我らには関わりの無いこと。何故我らが人間を助けなければならない!?」
「その通りだ。今までも我らは千哉様のために動いている。あの若者のためではない……驕るな、人間」
「貴様ら、口を慎めッ!」
政春の従者が刀を持って立ち上がった。
「最後まで殿のお話を聞けッ。『鬼』とは短気な者ばかりか!」
「なんだとっ!?」
「貴様、我らを愚弄するか!」
「……忠行、言い過ぎじゃ」
混乱する広間の中、政春は疲れたようにこめかみを揉みながら従者をなだめる。しかし従者は気が治まらないらしく、主へ必死に進言する。
「殿、やはりこの者たちは信に置けません! 我らはまだ兵が余っております。一色の兵と竹鳥の力を合わせば、今なら皆元を退けられまする!」
「忠行、耳元で怒鳴るな。やかましい」
「殿、お聞き下されっ」
「少し黙っておれ……」
「――ニンゲンは、やはりそういう生き物なのですね」
騒々しくなる広間に響くのは鈴の音のように美しい声。その場の全員が一斉に口を閉ざし、声の主へ目を向けた。
美しい彼女は鳶色の目を厳しく細め、政春を見つめていた。
「千早……」
「ほう。美しい女子だ……。もしやそなたが余所の『鬼』か?」
「ニンゲンはどれも変わりませんね」
「変わらぬか?」
「ええ。何も」
無感情に返す彼女にも動じない政春。睨み合う二人に一同は黙り込む。やがて政春がため息を吐いて、頬杖をついた。
「そなたにどう思われようと構わん。わしはわしだからな」
そしてふと床に目を落とす。
「誰も戦を望まん。故に、戦は起こさぬ」
「起こさない? 今まさに攻め込まれているのに」
「冷静になれ。視野を広くしろ。考えろ――。さすれば戦わずして、勝てる」
こちらの文句を切り捨て、政春は不遜に告げる。
敵国に攻められる状況にあるのに、この男には微塵も焦りがなかった。『鬼』の五感を持ってしても感じられない。無理に気丈に振る舞っているわけでもなく、ただ一重に、政春の心は大海のように凪いでいるのだ。
「忠行、地図を」
「は」
気づくと政春は従者に手を差し出していた。主の言葉に従者は折り畳まれた紙を取り出して、政春の前に広げた。
簡易な地図のようだ。一色領の東側と皆元領が記されている。その地図の中には一色領は城が一つ、皆元領には六つほどの城の絵図が記されていた。政春は皆元領の北の方を指し示す。
「近年、隆光は北方を押さえた。……む? そなたが一番知っておるか?」
わざとらしく千早に話を振る。千哉が顔をしかめると政春はくつくつと笑うだけだった。
「まぁよい。――このあたりは以前、笹波清和という者が治めていた。皆元に下って間もない。故に揺さぶる」
「調略をしろと」
「馬鹿言え。おまえたちのような素人に任せるわけなかろう。そんなこと、既にやっておる。……こんなにも早く使うとは思わなかったがな」
政春が嘆息すると、従者が不機嫌に鼻を鳴らす。
「猿田は、口だけは達者ですからな」
よく聞く名前に引っかかったが、すぐに思い返して千哉は眉をひそめたまま問う。
「だったら何をしろと言うのだ? ここまで来て、戦に出ろとは言わないだろうな」
「何度も言わせるな、戦はせん。わしは、おまえたちの目と耳を借りたい」
「目と耳?」
「うむ。倅がおまえを迎えに行ったおり、おまえたちの耳目のおかげで辿り着いたのだろ?」
確かに皆元領に繋がる街道は封鎖され、思うように進めなかった。しかし『鬼』なら別だ。彼らの人間よりも発達した五感を駆使して、道なき道を駆け抜けて桃太郎は千哉を迎えに来たのだろう。それは仲間や桃太郎に感謝せねばならない。
「わしはそれを買う」
政春の瞳が貪欲に輝く。射抜くような視線を受け、千哉は促した。
「つまり」
「為すべきことはたった一つ」
政春は地図を指差し、皆元領をぐるりと円を描くようになぞった。
「皆元領内すべてに噂を流せ。笹波清和が、失地回復のために謀叛する、とな」
「……それだけか」
「不満か? 何度言わせる。戦はせんぞ」
「そういうことじゃない」
千哉は拍子抜けたのだ。戦が始まろうとする中、当主自ら参上したにも関わらず、鬼柳に対する要求はそれだけなのだ。千哉は目を細めて政春という人間を観察してしまう。これは癖と言っていい。『鬼』の本能が人間に猜疑心を抱くのだ。
