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桃の色香 続章  作者:
第二章 皆元編
35/52

十八、千哉、隆光と相見える。



 千哉は皆元隆光の背中を睨み続けた。

 先刻、千哉は皆元の城に侵入し、同族である鬼酒千早と会うことができた。しかしそこで皆元家当主、隆光に遭遇してしまう。

 鬼酒の里を踏み倒し、鬼酒一族を狂わせた元凶でもある。

 人を食ったような笑みを浮かべて隆光は千哉と千早を見下ろし、

「客人じゃ。部屋に案内してやれ」

 千哉はその言葉に目を剥いた。

 隆光は笑いながら千哉と千早を、家来の者とともに連れ出した。

「……」

 千哉は訝しく思いながら隆光について行った。隣では千早が真っ青な顔をしていた。思いつめた表情をする彼女に千哉はささやいた。

「お前のせいじゃない、大丈夫だ。お前のことは守り抜いて見せる」

「千哉さん……」

 千早は潤んだ瞳でこちらを見上げる。不安に曇る表情が少しだけ柔らかくなった。そのとき隆光が立ち止まり、家来を下がらせた。

「さぁ、入りたまえ」

 隆光は笑みを浮かべて、千哉と千早を促した。

 十畳ほどの部屋には脚の高い卓と椅子。隅には舶来品と思われるビードロの瓶や球体の物体がある。上座を見ると刀掛台で太刀が寝かされてあった。それを見た千哉は一瞬違和感を覚えた。

 ――何か、おかしい。

「つっ立てないで座ったらどうだ?」

 隆光は奥になる球体の物を持ち上げながら千哉を促した。

 千哉は素直に従った。腰帯から刀を抜くと、千早が手を差し出す。どうやら預かってくれるようだが、千哉は首を振り断った。

「殿、ご用意できました」

 三人が椅子に掛けると、家来が盆を持ってやってきた。盆の上には瓶子とビードロがあった。千哉が眉をひそめていると、家来はそれらを卓の上に置き、去って行った。

「何だこれは」

「酒じゃ。見てわからんか?」

「それはわかるが、どうして酒を……」

「この酒はな、南蛮のものでの」

 抗議するが隆光は聞く耳を持たず、瓶子を杯へ傾けた。そそがれる酒に千哉は目を見張る。酒は白く透明のものではなく、真紅の色をしていた。

「酒?」

「南蛮のものじゃ。面白いじゃろ?」

 思わず口につく千哉に隆光は誇らしげに言った。

「世は儂らが思っているほどより、広いぞ?」

 隆光は三つの杯に酒を注ぎ、球体の物体を卓の端に置いた。球体には紙が貼られており、絵と字で埋められていた。その字はみみずのような文字でいろいろと書かれてある。

 千哉は読めない文字を見つめていた。そんな彼を隆光は笑い、球体をくるくると回してみせた。

「世は広い。唐土もろこしの向こうには天竺があり、その向こうにはもっとたくさんの国がある。そしてこの日ノ本には、人間とは異なる種族――『鬼』がおる。西の果てにもぬしのような者たちもいるやもしれぬ。……この世は、儂のようなちっぽけな人間にはわからないことばかりじゃ」

 球体を凝視していた千哉はやっと我に返り、隆光を睨みつける。

「多くの人間を従えているのに、貴様は何も知らないと言うのか」

「そりゃそうじゃろ。それともぬしはこの世を理解できているか?」

 隆光は杯を手にして訊き返す。

 千哉は押し黙った。鬼は情報網があまりにも少ない。人間の世のことも、同族のことも、正確に耳に入ってこない。顔をしかめると、隆光は喉の奥で笑い、杯を呷った。

「ククク、情報は大事じゃぞ? 今のような時世には特に」

「そうやって貴様は俺たちを見下すのか?」

 馬鹿にしたような物言いに千哉は反応してしまった。

 いつもよりも感情の起伏が激しいことは己でも理解できた。些細なことで苛立ってしまう。理由は恐らく、目の前に諸悪の根源がいる。それなのに、自分は何もできない。今ここで、この男を斬って捨てることですべてが終わり、変わることはないだろう。皆元隆光を殺しても何も解決はしない。

