三、桃太郎、港町を歩く。
一色家領地は小さいながらも、海と山に囲まれた土地である。南へ行くと海が広がり、他方へ行けば山がある。自然の防壁に囲まれた土地ゆえ、敵も容易には攻め入れられない。一色家が長らく戦をしていない理由の一つである。
だからこそ、海賊騒動は一色家にとって不安の種であった。
太陽が輝き、青い空にはカモメが飛んでいる。
港町特有の魚と潮の匂いが鼻についた。大なり小なりの船が行き交い、この港町は一色領の玄関口でもある。
「わあっ」
千鶴が歓喜の声を上げる。
「あ、千鶴殿。待ってください」
後ろで忠治が制止するが、彼女には聞こえていない。桟橋のたもとまで行き、目を輝かせた。
「すごいですっ」
彼女の向こう側は海が広がっている。
青く、広大な海。その青色はどこまでも続いていた。
「すごく大きいです」
幼子のように喜ぶ千鶴は、桃太郎を振り返った。
「ありがとうございます!」
「どういたしまして」
彼はニッと口を吊り上げる。そして千哉をジトッと見つめた。
「しかし。海を見たことないって、おまえらどこまで引き籠ってんだよ」
「うるさい、俺は見たことはある。……千鶴は外の世界を知らないからな」
千哉が反論すると、桃太郎はいやらしく笑みをつくった。
「おまえ、千鶴のこと囲ってんな?」
「な、なにを言うかっ」
狼狽える彼を見て、桃太郎はニヤニヤしながら千鶴を眺める。
千哉がその視線に割り込み、言った。
「俺は鬼の一族として、村からは出るなと言っただけだ。それが鬼の在り方だ」
桃太郎はそれを聞いて無表情になったが、すぐにへらりと笑う。
「まあ、過保護過ぎて『お兄様なんて大っ嫌い!』なんて言われないようにな」
「そのときは腹を切るか」
「……え」
冗談で言ったつもりだったが、千哉は本気で受け取ったらしい。素に引いた。千鶴に言われるのを想像してか、千哉は頭を抱える。
それをほっとおいて、桃太郎がついっと視線を移すと。
「千鶴殿っ。あまり遠くへ行かれてはっ!」
「あ、ごめんなさい」
忠治と千鶴が追いかけっこをしていた。
ぜはぜはと忠治が荒い息を吐いて、千鶴を注意している。それでも千鶴はきょろきょろと物珍しそうに、港町を眺めていた。
桃太郎は思わずため息が漏れた。
「忠治。千鶴のことちゃんと見張っとけよ」
「え……、私がですか」
忠治は嫌そうな顔をする。
無理もない。この前も城下に目移りする千鶴を見張っていたのだ。歩き回る彼女を忠治は懸命に追いかけ回していた。
疲れた顔をする忠治だが、当の本人は忠治の隣できょとんとしていた。
桃太郎はぽりぽりと頬を掻く。すると五右衛門が提案した。
「千哉さんにでも見張らせとけばいいんじゃないんですか? 千鶴ちゃんのこと一番見てるし」
「千哉はダメだ。本気で監視しかねない」
「私がやりましょうか?」
美羽も口を入れた。
しかし桃太郎はふむ、と顎に手をやった。彼の様子を見て、やっと話題が自分のことに気づいた千鶴は不服そうだった。
「わ、わたしは大丈夫です」
桃太郎を見上げてそう言う。
「いや。迷子にでもなったら、千哉が発狂する」
「発狂って……言いすぎじゃないですか」
千鶴は呆れたように返答した。桃太郎は彼女の物言いにくすりと笑った。
「だけどオレは千鶴が心配だから」
「え?」
そう告げると、千鶴が顔を上げる。視線の端で美羽と千哉がこちらを見たが、気にしなかった。桃太郎は綺麗な顔を綻ばした。ゆっくりと千鶴に歩み寄り、そして手を差し出した。
「手、繋ごう」
「はぁっ!?」
千鶴が大きな瞳を丸くし、どうしてか背後で美羽の絶叫が聞こえた。千哉は見えないからわからない。しかし驚愕しているのだけは想像できる。
「これならはぐれないし、それにオレの側なら危なくないだろ?」
桃太郎は爽やかな笑みを浮かべて、千鶴に言い募る。
「て、て……手、ですか……」
千鶴は戸惑いながら、桃太郎の掌を見つめる。しかしその表情はどこか嬉しそうだった。桃太郎はにこりと微笑んだ。
「わかりました……。よろしくお願いします」
「応。任せとけ」
若干頬を赤らめて言う千鶴はとても可愛かった。
「あの人は……!」
忠治の隣で美羽がぐっと拳を握りしめ、我ら主を睨みつけていた。忠治はため息をひとつ。
「落ち着け、美羽」
「わっ、私は落ち着いてる! そんなことより若様だ!」
どこが落ち着ているのだろうか。誰が見ても忠治の言葉に、明らかに動揺を示している。忠治は再度ため息を吐き、千哉を振り返った。
「こっちもか……」
忠治はげんなりする。千哉は絶望に満ちた表情で、まるで魂が抜けたような様子だった。
そんな中、五右衛門が忠治に耳打ちする。
「どうすんだよ、これ」
「どうする気にもなれんが……」
「何してんだよ、おまえら。さっさと行くぞ」
そのとき桃太郎が千鶴の手を引いてやってきた。忠治は気色ばんだ。今、彼の登場は非常に不味い。昼間から流血沙汰は勘弁してほしい。
「どうした忠治? この世の終わりみたいな顔して」
「モモ様。美羽が話があるようで」
「な、何を言ってるの!?」
五右衛門がくちばしを入れた。火に油を注ぐとはこういうときに使うのだろうか。いや、少し違うだろうか?
