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桃の色香 続章  作者:
第二章 皆元編
37/52

二十、鬼とヒト。



「ふん……。化け物どもが」

 馬上からこちらを睥睨するのは、千哉が知る人間。以前対峙したとき一太刀も浴びせられず、初めて敗北を味わった相手。『鬼』の目すら追えなかった居合い術はまさに神技と言っていいだろう。

 ――渡邊頼綱……!

 突然の来襲に千哉は緊張が解け、再び地に膝をついた。

 彼は一色侵略の軍を率いていたはずだ。隆光が命令を下したことを千哉は知っている、その場にいたのだから。

 まさか軍を置いて自分たちを追いかけてきたのか。千哉は頼綱の忠誠心に感嘆し、呆れた。そして同時に、頼綱がここまで早く追いついてきたということは、ここが国境に近いことを示していた。

 頼綱は自らの血で血溜まりをつくる千哉に目をやった。

「先日ぶりだな、余所の鬼よ。あの怪我でよく生きていられたものだ……今も、さほど変わらぬか。ふっ、まさしく化け物だな」

 ばっと素早く馬から下り、頼綱は馬の尻を強めに叩く。すると馬は小さく鳴いて林の外へ駆け出してしまった。それを見送りながら頼綱は嘆息する。

「殿も、無茶を仰せつかる。……早々に終わらせ、陣へ帰還する」

 頼綱は独白した後、腰の愛刀に手を掛けた。

「すべて、始末する」

 彼の言葉に千哉は疑問を感じた。苦しげに息をきながらも問う。

「ち、千早まで……殺す気か?」

 彼女は隆光の寵愛を受けている。

 主君が大事にする存在を頼綱は簡単に切り捨てた。

「面倒事はここで処理する。そこの女は、仲間を庇って斬られたとでも報告すれば良いだろう」

「そんなこと……」

「殿の所有物を壊すのは後ろめたいが……。これは皆元の国のためだ」

 頼綱は冷徹な瞳をぶつけて強く断言した。

「貴様らは人間が嫌いなのだろ? ならば必要は無い。使えぬ駒を持っていても無意味だからな。……元々、俺は反対だったんだ。鬼酒の村も人もすべて焼くべきだった。そうしていれば、このような面倒事にも合わずに済んだはずだ」

 苛立ちに顔を歪め、頼綱は地面に倒れる黒装束を一瞥して、暴言を吐き捨てた。

「……それと、俺は貴様らが嫌いだ」

 侮蔑と私情が混じった言葉に千哉は顔をしかめた。

「力を持たぬ者が、何故強者に逆らう」

 頼綱はゆっくりと抜刀する。鞘と刃が擦れる音が酷く耳障りだった。

「誇りが、誉れがそんなに大事か。……命を散らすことが名誉だと思っているのか? 狂っているぞ、貴様ら」

 定寸より少し長く細い刀身は木漏れ日に反射して鋭利に輝く。

「今度こそ終わりにしよう、化け物どもよ」

「黙れよッ」

 そのとき、稔が地を蹴り一瞬で彼我との距離を詰めた。

 目を見張る頼綱は視界に入った閃光をける。首筋が薄く裂かれ、血潮が舞う。頼綱は後退し、首に手を当てて舌打ちを漏らした。

 稔は幽鬼のように立ちはだかり、乾いた声で笑う。

「あんたを殺せば皆元は確実に弱体する。ハハッ、飛んで火に入るなんとやら……だな」

 目に見えてわかるように溢れ出す殺気。彼の周囲の空気が陽炎のように揺らめく。濃紺の双眸が徐々に鮮やかな金色に変化していった。

「その言葉、そのまま返してやる。化け物が」

「やってみろよ。ニンゲン」

「やめろ……ッ!」

 千哉の制止の声は届かず――

 茨城稔と渡邊頼綱は激突した。


 稔が腰から短刀を抜く。右手に小太刀、左手に短刀。両の手に構えられた刃物が容赦なく、頼綱に向けられ、それらは嵐のように木々をに傷つけた。

 頼綱は後退を続ける。生い茂った草木の中で長物は不利と悟ったのか、広い空間へ逃れる。しかし稔を振り切れるわけがない。鬼の身体能力は人間のそれを凌駕するのだ。

 稔は韋駄天の如く地を疾走し、木々へ跳び移る。右に向けば左へ、上を向けば下へ。眼前にいると思えば既に間合いを切っている。当然目では追うことは敵わず、頼綱は耳を頼りに凶刃を躱していった。