「なんだ」
しかし政春は物怖じする気配はなく、眉を上げるだけだった。探りを入れても何も出てこなかった。千哉が息を吐くと、政春はニヤッと笑って口を開いた。
「笹波が兵を上げれば皆元は二正面で戦う羽目になる。さすがにそのような愚を侵す馬鹿はいない。たとえ隆光が采配を振っても、臣下が是が非でも止めに入る。隆光は抜けているが、家臣どもの才はなかなかのものだからな」
「そうすれば皆元が退く……」
「ああ、これで東は安泰じゃ」
薄く笑う政春。だが、千哉は眉間にしわを寄せたまま地図を睨んでいた。
「その笹波という男は、本当に反乱を起こすのか?」
「わからん」
「なんだとっ?」
素っ気なく返された答えに千哉は目を剥いた。政春は肩をすくめながら言う。
「笹波が起たぬども、今回の策は半分成功じゃ。二心のある家臣などほっとけぬゆえ、退くざるを得ない」
「政春、お前は……」
「――もし、笹波が起てば、」
茫然とするこちらを政春の怜悧な瞳が射抜く。
「領土拡大を目論む皆元にとって此度の造反は手痛いだろう。間違いなく笹波清和に手を焼く。笹波は北地の大名とも懇意にしているそうだからな……ククッ、この内乱長くなるぞ。可哀想だなぁ、隆光も」
他人事のように愉快そうに肩を揺らす政春。
千哉は開いた口が塞がらなかった。
ますます痛感する。
やはりこの男もいくさびとである。領内の平和を保つため、あらゆる手段を使いできる限りの手を打つ。他人の犠牲など厭わない非情なまでの采配。その狡猾さと聡明さを持って、一色政春は世を渡っている。
彼の才覚はとてつもなく強大で、山に籠もる千哉たち『鬼』ではすべてを計り知ることなどは不可能なのだ。
「さて。わしの腹を見せた。……手伝ってくれぬか?」
政春は呆ける千哉に笑う。それに答えるのは厳しい顔つきをする鬼たちだ。
「この程度なら自分たちでどうにかできないのか」
「人手は多いほうがよい。おまえたちなら一日でも早く噂を流せるだろう? 竹鳥が加わったもの、戦況は変わらん。早く終わらせたいがゆえだ」
意地悪い笑みを崩さず政春は言う。
「わしが言うのもなんだが……。おまえたちはもう、多かれ少なかれ一色に関わってしもうておる」
千哉はぴくりと眉を動かした。
「一色が倒れば、鬼柳の安寧は保障できないぞ」
「脅しか」
「助言じゃ」
「……時間を」
「――やれん。時が惜しいのはわしも同じじゃ」
政春は横柄に言い放った。
「返答はここで聞く。さあ決めよ、鬼柳の」
勝ち誇ったように笑う政春に、千哉は悔しくて唇を噛んだ。
* * *
「これで鬼柳に貸しができましたな」
麓の村に預けた馬を引き、犬養忠行がつまらなそうに呟く。
政春は馬にまたがって、山道に消える案内役の鬼柳の者を眺めていた。忠行は主君の冷たい横顔が気に食わなくてさらにぼやく。
「嫌な貸しです。何を要求されるかわかりません……」
「小さいぞ忠行」
「は……?」
忠行も馬に乗ると政春がちろりと彼を見やる。不思議そうに目を瞬く忠行に政春は口の端を吊り上げた。
「順調ではないか」
鐙を蹴り、ゆっくりと馬を駆り出す。
まもなく千哉も桃太郎の様子を見に本城に参上するだろう。そのついでに仲間も引き連れてやってくる。時局は滞りなく円滑に進んでいる。
眉をひそめて横に並ぶ側近に政春は言う。
「貸しなど些細なことだぞ、忠行。要は、鬼柳が正式に一色の要求に答えたこと。鬼柳がわしに力を貸したのだ、戦という形でな」
「殿、まさか……」
「言質は取った」
これには忠行は顔色を変える。政春はますます笑みを深めて、雲一つない空を仰いだ。
「これでわしや桃太郎が死んでも一色は安泰じゃ」
「……」
忠行は武者震いがした。
我が殿は末恐ろしいお方である。ずっとお仕えしているのに未だに殿の心は読めない。その揺るぎない両眼はどこまで先を見据えているのだろうか、それはもはや誰も見当もつかない。
忠行は手綱を握り締め、熱い息を吐いた。
「勝ち、ですな」
「さぁな。皆元がどう動くかによる」
肩をすくめて素っ気なく答えるも、政春の表情は明るかった。