忠治はそんなことを考えていた。五右衛門が口を開いたとき、忠治はこの状況を治めるのが面倒になったのだ。
「なんだ美羽?」
「い、いやその……私は……」
美羽は目を泳がせて、桃太郎を見つめる。桃太郎は彼女の視線を受け止め、きょとんと首を傾げていた。そして、五右衛門はさらに煽ぐ。美羽の耳元でささやいた。
「ほら。美羽もモモ様と手繋ぎた――ッ!」
「黙れ下衆がッ!!」
その言葉は最後まで続かなかった。
五右衛門の頭に鉄拳が降り注いだのだった。
地面に埋まる五右衛門を見て、忠治は三度ため息を吐いた。
* * *
海を見た後、町の様子を窺うために練り歩いた。そのあとに、この港町を治める浦島家の城へ向かう手筈である。
町はそれなりに活気が溢れている。別段、海賊騒動を気にしていない様子だった。海賊と言っても、海のこと。陸ではそれほど重要視されていないのだろうか。
千鶴は、桃太郎の隣で彼の顔を覗き込む。並んで歩いているが手は繋いでいない。さっきの件でうやむやにやってしまった。
千鶴は少し残念な気もするが、今の状況では仕方なかった。
「どうかしたか?」
すると桃太郎がこちらの視線に気づいて、小首を傾げる。それだけの仕草なのに、人を引き付ける魅力がある。
「い、いえっ。なんでもありません!」
千鶴は慌てて目を逸らした。緊張しているのだろうか、頬が熱い。そんなこちらを不思議に思っているのか、桃太郎は首を傾げて、背後を振り返った。
そこには忠治と五右衛門が横に並んで歩いている。その後ろに美羽と千哉がいた。彼女はふてくされたようにそっぽを向いている。さきほどの行動が恥ずかしかったようだ。そして後者は呪詛をまき散らすようにこちらを睨んでいた。
それに桃太郎がヒクッと頬を引きつらせる。千鶴も眉をひそめて、兄を見やった。
「怖いな~、千哉は」
桃太郎は目を前へ戻して、肩をすくめた。
確かに、兄は怖い。近頃そう思うようになった。桃太郎と出会って千哉も変わったのか、それにしても彼は桃太郎にきつく当たる。昔はそんなことはなかったはずだが。千鶴の中では優しい兄のままである。
千鶴がそんなことを考えていると、桃太郎がこちらを振り返った。
「千鶴。ちょっと我慢な? 浦島に挨拶したら後は自由にしていいからさ」
「あ、はいっ」
しかし、今はどうでもいい。
桃太郎の笑顔を見られて、千鶴は幸せだった。
千鶴が満面の笑みを浮かべたそのとき、桃太郎に向かって何かがぶつかった。
「はおっ!?」
横合いから飛んできた何かは、桃太郎を突き飛ばした。彼は素っ頓狂な声を上げ、地面に倒れた。
「桃太郎様っ!」
「若! 大丈夫ですか!?」
「いてて……」
千鶴と忠治が慌てて駆け寄った。桃太郎は首を上げて、己に覆いかぶさっているものを見つめた。
「な、なんだ?」
桃太郎の胸の中には少女がいた。彼女も呻き声を上げて、顔をこちらへと向ける。ぶつかったせいか、鼻の先が赤く涙目になっていた。
「…………」
「…………」
桃太郎と少女は目を合わせる。
しばしの硬直。
やがて、少女は大きく目を見張って桃太郎の顔を殴った。
「きゃあぁぁっ、変態!!」
「ぐべっ!」
再度固い地面に頭を打ちつける桃太郎。
「美羽、取り押さえろっ」
「え、うんっ」
忠治の声が頭上から聞こえ、暴れる少女を美羽が捕まえた。
「ご無事ですかっ」
「あ、ああ、大丈夫だよ」
地べたに座り込んで桃太郎は、美羽と暴れる少女を見上げる。
「離しなさいよっ、私を誰だと思ってんの?」
「ちょっ、落ち着きなさいっ!」
「……なんだこれは」
隣で千哉が呆れたように呟く。桃太郎は五右衛門の手を借りて立ち上がり、少女を見つめた。そして後頭部を撫でながら言う。
「先に言っとくけど、ぶつかってきたのはあんただからな?」
「なっ!」
羽交い絞めにされる少女は、頬を赤く染める。すると顔をしかめた五右衛門が間に入った。
「だから、おまえが謝れってことだ。誰にぶつかったのかわかってんのか?」
主に向かっての蛮行が許せないらしく、珍しく五右衛門は怒っていた。しかし、少女はフンと鼻を鳴らす。
「悪かったわ、私も急いでたから」