 しかし、それ以上に。

 千哉は、意図的に人間を手に掛けることに躊躇いがあった。

 己の不甲斐なさに千哉は顔を歪ませるが、隆光は気にする様子もなく、飄々としている。

「見下しているつもりはない。儂は、ぬしたちに興味がある。いや、むしろ好感を持つぞ」

「なんだと」

「儂は、『鬼』に興味がある」

 隆光は身を乗り出し、楽しそうに瞳を爛々と輝かせた。

「鬼の身体は便利じゃ。儂もぬしのような肉体を持っておればよかったものの……」

「……鬼として生まれたなら、貴様のようにはならない」

 吐き捨てた言葉に隆光はゆっくりと息を吐き、杯を置いた。

「うむ。一理ある。だが、」

「……」

「人も鬼も変わらん」

 物憂げに呟いた。哀愁を帯びた声音に千哉は反応が遅れた。

「……俺は否定するつもりはない。だが、鬼は鬼。人は人だ」

「ならばあの若者、稔と言ったか。あの者の行いも理解できるだろうに……」

 彼の名を耳にしたとき、千哉は拳を卓に叩きつけた。杯が一つ倒れ卓を濡らし、隣の千早がびくりと肩を縮めた。倒れた杯を見て、隆光は「もったいない」と呆れるだけだった。

 千哉は流れる真紅の液体に目もくれず、低く唸った。

「何が原因で、あいつが動いていると思っている?」

「何が? あぁ、儂のことを言うておるのか」

 隆光はハッと短く笑った。

「この乱世を生き抜くために障害を排除したまで。皆元家を絶えさせぬようにな」

「家名や血筋を残すためなら、何をしてもいいのか」

「おかしなことを訊く。それが棟梁としての務めだ。それはぬしたちも変わらぬだろう?」

 千哉が睨みつけたが、隆光に皮肉げに唇を歪ませる。

「鬼も人も変わらぬ。何かを慕い、何かを羨み、何かを奪う」

「奪うだと?」

「心外そうな顔だな。しかし、ぬしにはないのか、何かを奪ったことは」

「そんなことは」

「ないと言い切れるか? ぬしは一人の人間に肩入れし、そやつを信じておるだろうに」

 黙るこちらに隆光はますます笑みを深める。

「ぬしはそやつに何かあれば躊躇いなく剣を振るう。たとえ相手が同族だろうと、人だろうと……殺すだろ?」

 千哉は目を見開き、硬直した。

 卓の上を真っ赤な液体が流れている。それが血に見えた。ぽたぽたと滴る液体から錆びついた鉄の臭いを感じた。

 脳裏に焼きつくのは血飛沫の中にいる自分。血に混じる微かな潮の香り。木の床を踏み鳴らして咆えるその先には、倒れ伏す『彼』の姿があった。

 千哉は頭を振った。

「違う……ッ」

「何が違う? 自らの業を否定するか。それとも認めたくないか?」

 隆光から笑みは消え、千哉の心を見透かしたように淡々として言葉を紡ぐ。

「言ったな、鬼も人も変わらんと。その通りじゃ。ぬしは、その一人の人間のために動いた。忠義を尽くしたのだ。誇りに思えばいい」

「黙れッ!」

 腕を払うと杯が巻き込まれて床に落ちてゆく。何かが割れる音と小さな悲鳴が聞こえた。千哉は立て掛けてある己の刀を掴み取る。

 隆光は低い声で笑う。

「ククク、ぬしも同じじゃの、鬼は堅物が多い。……しきたりに縛られているぬしより、あの若者は進んでおる」

「……」

「自らの道を切り開くために、あやつはひたむきに」

 隆光はニヤリと口を歪め、部屋の向こうへ目をやった。

「頼綱に伝えろ、兵を集めろと」

「承知致しました」

 その言葉に千哉は我慢できなかった。大きな音を立てて椅子から立ち上がり、刀の柄を握り締めた。

「千哉さん!」

「殿! 貴様……!」

 千早と家来の悲鳴を聞く。家来は腰刀を手に持って駆けつけた。

「お前は黙っていろッ」

 しかし千哉の威圧的な視線に家来は足を竦ませた。千哉は無自覚に『鬼』の力を使用したのだ。それでも隆光は家来に命じる。

「儂のことは良い。頼綱に伝えろ、武勲を上げてこいと」

「し、承知!」

「待て、それは――!」

「千哉さんッ!」

 千哉の怒声と千早の悲鳴が重なった。千哉が彼女の声に振り返ったとき、隆光は部屋の奥にあった太刀を抜き放ち、こちらへ振りかぶっていた。横に振り払われた太刀は千哉の胸元へ吸い込まれた。

「くっ!」

 のけぞったが遅く、千哉は胸元を真一文字に斬り裂かれた。じわりと血が滲んで顔をしかめるが、千哉は止まらない。後ろ足で後退しながら、千早の腕を引っ張って背中へ庇った。

