十七、桃太郎、再び立ち上がる。
一色の城下は今日も平穏を送っている。いつものように領民は笑顔でにぎやかだ。しかしその活気は、どこか喧騒じみていた。人々はどこか暗い表情をして、何やら小声で話をしている。今の城下は何かを危惧するような雰囲気に包まれていた。
「……人が減った」
秋那は呟いた。路地から顔を出して町の様子を見つめている。ここ数日、一色家の居城に寝泊まりして、城下を練り歩いているのだ。だから領民の様子はつぶさにわかる。この数日で確実に人が減っている。そして、領民が何を危惧しているのかも当事者とも言っていい秋那には理解できた。
「減ったって言うのかな?」
隣で香織が眉をひそめて、彼方を指差す。道の真ん中を行くのは、甲冑に身を包んだ兵士たちだった。険しい顔つきをした彼らは粛々と一色の城へと向かっている。残念ながら秋那と香織は一色家の事情を知らないので、どこの家の兵か知らない。
秋那は兵を睨みつけた。
香織の言う通りだ。城下から領民は減った。しかし武器を持った人間が増えた。そして彼らはすぐにどこかへ行ってしまう。主に東の方へ。
もちろん、秋那は人間のすることに関心はない。人間が何をしようと『鬼』はそれを傍観するのみ。関わる必要はない。だが、今はそうも言っていられないのだ。
鬼柳一族は最大の危機を迎えている。頭領不在の中、里の者に東の同族のことを伝えると動揺し、それに我らの頭領が関わっていることを伝えると、さらなる混乱を招いた。今のところ落ち着きを取り戻しているが、問題は山積みである。これからの行動が鬼柳一族の命運を左右することになるだろう。
――何か、できないだろうか。
秋那は拳をつくった。一族を思う気持ちは誰にも負けない。だが何もできない。何も行動に移せない。そんな自分が情けなくて、悔しかった。
すると香織がぽんと秋那の肩を叩いた。振り返ってみると香織が微笑を浮かべていた。
「怖い顔してるよ」
「そんなことない」
「いやいや、ここにしわが寄ってる」
香織はくすくすと笑いながら、秋那の眉間に指先をつんと当てた。秋那はますます眉をひそめて、顔を背けた。
「……元々こんな顔だ」
言い返すと香織はますます笑った。楽しげな彼女を忌々しく見つめてから、秋那はふと目を戻した。その先にあるのは一色領主の居城。睨みつけるような視線を送っていると、香織が隣から顔を出す。彼女はこちらの顔色を窺いながら訊ねた。
「秋那は、あの人のこと嫌い?」
「人間と関わるなんて言語道断だ」
「……うん」
少し悲しげに聞こえる頷きだった。秋那は続ける。
「だけど、これ以上は人間の領分。……あいつに頼るなんて悔しくて、情けなくて、はらわたが煮えくりかえそうだけど、」
「ふふっ」
香織が笑った。秋那は咎めるように振り返るが、彼女は悪びれもなく微笑み返して、続きを促す。香織のそのような表情には常に勝てない。秋那は諦めて小さく息を吐いた。
「それでも、千哉様が心から信頼する『人間』だ」
「うん」
「あいつには動いてもらわないと困る」
「うん」
「千哉様を支えることは、我らの使命だ」
「うん」
「……香織、さっきから頷いてばっかだけど」
短調な彼女を呆れて振り返ると、香織は変わらず微笑んでおり、ゆるやかに首を振った。
「一生懸命な秋那が可愛いと思っただけだよ」
「か、可愛い?」
「でも、やっぱり乙女は笑顔でしょっ。……あたしもがんばらなくちゃね。さ、説得するんでしょ? 戻ろ、秋那」
「う、うん」
上機嫌な背中に違和感を覚えながら、秋那は香織に続く。するとふと思い出された。
――笑顔の秋那も見てみたいな。
「はぁっ!?」
「わっ、……どうしたの秋那?」
絶叫する秋那に香織はビクッと肩を震わせ、振り返る。秋那は彼女に気づかずに必死になって今の言葉を打ち消す。顔をぶんぶん振ると、首元の赤い襟巻が激しく揺れた。
「……秋那?」