「てめぇ……」
「サル、もういい」
怒りに震える五右衛門を桃太郎は止めに入る。不服そうだったが、五右衛門はすぐに引き下がった。
「もういいでしょ? 離しなさいよ」
すると少女は美羽の腕を揺さぶった。美羽がこちらを見つめる。桃太郎は頷いた。もう逃げはしないだろう。美羽が拘束を解くと、少女はうっとうしそうにこちらを眺める。
桃太郎は爽やかな笑顔を見せた。
「オレはもう怒ってない。その様子じゃあ、厄介事に巻き込まれたのかな?」
少女は目を見開き、固まった。どうやら図星のようだ。桃太郎はふむ、と頷いて、彼女を見やった。
口調からして町娘ではない。艶やかな黒髪。ややつり目で気の強そうな瞳。顔立ちも整っており、高級そうな衣服に簪。どこかの武家の娘だろうか。まあともかく、その少女は可愛らしかった。
桃太郎は口の端を上げた。
「女を助けるのは、男として当然だな」
「は?」
「オレが、君を助けてあげるよ」
「……はっ?」
少女は思いっきり顔をしかめた。そのとき、桃太郎たちに怒号が飛んできた。
「いたぞ! おいお前ら! その小娘を渡せ!」
「……次から次へと、人間は奇怪だな」
そんなことを言う千哉に桃太郎も思わず笑う。見やると、牢人風情の男が十人。彼らは、こめかみに青筋を立ててこちらを睨みつけた。
「追いつかれた……」
少女が怯えた様子で呟く。本当に厄介事に巻き込まれているようだ。桃太郎は彼女を横目に、牢人どもに言った。
「おいおい、女の子一人に大所帯だな」
「うるせぇ! 関係ない奴は引っ込んでろッ!」
怒鳴り散らす牢人は、腰の刀を抜いた。すかさず忠治が桃太郎を庇うように前へ出た。五右衛門も美羽も己の得物に手を掛ける。
少女が懇願するように桃太郎を見上げた。
「……た、助けてくれるんでしょ?」
「どうする?」
桃太郎は忠治に訊いた。彼は呆れたように肩をすくめる。
「若がその者を助けるとおっしゃるなら、私はそれに従うまでです」
「それじゃあ、助けよう」
「承知しました」
忠治は五右衛門と美羽に目くばせした。
「どのみち、モモ様に害をなす奴らは、倒しますよ」
「そうね」
二人にそれに頷き、牢人どもを睨みつける。それを合図に三人は牢人に向けて突貫した。
あっという間に、十人いた牢人は全員地面に転がっていた。
「軽いもんですね」
五右衛門がパンパンと手を払う。
「お前が倒したのは二人だけどな」
忠治が言う。
「ケンカ売ってんのか? おい」
「別に」
「はいはい。ケンカしない」
美羽が止めに入った。それはいつもの光景で、地面に倒れる牢人など目にもくれていない。
「ほう。中々やるな」
千哉が感嘆の声を上げた。桃太郎は振り返り、誇らしげに笑う。
「当たり前だ。オレの従者なんだからな」
「ほ、本当に倒しちゃった……」
地べたにへたり込み驚く少女。桃太郎はそちらにも目をやった。視線に気づいた彼女は戸惑ったように口を開く。
「あ、あなたたち、見かけによらず強いのね」
「そりゃあどうも」
「……あなたに言ってないんだけど」
「従者の誉は主の誉でもあるんだよ」
「なにその理屈」
少女はうんしょ、と言って立ち上がり、忠治たちに礼を言った。
「ありがとう、助かったわ」
「礼なら若に言ってもらいたい。私たちは若の命に従ったまでですから」
「……こっちは見かけと同じで堅苦しいわね」
「なに?」
その呟きに忠治が面食らう。美羽がくすっと笑い、五右衛門が少女に噛みつく。
「そうだぞ、モモ様に感謝しろよな」
「というか。そんなに偉いの? この人」
少女の言葉に桃太郎は大きな声で笑った。
「笑い声じゃないですよ!」
珍しく五右衛門が抗議の声を上げる。五右衛門は驚愕に顔を歪め、少女に問いただす。
「あ、あんた、このお方を本当にご存知ないのか?」
「……?」
少女は首を傾げるのみ。五右衛門は堪らず吐き捨てた。
「この田舎者が……!」
「誰が田舎者よ!」
少女が金切り声で叫んだ。びっくりするこちらに、彼女は柳眉を逆立てる。少女は胸に手を当てて、そして名乗った。
「私は浦島清海の娘、浦島瑠璃よ!」
「…………え?」
桃太郎は大きく目を見開いた。