「四天王筆頭も逃げてばかりだな」

 何度目の襲撃か。嘲けた声が上空から聞こえた。

 何も出鱈目にけているわけではない。この林から小路に抜ける目的があり、稔の攻撃方法を読み取っていた。

「ふっ……」

 ほくそ笑む。

 林の向こう――小路はもうすぐ。そして稔の行動も読めた。

 活路は見えた。

 頼綱は素早く踵を返し、愛刀を上段に構えた。

 降ってくる影がわずかに表情を曇らす。歯噛みする稔は身を捻り、中空で身体を回転させた。落下する速度と遠心力を加えた一撃は、ごうと空気を斬り裂いて落ちてくる。頼綱は勇ましく凶刃を受け止めた。

 かち合う刃。弾ける火花。交差する両者。

 沈黙――。

「――シッ!」

 それは頼綱の足捌きにより瞬く間に終わる。こめかみと肩口を赤く滲ませ、背後に刀を薙ぎ払う。鋭い斬撃が稔の背中を襲った。だが、彼は振り返ることもせず両手の小太刀と短刀を背にやるだけ。

 再び金属音が鼓膜を打つ。

 舌打ちしたのが隙になったか、眼前の黒の合羽が翻った。

 腰をかがめた稔は頼綱を蹴り飛ばし、間合いを切った。

「かすりもしないか……」

 頼綱は脇腹を押さえ、苛立ちげに吐き捨てる。

「目が良いんだよ、おまえたちと違ってね」

 無傷の稔は嘲笑し、悠々と得物を構える。

 頼綱も刀を構え直した。刀をだらりと右側に流した、無行の構え。

「ならば、少し速く……。行くぞ」

 摺り足は大地を穿つように踏み込まれ、剣尖が持ち上がる。稔は容易く刃をけるが、返す刀は逆袈裟に振り下ろされ……なおも剣戟は続く。

 頼綱が止まることは無い。愛刀の重量、寸法、殺傷力、全てを熟知した太刀筋。剣舞のような美しさを持ちながらもしかし確実に命を刈り取ろうとする剣技。非情の刃は容赦なく稔を襲い、空間を無尽に駆け巡る剣閃は常人では目に追えない。彼が人間なら既に死んでいただろう。

「こちょまかとうっとうしい。さっさと死ね」

「黙れ凡愚がっ」

 円弧を描く刀が凄まじい速度で振り下ろされる。稔は身体を逸らすだけで躱し、一歩踏み出した。逆手に持った小太刀を繰り出す。

 刀と小太刀が火花を散らし、鎬を削り合う。だがそれも一瞬のこと。

「アアァッ!!」

 鬼の膂力は絶対だ。人間がどれだけ筋力をつけようとそれは決して覆らない。

 稔は押し切った。過ぎ去る白刃が頼綱の頬を掠めた。

「くそがっ!」

 思わず毒づいてすぐさま後退。身を低くしながら地に片膝をついてしまった。

その隙を逃す愚か者はいない。稔は小太刀を順手に持ち替え、ハッと笑うように息をいた。

「これで終わり!」

「舐めるな化け物」

 頼綱の瞳が鋭く輝く。

 中腰になった彼は左足の踵の上に腰を下ろし、右足は正面に向けるように膝を折る。腰帯にある鞘は地面と水平にしてそれには既に刀が収められており、左手は鞘の鯉口に添えられ、右手は柄を柔く持つ。