そんな親友を怪訝な目で見つめる香織。やっと彼女が目の前にいることに気づき、秋那は即座に否定する。
「な、なんでもない! 私は普段通りだ!」
「いや……顔赤いよ?」
「と、とにかく城に戻るっ!」
「あ、待って、秋那」
早足で行く秋那を香織は慌てて追いかけた。
* * *
一色領主の一色政春の居城はいつになく騒がしい。バタバタと政春の家臣が廊下を駆け抜けていく。彼らの恰好は皆、具足をまとっている。その面持ちは緊迫したものであったが、目を輝かせて高揚しているようにも見えた。
忠治は家臣を見つけては会釈を返す。しかし忠治の存在など彼らは気にも留めない。従者風情など、今は気にしている場合ではないのだろう。
「……忙しくなってしまった」
ふと呟いた言葉は疲労が濃かった。
忠治は小さく息を吐き、廊下を歩き出す。犬養家は代々一色家の小姓。主の側に付き従うのが使命である。故に、領主である政春とその子、桃太郎が行動を起こさないかぎり、忠治は城にいる。
今日も今日とて、普段通りの一日を送るだけ。
そう、今日も……。
「犬養殿!」
声に振り返ると懐かしい顔があった。忠治は思わず目を見開く。
「う、浦島様?」
浦島達海は喜び勇んで現れた。
***
「桃太郎様。お久しゅうございます」
浦島達海は深々と桃太郎に礼をした。忠治は部屋の隅で正座をし、我が主を見つめた。窓際にいた彼は驚いたように目を向けた。
「達海……」
端正な顔立ち。切れ長の目。ふっと柔らかく笑む姿は男女問わず魅了される。しかし、その笑顔は暗い。感情のこもっていない瞳を達海へ向けていた。
忠治は彼の様子を見て、胸を痛めた。
「不肖ながら、戻って参りました」
達海は畳に頭を下げたまま、言う。その声音は少しだけ上擦っていた。
桃太郎は窓の縁に肘をついて口を開く。
「元気にしてたか?」
「は……」
達海は低い声で頷き、顔を上げた。その表情は険しかった。
「どうした?」
「お話してもよろしいでしょうか」
「ん?」
「何故、某を許したのでしょう」
彼の質問で空気が少しばかり張りつめた。
先月の事件で、浦島家は取り潰されるはずだった。しかし政春は当主の浦島清海を処分しただけで終わった。息子である達海は蟄居を命じられ、達海の命と浦島の血は救われた。
「あれから考えました。どうして自分は生きているのかを……」
「……」
「某は罪人の子。死は覚悟していました。だのに、某は蟄居を命じられ、瑠璃……妹は港の復興を支えている。父に従い、生き残った者たちまで……。それが、信じられなかった」
達海は唇を噛み、叫んだ。
「我らは処罰される側! どうして某を許したのですか! この血は謀反を起こすかもしれないのですよ!」
「浦島様!」
忠治は食ってかかろうとする彼を声で制し、桃太郎に目をやる。忠治の視線に気づいた桃太郎は薄く笑って、達海へ向き合った。
「でも、おまえは生きてる」
「え?」
意味がわからない発言に達海は目を瞬く。桃太郎は笑ったまま続けた。
「おまえには生きてもらわないと。……自分でも馬鹿だってわかってる。後世はアレだな、歴代で最も阿呆な領主って言われるんだろうな」
「……」
「だからって後悔はしない。……自分の決めたことに後悔はしない」
「……っ」
その言葉に忠治は瞠目し、思わず口をつきそうになったが押さえ込んだ。今は関係がない。特に達海の前で話すことではない。忠治は舌を噛み締め、理性を保った。
桃太郎の目が一瞬だけ忠治に向けられた。恐らく桃太郎はこちらの様子に気づいている。だが、問いただすことしない。今の桃太郎は達海しか見ていないのだ。
「……達海には生きてほしい。オレがそう望んでる。瑠璃だって、そうだろ?」
達海は両拳を握りしめ、唇を震わせるが声は出ていない。すると桃太郎は自虐な笑みを浮かべた。
「そうだよな……こんなの、ただの自己満足だもんな。おまえの気持ちなんて全然考えてないし。だけどさ、達海」
桃太郎は微笑をたたえた。
