表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
桃の色香 続章  作者:
第二章 皆元編
31/52

十四、鬼酒千雪と茨城稔。



 これは遠い記憶だ。

 うららかな春の日。

 暖かな陽光のもと草原くさはらで寝転がるのは心地良かった。

「……稔君!」

 しかしそのまどろみはすぐに打ち消される。

 悲鳴染みた声が聞こえ、思わずそれに反応してしまう。

 目に入ったのは満開の桜の木。あれは里で一番背が高く、数百年前から毎年花を咲かせている。その木の合間から、少年が見えた。

 それを見てため息が漏れてしまった。

「あ、危ないからっ、下りてきて!」

 木の下では一人の少女がおろおろと慌てている。綺麗な横顔は真っ青で、澄んだ瞳は潤んでいる。

 そんな彼女の様子に再度ため息を漏らし、重い腰を上げた。近づくと、こちらに気づいた少女は涙目で見上げてくる。

「ど、どうしよう、ユキ」

「千早も落ち着け。まったく稔は……」

 肩を落として桜の木を見上げた。

 すると木の上の少年がこちらへと声を掛ける。しかし姿は見えなかった。

「ユキ(にい)も登って来なよっ」

「下りてこい。あまり心配をかけさすな」

「別に心配かけてない」

「……千早が心配で泣いているから下りてこい」

「え? 千早(ねえ)、泣いてるの?」

 木の合間から稔の顔がひょっこりと出てきた。

「な、泣いてなんかないよ! もう、ユキ! 勝手なこと言わないでよっ」

 背中を叩いてくる彼女に笑い、稔を見つめて言った。

「大泣きするかもしれないから下りてこい」

「ユキの馬鹿! 意地悪! 嫌い!」

「嫌われるのは嫌だ」

 だから千早の目元を拭ってやる。それでも彼女は「……泣いてないもんっ」と口を尖らせていた。そんな彼女から目を離し、桜の木を見上げる。

 今年も桜は美しく咲き乱れている。柔らかな春風が桃色の花びらを舞い散らす。それを微笑ましく思いながら稔を睨んだ。

「とにかく下りてこい」

「ヤダ。上は気持ちいいもん」

「ふむ……」

 考えた。どうすれば稔を下ろすことができるだろうか。思案顔のこちらに「また考え事?」と、千早は首を傾げていた。

「よし、上ろうか」

「えっ!? 危ないって言ってるのに!」

 千早が目を丸くして慌てるが、無視した。抗議は後で聞くことにしよう。そして、木の太い幹に足を掛けた。そのとき稔と目が合った。

「なんだ、ユキ兄も上りたいんじゃん」

「……お前を迎えに行くだけだよ」

 なんとも呑気なことを言う弟に、笑みが零れた。そして細い枝に手を掛けたとき、枝が折れた。

「きゃあ!」

「兄ちゃんっ!?」

 下と上からの悲鳴を聞いたときには、硬い地面で強かに背中を打っていた。

「……いたた、さすがに痛いな」

「ユキ!? ユキしっかりして! どっ、どどどうしようっ!?」

「ユキ兄、怪我した……?」

 千早は取り乱し、稔は怯えた様子であった。そんな二人を無視して稔の手首を掴んだ。

「捕まえたぞ、稔」

「えっ? ……あっ」

 立ち上がって笑うと、稔は呆けた様子でこちらを見上げて気づいたようだった。

「嘘()いたな、兄ちゃん」

「何のことだ?」

 微笑み、稔から手を離す。すると彼は素早く千早の背後に回り込む。それを目で追い、ふと千早を見つめた。そして少し驚いた。

 地べたで正座をする彼女は怒ったような、寂しそうな表情をして泣いていた。

「ユキの馬鹿」

 鋭く放たれた声に竦んだ。ぽりぽりと頬を掻き、目を背ける。

「あー、悪かった……ッ!?」