 頼綱の低姿勢に稔は息を飲む。

 その姿勢から放たれる剣技は明白――

 考える暇もなく擦過音が耳に入った。

 煌めく銀光。美しい半円を描く殺人剣は吸い込まれるように稔の胸部を裂いた。

「あああぁあああ!!」

 赤黒い液体が噴水のように飛び散る。

 それでも稔は倒れなかった。おびただしい量の血を撒きながらも、大きな血溜まりをつくっても、彼は荒い呼吸を浅く続け、頼綱から目を離さなかった。

 その執念深い視線に頼綱はたじろいだ。

「まだ死なないのか……」

「死んでたまるか……っ」

 稔は血を吐きながら怒鳴った。

「何も果たさないまま死ねないっ。ぼくはまだっ、……何も成してない!」

 金色の瞳が煌々と輝き出し、大気は稔を包むように渦巻く。はためく陣羽織と合羽。にわかに吹きつける風は冷たく、肌を刺すようだった。

「ッ……」

 頼綱はこれを知っている。

 何度も目にしてきた現象であり、彼らが人間ではないと再確認させられる時。重圧が全身を叩きつけ、何者でも畏怖を覚える。

 強風に煽られた頼綱は後ずさりして、稔の姿を凝視した。

「……ぜんぶ、殺してやる」

 足元が地割れを起こす。変化に歪む風貌。鋭利な犬歯。流れる青髪。そして、額に一対の角。

 頼綱は失笑した。

「クッ。何度目だろうな、それを見るのは」

「…………潰れろ」

『鬼』と化した稔は足音も立てず踏み出した。

 鞭のようにしなる右腕。ばきばきと関節がなる五指。爪という刃を生やした凶器が頼綱に襲いかかった。

「何度も言わせるな。……甘い」

 頼綱はかっと瞳孔を見開き、それを捉えた。頼綱は愛刀を縦に構え、人差し指と中指の間に愛刀を滑り込ませた。しかし右手を両断することはできず、稔に刀を握り込まれる。

「へし折る」

「させるか」

 すぐさま刀を引き抜き、身も引く。

 右手から血が噴き出し、稔が顔をしかめた。いくら変化した『鬼』の力が強大でも五感はあるのだ。だが、刹那の足止めでしかない。

 合羽が翻る。

 稔は左手を握り込んで頼綱にぶつけた。

「ガ……ッ」

 鎖帷子が壊れ、頼綱は苦悶の声を上げる。

 骨の軋む感触はしたが、肺は潰せなかったみたいだ。普段なら、人間はこれで死に至るが頼綱の瞳の色は失われなかった。眉間にしわを刻み、再び拳を繰り出す。

 圧倒的優勢は覆らない。ヒトが、鬼と正面から挑み勝利を収めることなど、天地がひっくり返っても無理な話だ。ヒトがどれだけ肉体を鍛え上げてようとも、どれだけ武芸に励もうとも、鬼の前ではすべてが無力と化す。

