十四、鬼酒千雪と茨城稔。
これは遠い記憶だ。
うららかな春の日。
暖かな陽光の下、草原で寝転がるのは心地良かった。
「……稔君!」
しかしそのまどろみはすぐに打ち消される。
悲鳴染みた声が聞こえ、思わずそれに反応してしまう。
目に入ったのは満開の桜の木。あれは里で一番背が高く、数百年前から毎年花を咲かせている。その木の合間から、少年が見えた。
それを見てため息が漏れてしまった。
「あ、危ないからっ、下りてきて!」
木の下では一人の少女がおろおろと慌てている。綺麗な横顔は真っ青で、澄んだ瞳は潤んでいる。
そんな彼女の様子に再度ため息を漏らし、重い腰を上げた。近づくと、こちらに気づいた少女は涙目で見上げてくる。
「ど、どうしよう、ユキ」
「千早も落ち着け。まったく稔は……」
肩を落として桜の木を見上げた。
すると木の上の少年がこちらへと声を掛ける。しかし姿は見えなかった。
「ユキ兄も登って来なよっ」
「下りてこい。あまり心配をかけさすな」
「別に心配かけてない」
「……千早が心配で泣いているから下りてこい」
「え? 千早姉、泣いてるの?」
木の合間から稔の顔がひょっこりと出てきた。
「な、泣いてなんかないよ! もう、ユキ! 勝手なこと言わないでよっ」
背中を叩いてくる彼女に笑い、稔を見つめて言った。
「大泣きするかもしれないから下りてこい」
「ユキの馬鹿! 意地悪! 嫌い!」
「嫌われるのは嫌だ」
だから千早の目元を拭ってやる。それでも彼女は「……泣いてないもんっ」と口を尖らせていた。そんな彼女から目を離し、桜の木を見上げる。
今年も桜は美しく咲き乱れている。柔らかな春風が桃色の花びらを舞い散らす。それを微笑ましく思いながら稔を睨んだ。
「とにかく下りてこい」
「ヤダ。上は気持ちいいもん」
「ふむ……」
考えた。どうすれば稔を下ろすことができるだろうか。思案顔のこちらに「また考え事?」と、千早は首を傾げていた。
「よし、上ろうか」
「えっ!? 危ないって言ってるのに!」
千早が目を丸くして慌てるが、無視した。抗議は後で聞くことにしよう。そして、木の太い幹に足を掛けた。そのとき稔と目が合った。
「なんだ、ユキ兄も上りたいんじゃん」
「……お前を迎えに行くだけだよ」
なんとも呑気なことを言う弟に、笑みが零れた。そして細い枝に手を掛けたとき、枝が折れた。
「きゃあ!」
「兄ちゃんっ!?」
下と上からの悲鳴を聞いたときには、硬い地面で強かに背中を打っていた。
「……いたた、さすがに痛いな」
「ユキ!? ユキしっかりして! どっ、どどどうしようっ!?」
「ユキ兄、怪我した……?」
千早は取り乱し、稔は怯えた様子であった。そんな二人を無視して稔の手首を掴んだ。
「捕まえたぞ、稔」
「えっ? ……あっ」
立ち上がって笑うと、稔は呆けた様子でこちらを見上げて気づいたようだった。
「嘘吐いたな、兄ちゃん」
「何のことだ?」
微笑み、稔から手を離す。すると彼は素早く千早の背後に回り込む。それを目で追い、ふと千早を見つめた。そして少し驚いた。
地べたで正座をする彼女は怒ったような、寂しそうな表情をして泣いていた。
「ユキの馬鹿」
鋭く放たれた声に竦んだ。ぽりぽりと頬を掻き、目を背ける。
「あー、悪かった……ッ!?」
言った瞬間、千早が胸に飛び込んで来た。びっくりして態勢を保つこともできず、腕を掴まれた稔まで、地面に横たわった。
千早はそのまま胸に顔を埋める。
「怪我ないんだねっ、よかった、よかったぁ!」
「まっ、まま、待て待て! お、落ち着け千早!」
「ユキ兄、手離して……」
慌てふためくこちらなど意にも介さず、二人は文句を言う。こんなところを父や、鬼酒頭領に見られたら殺されかねない。
「でも、ユキの馬鹿!」
「はっ?」
突然の罵声に思わず顔を上げる。すると千早は潤んだ瞳で見つめてくる。心臓が早鐘を打つ己を今すぐにでも殴りたい。
「怪我したって思った……心配させないでよ、馬鹿ユキ」
「ご、ごめん、千早」
「いいよ、ユキが無事なら」
目を泳がせて答えると千早はぶんぶんと首を振った。笑顔なのは良いことだが状況は非常に不味い。変わらず顔を背けて千早にそっと言った。
「と、とにかく離れてくれ……」
「え……あぁっ、ごめんなさい!」
伝えると彼女は飛び退いた。やっと起き上がると、隣で稔がふくれっ面をしていた。
「……ユキ兄はいつもそうだよ。全部一人で考え込んで答え出してさ」
ふと呟かれた言葉に固まる。稔の冷たい視線が突き刺さった。それを繋げるのは、ほのかに頬を赤く染める千早だった。
「稔君の言う通りだよ! ユキっていつも一人で考えて……ちょっとは頼ってよね」
「いや、今のは相談しなくても……」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうこと?」
「……」
言い返すと、千早は眉根を寄せて黙ってしまった。
そんな彼女をどう対応すればいいかわからなかった。ごまかすように、稔の頭を撫でて言った。
「今日のことは稔のせいでもある。遊びとはいえ、千早を困らすんじゃない。我ら茨城一族郎党の使命は、鬼酒を守ることだからな」