 言った瞬間、千早が胸に飛び込んで来た。びっくりして態勢を保つこともできず、腕を掴まれた稔まで、地面に横たわった。

 千早はそのまま胸に顔を埋める。

「怪我ないんだねっ、よかった、よかったぁ!」

「まっ、まま、待て待て! お、落ち着け千早!」

「ユキ兄、手離して……」

 慌てふためくこちらなど意にも介さず、二人は文句を言う。こんなところを父や、鬼酒頭領に見られたら殺されかねない。

「でも、ユキの馬鹿!」

「はっ?」

 突然の罵声に思わず顔を上げる。すると千早は潤んだ瞳で見つめてくる。心臓が早鐘を打つ己を今すぐにでも殴りたい。

「怪我したって思った……心配させないでよ、馬鹿ユキ」

「ご、ごめん、千早」

「いいよ、ユキが無事なら」

 目を泳がせて答えると千早はぶんぶんと首を振った。笑顔なのは良いことだが状況は非常に不味い。変わらず顔を背けて千早にそっと言った。

「と、とにかく離れてくれ……」

「え……あぁっ、ごめんなさい!」

 伝えると彼女は飛び退いた。やっと起き上がると、隣で稔がふくれっ面をしていた。

「……ユキ兄はいつもそうだよ。全部一人で考え込んで答え出してさ」

 ふと呟かれた言葉に固まる。稔の冷たい視線が突き刺さった。それを繋げるのは、ほのかに頬を赤く染める千早だった。

「稔君の言う通りだよ! ユキっていつも一人で考えて……ちょっとは頼ってよね」

「いや、今のは相談しなくても……」

「そういうことじゃなくて」

「じゃあ、どういうこと?」

「……」

 言い返すと、千早は眉根を寄せて黙ってしまった。

 そんな彼女をどう対応すればいいかわからなかった。ごまかすように、稔の頭を撫でて言った。

「今日のことは稔のせいでもある。遊びとはいえ、千早を困らすんじゃない。我ら茨城一族郎党の使命は、鬼酒を守ることだからな」

「……兄ちゃんだって、千早姉困らせてんじゃん」

「何か言ったか?」

「なんにもない! 千早姉帰ろ?」

「うん」

 千早は元気よく頷くと、こちらへ「べっ」と舌を出して行ってしまった。

「……なんだよ、ったく」

 二人の背中を追いながらぼやく。

 風が凪ぐ。

 桃色の花びらが散る中、千雪は笑っていた。



 * * *



 桃太郎は衝撃で地面に腰が砕けた。顔と着物には血が飛んでいる。だが、それは彼のものではない。桃太郎には傷一つなかった。

「千哉……!」

 血塗れの衣服を見て何を思ったか、彼は千哉を呼んだ。

「……」

 千哉は答えることができなかった。彼は茫然として、桃太郎に前に立ちふさがっている影を見つめていた。

「千、哉……?」

 桃太郎も霞んだ視界で己の前に立つ影を見つめた。

「あ……あ、あぁ……!!」

 それは稔の声だった。彼は金色の目を泳がせ、震えた腕を片手で支えている。震えた腕は月明かりでもわかるくらいに、赤く染まっていた。

「ぐ……っ」

 桃太郎の前に立つ影が呻き声を上げる。地面にぼたぼたと血が垂れるのを見たが、誰も動くことはなかった。

 荒い息の中、影は優しく呟いた。

「もう、いい……もう、いいんだ……、稔」

 鬼酒千雪はおびただしい量の血を口から吐き出し、崩れた。

「千雪ッ!」

 そのとき千哉の絶叫が響く。地面に倒れる千雪に千哉は足をもつれさせ、駆けつけた。

「千雪! しっかりしろ!」

 千哉は必死に彼の名を呼ぶ。彼の傷は身体を縦に掘削するように大きく斬り裂かれており、内臓にも傷があった。

 千哉はこの傷を負わせた彼に振り返った。

「稔、貴様!」

 飛びかかろうとしたとき、手首を強く握られた。千哉は顔を歪めたまま振り返る。掴んだのは千雪だ。