 人間など取るに足らない。力でねじ伏せるのは容易だ。

 ――……ただの殺戮だ。

 脳裏に響いた声に舌打ちする。

「……なんだよ」

 振り払った腕が眼前の人間の刀とぶつかる。すぐに均衡は崩れ、人間は吹き飛んだ。しかし人間は踏ん張り、唇を噛みながら腰帯から鞘を引き抜く。

 ――お前は……人間と同じだ。

「黙れよ……邪魔するな……」

 こちらを睨み続ける人間は納刀を開始する。刀身がすべて鞘に収まったと同時に、人間は力強く大地を踏み締め、突貫した。

 その剣技をこんなにも近くで見るのは数えるほど。

 渡邊頼綱が絶対的な自信を持ち、幾重にも我らの道を阻み、そして、多くの同族を屠ってきた剣。誰もがこれを回避する術を知らない剣だ。

 だから……。

「――――だからどうしたッ!!」

 稔は頼綱へ飛び出した。驚愕に目を見張る頼綱に左腕を振り上げた。

 鞘走りの火花が散る。

 銀色の尾を引く白刃。

 金色の瞳はそれを捉えていた――。



 このとき、千哉が千早を背負って稔と頼綱に追いついたのだった。



 ***


 小道は凄惨を極めた。

 地面は砕け、砂塵がもうもうと立ち込める。道端の木々は枝葉が散らばったり、幹から折れたりしているものまであった。

「……脆いな、人間は」

 その真ん中で立っている男が嗤った。

 長い青髪に額には一対の角。悪鬼のような風体の彼は、遠くに目をやっており、その先には木を背にして倒れる影があった。

 臥す影――渡邊頼綱は微動だにしない。しかしか細い吐息が漏れるのが微かに聞こえた。

 頭から血を流す頼綱は右手をさまよせて、己の得物に触れた。それを目撃した稔は黄金色の双眸を細める。

「まだやる気か……?」

「…………やはり死なぬか」

 頼綱が息も絶え絶えに言う。

 稔はハッと嘲笑った。ゆっくりと頼綱に歩み寄る。

「当たり前だろ。人間が鬼に敵うわけがない、鬼が人間に遅れを取るわけがないんだよ!」

 ――どしゃ。

 鈍い音が側から聞こえた。思わず目を向けると腕のような物体が落ちている。稔は目を剥いて己の左腕を見た。

 左腕は肘から先が無くなっていた。赤く染まる左腕。地面に滴り落ちる鮮血はあっという間に血の池をつくりあげる。

 しかし稔は平然としていた。わずかに肩をすくめて頼綱を見下ろす。

「まぁ、腕の一本大したことじゃない。鬼の世界を作るにはね」

 感情の無い表情と冷え切った声音で紡ぐ。

「さっきの言葉そのまま返してやるよ。行き急いでるのはあんたの方だろ。主君の命がそんなに大事なのか? 本当に下らない」

「黙れ若造」

 頼綱はぼろぼろの体を引きずるように立ち上がり、杖のように刀を地面に突き刺す。裂傷は体中にあり、息は上がっている。流血は止まらず地面を黒く染めた。だが、頼綱の瞳は力強かった。

「渡邊家は、皆元家が旗上げをしたころからの股肱の士だ。皆元家の栄華のために渡邊家はあり、主家を絶やさず支えることが、渡邊家おれの務めだ。故に……貴様らは……鬼は! 皆元にはいらんのだ!」

 そこで頼綱は咳き込み、再び膝を屈する。これ以上の無理は確実に命を落とす。頼綱はぎりっと歯を噛み締め、稔を睨みつけた。

「よく言うな。……身のほどを知れよ」

 稔がつまらなそうに呟く。

「そんな体で……。本当に人間は哀れだな。どちらが強者か、勝者かは明確だ。あんたは、負けたんだよ」

 吐き捨て、右手を握りしめて頼綱へ歩み出す。

 ゆっくりとゆっくりと近づく彼はまさに冥府の鬼だった。

「ぼくが引導を渡してやるよ。ニンゲン」

「くっ……」

 稔が右手を伸ばしたそのとき。


 ヒュッ――と風を切るような音が聞こえ、稔の動きが止まった。

「みっ……!」

 それまで傍観していた千哉がこれでもかと目を見張った。

 なんと彼の背中には矢が突き刺さっていた。

 体勢を崩す彼に千哉は駆け出した。

「稔!? おい、大丈夫かっ!」

 稔はうつ伏せに倒れる。彼を支えようとしたとき矢が放たれたほうから、微かな声が耳に届いた。

「やった……。若様!」

 振り返る。金縛りを受けたように動けなくなる。驚きを隠すことはできなかった。頼綱も状況が理解できない様子で、倒れる稔と瞠目する千哉を見つめていた。

「い、今のは……」

 唇は震えた。

 胸が焼けるように熱くなり鼓動が速くなる。粟立つ背中。震える拳。渇く喉。不安と期待が同時に押し寄せる。

 稔を襲った矢を放ったのは彼女なら、その彼女が今そこにいるのなら、彼が……。

「っ……!」

 よもや声にならない。

 それに応えるようにもう一度矢が飛んできた。二本目は頼綱の足元に突き刺さった。鼻白む彼は皮肉げに笑う。

「……腕の良い射手だな」

 呟いて千哉を見やった。

「迎えか?」

 その通りだった。


 雑木林から飛び出すのは四人の人間。

 小柄の剣士は眼光鋭くこちらの様子を窺い、中肉中背の男は剣士の背後で顔を覗かせ、弓を手にする端麗な女は得意げに笑みを浮かべている。

 そして、彼らを率いるのは眉目秀麗な青年。。襟足あたりで髪を束ね、鞘に収まったままの太刀を肩に乗せている。赤を基調とした陣羽織の折り返しのところには、桃の花が咲き乱れていた。

「――やっと会えた」

 彼は破顔した。

「迎えに来たぜ。千哉」

 一色桃太郎はそこにいた。





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