「……兄ちゃんだって、千早姉困らせてんじゃん」
「何か言ったか?」
「なんにもない! 千早姉帰ろ?」
「うん」
千早は元気よく頷くと、こちらへ「べっ」と舌を出して行ってしまった。
「……なんだよ、ったく」
二人の背中を追いながらぼやく。
風が凪ぐ。
桃色の花びらが散る中、千雪は笑っていた。
* * *
桃太郎は衝撃で地面に腰が砕けた。顔と着物には血が飛んでいる。だが、それは彼のものではない。桃太郎には傷一つなかった。
「千哉……!」
血塗れの衣服を見て何を思ったか、彼は千哉を呼んだ。
「……」
千哉は答えることができなかった。彼は茫然として、桃太郎に前に立ちふさがっている影を見つめていた。
「千、哉……?」
桃太郎も霞んだ視界で己の前に立つ影を見つめた。
「あ……あ、あぁ……!!」
それは稔の声だった。彼は金色の目を泳がせ、震えた腕を片手で支えている。震えた腕は月明かりでもわかるくらいに、赤く染まっていた。
「ぐ……っ」
桃太郎の前に立つ影が呻き声を上げる。地面にぼたぼたと血が垂れるのを見たが、誰も動くことはなかった。
荒い息の中、影は優しく呟いた。
「もう、いい……もう、いいんだ……、稔」
鬼酒千雪はおびただしい量の血を口から吐き出し、崩れた。
「千雪ッ!」
そのとき千哉の絶叫が響く。地面に倒れる千雪に千哉は足をもつれさせ、駆けつけた。
「千雪! しっかりしろ!」
千哉は必死に彼の名を呼ぶ。彼の傷は身体を縦に掘削するように大きく斬り裂かれており、内臓にも傷があった。
千哉はこの傷を負わせた彼に振り返った。
「稔、貴様!」
飛びかかろうとしたとき、手首を強く握られた。千哉は顔を歪めたまま振り返る。掴んだのは千雪だ。
千雪は弱々しく口にした。
「千哉殿、どうか稔を責めないでほしいです」
「な、何を言っている?」
「……稔は、悪くありません」
彼の言葉に千哉は瞠目するが、千雪はゆるゆると首を振った。
「稔は鬼酒のために動いたのみ、己の正義を貫いただけです……」
その合間にも血はどくどくと溢れた。傷口は塞がらない。鬼の治癒力が追いついていないのだ。千哉は焦った。
「千雪もういい、喋るな。これ以上は」
「稔の言うように、私は臆病者です。考えても答えは出なかった……全部、稔に押しつけてしまった……」
「千雪!」
千哉は堪らず叫んだ。
「お前は鬼酒千早を救うのだろう!? こんなところで倒れてどうする! 鬼酒は何も変わってないっ、救えていないぞ!!」
「私がいなくても、鬼酒は救えますよ。……それに私は頭領として失格ですし、ね」
千雪は振り返り、微笑を浮かべた。
「――稔」
そして、実弟を呼んで荒い息の中、告げた。
「鬼酒を、千早を……頼んだぞ」
「……ッ」
稔は藍色の瞳を見開き、硬直していた。それでも千雪は満足したように微笑んだ。
「……千哉殿」
呼びかけに千哉は呆然として振り返る。千雪の瞳に力はない。手元で彼の体は冷たくなっていく。
「私は、貴殿に出会えてよかった。この世にはまだ、同族が存在していることがわかった。こんなにも、胸が熱くなったのは初めてでした」
「千雪……」
「鬼酒の命運を、見届けていただけますか」
「まだ、行くな……!」
千哉は懇願した。
「いいえ、私は……」
千雪は虚ろな瞳で夜空を見上げる。そして儚げに微笑んだ。
「鬼の世に、幸があらんことを」
静かに目を閉じた。
千雪は最後まで、穏やかな表情をしていた。
一陣の風が吹く。
冷たくなった千雪の体に水滴が落ちた。
千哉は声を殺して泣いていた。
* * *
「はぁ……はぁ……はぁっ」
稔は草木をかき分け、道とも呼べない道を行く。その足取りは覚束ない。歩くたびに、両手に付着した血液が地面に落ちる。これは己のものではない。今さっき、この手で討った実兄のものだ。
「あ……っ」
足に木の根を引っかけた。稔は頭から無様に転んだ。
「はぁ……はぁ……っ」
心臓は痛いほど早鐘を打ち、喉がつかえて息が苦しかった。稔は着物を鷲掴み、呼吸を落ち着かせた。
やがてゆっくりと起き上がり、側にあった木に背中を預けた。しかしすぐに、ずるずると座り込み、泥で汚れた顔を、血に塗れた両手で覆った。
「……兄さんが、死んだ」
事実を呟いた。
稔の攻撃から人間を庇って死んだのだ。なぜ兄がそんな行動に出たかわからない。人間を憎む思いは変わらないはずなのに。
兄の行動は理解不能だった。
だからか、兄が崩れる光景を思い出すと口元が緩んだ。
「ハ、ハハハ……、ハハハッ」
笑いがこみ上げた。家族が死んだ。胸が痛い。苦しいのに、悲しいはずなのに……。
それでも笑いは止まらなかった。
「兄さん……。ハハッ」
稔は狂ったように笑い続ける。
鬼酒千雪はこの世にいない。もう、あのころには戻れない。昔のように三人で笑いあうことはない。
ならば、稔のすべきことはただ一つだ。
「兄さんの思いは、無駄には使わない。……徹底的に潰してやる」
ずるりと手が頬を撫でる。
泥と血で混じった稔の表情は、憎悪に歪む。
覚悟はとうの昔に決まっているのだ。