十、千哉、決断する。
目が覚めるとそこは見知らぬ場所だった。六畳ほどの部屋。右手には縁側があり、小さな庭があった。
千哉は布団に寝かされていた。体を少し動かしただけで全身に痛みが走った。
「あ、お気づきになりましたか?」
声に目を向けると部屋の左手、ふすまの隣に女がいた。
「ここは……?」
千哉は痛みに耐えつつ、首を向ける。女は微笑んだ。
「覚えていらっしゃらないのですね。ここは鬼酒の館です」
「鬼酒……」
「今、千雪様をお呼びいたします」
女はすっと座礼をし、部屋を出て行った。
それを見届けて、千哉はもう一度呟いた。
「鬼酒、か……」
千哉はこれまでのすべてを思い出した。
茨城稔という男鬼に出会い、東の鬼の一族、鬼酒を訪ねた。そこで千哉は皆元隆光四天王の二人と戦い、一人に敗北した。
思い出すと、脇腹に痛みが走った。千哉は顔をしかめつつ上体を起こし、己の体を眺める。晒しは主に右肩と腹に巻かれていた。
千哉は掌を見つめた。
「……負けたのか、俺は」
確か名は渡邊と言ったか。
『鬼』の目でも追えなかった斬撃。あの奇妙な刀は居合いに適しているのだろうか。いや、得物自体それほど重視するものではない。結果として、あの男は相当の実力者なのだ。鎖鎌の碓氷貞道や鉞の坂上金吾と比べ物にならないぐらい。
千哉は敗北を知らない。すると理解できない感情がふつふつと湧き上がってくる。
これが悔しいという感情なのだろう。
――人間はこんな気持ちも抱えているのか。
「千哉殿」
思考が遮断される。
千雪が現れた。彼は鬼酒一族頭領代理だ。千雪はしおらしい様子で、こそこそと部屋へ入ってきた。
「怪我の様子は?」
千雪は布団の側に腰を下ろし、そう尋ねる。千哉は手を閉じたり開いたりした。
「大事ない。お前たちのおかげだ、礼を言う」
「それは何よりです。今回は本当に肝を冷やしました。貴殿が強くてよかった」
「当然だ、俺はこんなところで死ぬわけにはいかない」
千哉はぐっと拳を握った。
「俺にはまだ、守るべきものがある」
その呟きに千雪の表情が曇る。しかし千哉はそれに気づかずに訊いた。
「千雪。俺はどれくらい寝ていた?」
「四日ですよ」
「四日、か……」
柔和な表情を浮かべる千雪に、千哉は唸った。千哉にとってそれは、すごく長く感じたのだ。千哉は続けて尋ねる。
「稔はどうした?」
「弟は城下へ出張らっています。若い男たちは皆ですよ」
笑顔で答える千雪に返す言葉がなかった。
すると彼の表情が変わった。もとより穏やかな顔をさらに穏やかにする。それに千哉は悪寒を覚えた。
「千哉殿。さきほど貴殿がおっしゃった、『守るべきもの』の中には人が入っているのですか?」
千雪の、人形のような笑顔に感情はなかった。
千哉は一瞬戸惑ったが、深く頷いた。
「……ああ。俺はあいつに約束したからな。最後まで付き合うと」
すると千雪は小さく息を吐いた。
「……千哉殿は縁に恵まれていますね」
「千雪」
「縁とは不思議なものです。我々にはそれがなかったのでしょうか」
彼は疲れたように口にする。彼の細い身がますます痩せたように感じた。千哉はいたたまれなくなり、口を開く。
「千雪、お前も稔のようなことを考えているのか?」
「それは愚問ですよ、千哉殿」
再び、千雪は冷え切った表情を浮かべ、堰を切ったかのように話し出す。
「鬼酒はすべてを奪われました。私はずっと悔いています。あのとき彼女を行かせるべきではなかった。……彼女は何も悪くない。それなのに自ら人質となって……ぜんぶ一族のためだと言って」
「……」
「稔は鬼酒を思っての行動です。正直私はそこまでする気はないのですが。ただ……」
千雪は言葉を切り、千哉を鋭い目で見つめた。
「それを否定するつもりはありません。皆元は我らの敵。私はこの手で、彼女を取り返えしてみせます」
稔が燃え盛る炎だとすると、千雪は凍てつく氷だ。
鬼酒の鬼たちは、千哉が知らないたくさんの感情を知っているのだろう。
自責、後悔、憎悪……。千哉の抱いたことのない感情ばかりだった。
「……そうか」
それだけ呟いて、千哉は拳をつくった。
千雪は続ける。
「私は貴殿に協力を求めません。これは鬼酒の戦い。他家の一族を巻き込むわけにはいけませんから」
いつの間にか千雪の表情には凛々しさしか残っていなかった。
「貴殿は早く故郷へ戻り、貴殿の守るべきものを守っていただきたい」
「千雪」
そのとき鳥の声が聞こえた。ピー、と高い鳴き声。それは千哉が良く知る声だ。気づいたときには千哉の体は動いていた。
「千哉殿っ、傷が……!」
後ろで千雪の制する声が聞こえたが、無視した。千哉は縁側を飛び出して庭へ出た。
千哉は空を見上げた。
時は夕暮れ。
太陽は西に傾き、空は橙色をしていた。その空に黒い影がある。それはゆっくりとこちらへ飛来した。
「乱丸!」
その鳥は乱丸だった。
思わず声が漏れ、驚きを隠せなかった。
乱丸は主に会えて嬉しいのか、甘えたような声を上げる。
「お前、どうしてここに?」
千哉は乱丸を腕に止まらすと訊いた。しかし乱丸は答えず、きょろきょろと首を回す。そしてふと気づいた。
「これは……?」
見ると乱丸の脚に文が括りつけてある。千哉は心の中で謝罪し、その文を開いた。
それには、桃太郎が国を超えて千哉を捜索する旨が書いてある。恐らく、乱丸が これを仲間に渡すところ、偶然にもここを通りかかったのだ。なんという幸運だろう。
隣にいた千雪が言った。
「もしかして一族からですか?」
「あ、あぁ」
「千哉殿。これに言伝すれば一族が助けに来ますよ」
「……そうだな」
千哉は少し詰まって答えた。
彼の言っていることはもっともだ。
しかし千哉は考えた。
「どうかされましたか?」
思案顔のこちらを不思議に思ったのか、千雪は首を捻る。
千哉はしばらくして、文を元に戻した。それに仰天する千雪を無視して、千哉は乱丸の頭を撫でる。
「乱丸。ここで俺を見たことは誰にも言わないでくれ」
乱丸が首を傾げて悲しそうに鳴いた。
「わかっている。だが、俺にはやるべきことがあるのだ」
そう言って千哉は千雪を振り返った。
「俺は鬼酒に協力はしない」
「は、はい?」
突然の言葉に彼は目を見張った。しかし千哉は片手を胸に当てた。
「だが、今の鬼酒を見て見ぬ振りはできない。俺は同族として、鬼柳の頭領として、鬼酒を見届け、そして見定める」
「……」
「それが、今の俺にできることだと思っている」
千哉はそう宣言した。そして乱丸を見つめた。
「すまんな。乱丸……」
千哉は腕を空へ上げ、乱丸を空へ飛ばした。乱丸は真っ直ぐと西の空へ向かった。
「……すまない」
それは、皆元領に入って何度目の謝罪だろう。
千哉は暗くなる空を見つめた。
――桃太郎。俺は……
それは声にならなかった。