 隆光は太刀を肩に乗せて笑った。

「ふむ。さすが鬼じゃ、反応が早い」

「この程度の傷、どうということはない。すぐに……」

 千哉は胸元へ手をやり、驚愕した。

「どうなっている……?」

 すぐに塞がると楽観していた千哉の掌から血は溢れた。『鬼』は治癒力が高い。これぐらいの傷で『鬼』は倒れたりしないのだ。

「人間に成り下がった気分はどうだ? 『鬼』よ」

 隆光は悠然と笑い、太刀の峰側を愛おしく撫でる。千哉は驚きつつも、隆光が持つ太刀を凝視した。

「……っ」

 ぞくりと背中を撫でるように悪寒がする。禍々しい霊気を放つその太刀は美しく反りを描き、鋭利に輝いた。

 隆光は口を開く。

「これは皆元家棟梁が受け継ぐ太刀じゃ」

「……」

「先代がたがどのような経緯で手に入れたかは定かではないが、これはずっと蔵の中に眠っておった。なにやら呪いがあるそうな」

 口の端を吊り上げて滔々と語る。

「使い手は殺戮を愉しみ、傷つけられた者は必ず死に至る。しかし呪いも何もない。現に儂は正気じゃ。だがしかし、この呪いは真実でもあった」

「く、そ……っ」

 血は止まらない。鮮血は止めどなく溢れ、床へ血溜まりを作り上げる。だが鬼の生命力がまだ優っているのか、千哉の意識を保っていた。

 隆光は太刀の切っ先を向けた。

「正しく、邪を断ち切る刀。ぬしら鬼すらも両断できる。素晴らしいものだろう?」

「それがどうした」

 血の混じった唾液を吐き捨て、千哉は言う。

「貴様が何をしようと、俺は倒れるわけにはいかない。貴様のような人間におれは屈したりはしない!」

 隆光はわずかに目を見張る。しかしそれも一瞬で冷めた眼差しへ変わった。

「……憐れだな」

 隆光は吐き捨て、太刀を鞘に収める。

「矜持など何の役にも立たん。何故頑なに拒む。儂はぬしらのそういうところがいつまでも解せん。……弱者は強者に従っていれば良いではないか」

「こびへつらって生きるなど、俺は御免だ」

「残念だ。ぬしとは戦わねばならんか」

「戦など止めて見せる」

 千哉は言い放ち、千早へ振り返った。

「一色へ帰る。ついて来てくれるか?」

 その問いに彼女は驚いた様子で千哉を見つめ、やがて微笑んだ。

「一族に会えるなら」

「必ず会わせてやる」

「はいっ」

 千哉は千早の手を引いて部屋を後にした。

「…………」

 隆光はそれを追おうとしなかった。相手は鬼だ。たとえ手負いだとしても容易に捕らえることはできないだろう。あとあと、隠密に追わせる。

「やはり『鬼』とは面白いものよ」

 隆光はほくそ笑んだ。



 * * *



「クソッ!」

 茨城稔は木を叩きつけた。顔は憤怒に歪み、ぎりっと歯を鳴らす。

「千哉さんが、千早を……! クソッ!」

 稔は再び怒鳴り木を叩きつけた。彼は城の石垣の向こう側にある林の中に身を隠し、皆元隆光の動向を窺っていた。するとどうだろう。隆光は千哉と千早を連れ、話をし出した。しかしすぐに刃傷沙汰になり、今し方千哉が千早を連れ出して立ち去った。

 稔はそれを見て驚愕に目を見開いた。

 どうして千早は素直に千哉に従うのか。どうしてそんな笑顔を千哉に向けるのか。

 稔はくしゃくしゃに髪を掻き乱した。

「駄目だ、あの人は信用ならない! あんな人が……、あんな人が! 鬼酒を助けるなんて……! 間違ってるよ、兄さん」

 ごん、と木の幹に頭をぶつけて、上を見上げる。吹き抜ける風が新緑の葉を揺らした。木漏れ日が揺れ、幾筋のもの光が踊った。

そして稔は乾いた笑みを浮かべる。

「救うのは、ぼくだよ」

 稔は考えた。

 今、皆元隆光は一人だ。千載一遇の好機だろう。しかし今隆光を殺しても何も変わらない。それぐらいのことは稔でも理解できた。いや、鬼の力を使えば人間などいつでも殺せる。

 鬼酒を救うにはまず、皆元家の殲滅だ。

 皆元を完膚なきまでに潰すには……

「先ずは……」

 稔は西へ顔を向けた。




 2015年10月2日:誤字修正

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