「おまえには生きてほしいんだ。浦島家の当主として」
「……」
忠治は思わず顔をしかめた。さきほどからそればかりだ。いつもなら、もっと雄弁に説き伏せるはずだ。
それでも、達海には何か伝わったのか、彼はがばりと頭を下げた。
「考えるまでもなかった。この余生は桃太郎様あってのもの。ならばこの命は何のために使うのか。愚問にございました」
鼻息を荒くして達海は畳に唾を吐く。
「この浦島達海、桃太郎様のために粉骨致します」
「浦島様……」
忠治の呟きに、達海は振り返って笑う。
「犬養殿のように側にはおられませんが、あなた様の盾ぐらいにならなれます」
「達海……」
「浦島も東の支城へ参ります。戦とならば使ってくださいませ。手足となって働いてみせます」
「あぁ。頼むぜ、達海」
桃太郎は最後まで笑っていた。
「…………」
それが辛くて、忠治たちは顔をうつむかせていた。いつも輝く彼の瞳は、やはり今は何も映っていない。何度、忠治たちが言葉を掛けても桃太郎は回復しない。
彼の心にあるのは鬼柳千哉の一言だろう。しかし忠治は、あれが千哉の本心とは思えない。これ以上桃太郎を巻き込まないための、彼なりの優しさだろう。確かに千哉の言い分は半分正解だった。友人を殺された千哉の気持ちも理解できた。
そこまで考えて、忠治はぐっと拳を握った。
しかし千哉の本心はわからない。正直、忠治も『鬼』の慣習をすべて理解したわけではない。
犬養忠治は、一色桃太郎の従者である。
もしこれから、千哉がこちらの行く手を阻むことがあるならば……。
迷わず、斬る。
その覚悟はできていた。
* * *
「桃太郎ッ!」
達海が退室してしばらく、ふすまは荒々しく開け放たれた。
側に居た忠治がびっくり仰天してひっくり返った。見上げたところには秋那がいた。彼女の背後には香織と千鶴、それに五右衛門と美羽も立っていた。目を見開く忠治に、香織が苦笑交じりに言った。
「こんにちは、犬養さん」
「……皆そろって、どうしたんだ」
彼女の声を聞いて我に返った忠治がゆっくりと問いかける。しかし誰も答えてはくれず、厳しい表情をした秋那が畳を踏み鳴らして、桃太郎に詰め寄った。忠治と同じく、面食らっていた桃太郎は固まっていた。
秋那は彼を見つめて忌々しそうに顔を歪め、そして。
「まだこんなところで呆けてるのか!」
桃太郎の襟元を掴み上げた。一同は驚いた表情をしたが、すぐに諦観したように秋那を見つめた。こんなことは誰もが想像できた。
何も答えない桃太郎に秋那は怒鳴る。
「連れ戻すと言ったのは誰だ! そもそも、あれが千哉様の本心だと思っているのか、貴様は!」
言葉遣いは荒いが、秋那の声は震えていた。
「千哉様はおまえを信頼している! だから、力になってくれると信じていたのに……なんなんだっ、この体たらくは!」
――立ち上がれ、と秋那は願うように呟いた。
だが、桃太郎は答えなかった。桃太郎は彼女を視界に入れるのが辛くてうなだれた。そしてそんな己が馬鹿馬鹿しくて、ついつい笑ってしまった。
「……っ!」
そのとき秋那が舌打ちした。一層顔を歪めてついに腕を振り上げた。これには忠治たちも黙っていない。五右衛門が怒声を上げて駆け寄った。
「秋那さん」
それは凛々しく、鋭かった。この場の全員が、彼女の声に振り返って動きを止めた。多くの視線を意にも介さず、彼女はゆっくりと桃太郎へ近づいた。
「……お久しぶりです、桃太郎様」
千鶴は優しく話し掛ける。
「あぁ、久しぶり」
答えると彼女は側に腰かけ、不満げな表情を桃太郎に向けた。
「兄がどのような言葉を掛けたのか、わたしはわかりません。ですが、秋那さん……いいえ、みなさんのおっしゃる通り、それが兄の本心なのでしょうか」
「……」
そう問われ、桃太郎は口を噤んだ。
それは、何度も耳にした言葉だ。忠治たちが何度も言っていた。確かにその通りで、あれが千哉の本心ではないだろう。千哉が激怒し、本当に『鬼』とあるならば、あの場で自分は斬られただろう。