 千雪は弱々しく口にした。

「千哉殿、どうか稔を責めないでほしいです」

「な、何を言っている?」

「……稔は、悪くありません」

 彼の言葉に千哉は瞠目するが、千雪はゆるゆると首を振った。

「稔は鬼酒のために動いたのみ、己の正義を貫いただけです……」

 その合間にも血はどくどくと溢れた。傷口は塞がらない。鬼の治癒力が追いついていないのだ。千哉は焦った。

「千雪もういい、喋るな。これ以上は」

「稔の言うように、私は臆病者です。考えても答えは出なかった……全部、稔に押しつけてしまった……」

「千雪!」

 千哉は堪らず叫んだ。

「お前は鬼酒千早を救うのだろう!? こんなところで倒れてどうする! 鬼酒は何も変わってないっ、救えていないぞ!!」

「私がいなくても、鬼酒は救えますよ。……それに私は頭領として失格ですし、ね」

 千雪は振り返り、微笑を浮かべた。

「――稔」

 そして、実弟を呼んで荒い息の中、告げた。

「鬼酒を、千早を……頼んだぞ」

「……ッ」

 稔は藍色の瞳を見開き、硬直していた。それでも千雪は満足したように微笑んだ。

「……千哉殿」

 呼びかけに千哉は呆然として振り返る。千雪の瞳に力はない。手元で彼の体は冷たくなっていく。

「私は、貴殿に出会えてよかった。この世にはまだ、同族が存在していることがわかった。こんなにも、胸が熱くなったのは初めてでした」

「千雪……」

「鬼酒の命運を、見届けていただけますか」

「まだ、行くな……!」

 千哉は懇願した。

「いいえ、私は……」

 千雪は虚ろな瞳で夜空を見上げる。そして儚げに微笑んだ。

「鬼の世に、幸があらんことを」

 静かに目を閉じた。

 千雪は最後まで、穏やかな表情をしていた。


 一陣の風が吹く。

 冷たくなった千雪の体に水滴が落ちた。

 千哉は声を殺して泣いていた。



 * * *



「はぁ……はぁ……はぁっ」

 稔は草木をかき分け、道とも呼べない道を行く。その足取りは覚束ない。歩くたびに、両手に付着した血液が地面に落ちる。これは己のものではない。今さっき、この手で討った実兄のものだ。

「あ……っ」

 足に木の根を引っかけた。稔は頭から無様に転んだ。

「はぁ……はぁ……っ」

 心臓は痛いほど早鐘を打ち、喉がつかえて息が苦しかった。稔は着物を鷲掴み、呼吸を落ち着かせた。

 やがてゆっくりと起き上がり、側にあった木に背中を預けた。しかしすぐに、ずるずると座り込み、泥で汚れた顔を、血に塗れた両手で覆った。

「……兄さんが、死んだ」

 事実を呟いた。

 稔の攻撃から人間を庇って死んだのだ。なぜ兄がそんな行動に出たかわからない。人間を憎む思いは変わらないはずなのに。

 兄の行動は理解不能だった。

 だからか、兄が崩れる光景を思い出すと口元が緩んだ。

「ハ、ハハハ……、ハハハッ」

 笑いがこみ上げた。家族が死んだ。胸が痛い。苦しいのに、悲しいはずなのに……。

 それでも笑いは止まらなかった。

「兄さん……。ハハッ」

 稔は狂ったように笑い続ける。

 鬼酒千雪はこの世にいない。もう、あのころには戻れない。昔のように三人で笑いあうことはない。

 ならば、稔のすべきことはただ一つだ。

「兄さんの思いは、無駄には使わない。……徹底的に潰してやる」

 ずるりと手が頬を撫でる。

 泥と血で混じった稔の表情は、憎悪に歪む。

 覚悟はとうの昔に決まっているのだ。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