それぐらい桃太郎にも理解できている。しかし頭の中でわかっていても、体は動かない。千哉の言ったことは大体合っているのだから。
桃太郎が国を越えなければ、あの千雪という『鬼』は死ななかったはずだ。千哉の大事な友を奪ったのは自分だ。これ以上、『鬼』の事情に首を突っ込めば、ただでは済まないことは想像に難くない。
だから……
桃太郎はゆるゆると首を振り、千鶴に微笑み返した。
「千哉の好きにやらせたらいい。オレは、ちゃんと家を守るから」
彼を助けたい、連れ戻したい、その気持ちは変わらない。だが、千哉の邪魔だけはしたくなかった。
「……桃太郎様は、お兄様がお嫌いですか?」
千鶴の声音が再び低くなる。鋭い口調と、いつもより細められた瞳は冷淡に映った。
桃太郎は吸い込まれるように彼女の瞳を凝視し、見惚れた。だからか、答えるとき目を逸らしてしまった。
「そ、そんなわけないだろ。……あいつは良い奴だ。嫌いになんかなれない」
「兄も、そのはずなんです」
こちらの言葉を拾い上げるように千鶴は言った。
「あなたを巻き込みたくないから。大切だから、失いたくないから……」
彼女は少し頭をもたげて、続けた。
「鬼は、『人間』のことをよく知りません。嫌いだとはっきりと言う方もいます。東の方たちはもっと……だろうと思います。わたしは今、この時が大好きです。兄が桃太郎様と出会って、鬼柳は少しずつ変わってきています。――ただ、差別することしかできない。だから言葉が通じない、理解できない、怖い……、でも、そんな人間ばかりじゃないってわかってきたんです。わたしたちをちゃんと見てくれる人たちもいるって、わかったんです」
拙くて、たどたどしい。だけど一生懸命に語り、千鶴は真っ直ぐと桃太郎を見つめた。
「桃太郎様は、どうしたいんですか?」
「オレ……?」
呟くと千鶴は力強く頷く。
「お城で、お兄様の帰りを待つのがあなたなんですか?」
「……」
「あなたのやりたいことはなんですか?」
「……千鶴」
まじまじと呆けて千鶴を見つめていると、美羽が不意に口を開いた。
「やはり若様に、そのようなお顔は似合いません」
彼女に目を向けると、美羽は柔らかく口角を上げた。
「深追いは危険でしょう。私たちはまだ、『鬼』をきちんと理解したわけではないですから。ですが、あなたがそう望むなら、私たちはあなたに付き従います」
ね? と美羽は忠治を振り返った。視線に目を瞬いた忠治だったが、すぐに居ずまいを正し、桃太郎に座礼した。
「私は一色桃太郎の従者です。意見は申しますが決断するのは若です。あなたがお決めになったことには従います。もちろんその決め事にもきちんと吟味致しますが……」
「忠治」
彼の堅苦しい言葉を五右衛門が遮る。五右衛門は忠治の肩に手を乗せてニッと笑った。
「簡潔にまとめろよ、侍従頭?」
忠治は一瞬だけ怪訝そうに眉をひそめて、やがて告げた。
「私は若に従います」
「おい、私『たち』だろ。おれのこと忘れんな」
「私もいるわ、忠治」
「……めんどくさいな」
「あ?」
「今なんて?」
目を剥く五右衛門と冷たい眼差しを送る美羽。忠治は素知らぬ顔をしてそっぽを向いていた。
「……」
桃太郎は茫然として彼らを見つめた。そして胸の中にあった不審や不安は、いつの間にか消え失せていた。
こんな簡単なことにまったく気がつかなかった。
多くの人が支えてくれる。どんな無理難題だろうとも、ついて来てくれる人たちがいる。ならば自分は、自らが選んだ道を行く。
「オレは千哉を助けたい」
桃太郎は想いを告げた。
「千哉の力になりたい。どんなに迷惑がられようと、オレはそうしたい。戦は乗り気じゃないが、家も千哉も、守ってみせる」
それから全員の顔を眺めて、
「ありがとう、みんな」
桃太郎は立ち上がった。
2015年10月2日:誤字修正