七、千哉、同族を訪ねる。
「……遅いな、千哉」
雨の降る庭を眺めながら桃太郎は呟いた。
今日は昼頃から雨が降ってきた。それは日が暮れても止まず、縁側を濡らしている。
桃太郎は、杯を片手に自室から庭を眺めていた。その瞳は寂しげに輝いている。
「失礼します、若」
すると忠治が部屋へ入ってきた。桃太郎は振り返り訊ねる。
「千哉は見つかったか?」
「申し訳ございません、何の情報も得られず」
「……そうか」
桃太郎は軽く息を吐き、杯を呷った。かなり酒を飲んでいるが一向に酔わない。転がった瓶子が一つ。今は二つ目だ。それを見た忠治が顔をしかめる。
「若、あまり飲まれては体に障ります。ご自重願います」
「忠治も飲むか?」
「え、私は……」
目を逸らす彼に桃太郎は笑った。
「酒弱いもんな、おまえ」
忠治は酒が入るとすぐにぶっ倒れる。
「すみません……五右衛門を呼んで来ましょうか」
「いや、今日は一人で飲むさ」
うなだれる彼を見て桃太郎は笑う。しかしその笑みはすぐに消え、桃太郎は乱暴に杯を揺らした。
「約束放り出してどこ行ったんだよ、あいつ……」
今日は鬼柳の今後について話すつもりだった。しかし話を聞く前に、彼は何処へと消えた。突然、深刻そうな顔をしていなくなったのだ。何も言わずに。
それから千哉の姿を見ていない。待ち合わせの茶屋でずっと待っていたが、一向に帰って来なかった。当然一緒にいた秋那は一番取り乱した。彼女を落ち着かせてから、桃太郎たちは城下を探した。だが千哉は見つからない。彼がいなくなったことは、既に鬼柳の鬼全員に伝わっている。今も国中探し回っているだろう。
桃太郎は忠治へ目を戻した。
「千鶴はどうしてる?」
「彼女は美羽と共に。今日は泊まっていくと聞かないらしくて……」
「いいんじゃねーか、泊まらせてやれ」
「はい」
忠治が硬い表情のまま頷いた。そんな顔つきを見て、桃太郎は首を傾げる。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません」
忠治は慌てて首を振って部屋を出て行った。
桃太郎はしばしふすまを眺めていたが、不意に杯を見つめる。注がれた酒に映る己はなんとも情けない顔をしていた。
「はぁ……」
ごつりと障子窓の縁に頭をぶつけて、桃太郎は呟いた。
「やっぱり、一人で飲むのは寂しいな……」
不安は拭えなかった。
* * *
千哉は闇に紛れて、国を越えた。
町を見渡せる高台で千哉は風に吹かれている。眼下にはしんと静まり返る町があった。
「皆元、か……」
千哉は皆元領内へ侵入した。
皆元はこれから桃太郎たちが戦をしようとしている相手だ。千哉にとっても敵国になるだろう国である。加えて千哉の独断だ。里の鬼にも、もちろん桃太郎たちにも言伝はしないない。
桃太郎はさぞや怒っているだろう。彼は優しいから。
それを想像すると思わず笑みが零れた。
「桃太郎、心配をかける……」
千哉は弁解をするように呟く。勝手に行動することへの罪悪感はあった。
「だが、俺にはやるべきことがあるのだ」
この目で確かめなくてはならない。同族の存在と現状を。
「……すまない」
脳裏に浮かぶのは愛しい者の姿。
「千鶴、俺は愚かな兄だ」
彼女も心配しているだろうか。そうだと非常に嬉しい。
千哉はぐっと顔を上げ、地を蹴った。
皆元領へ踏み込んだのだった。
***
東の空が明るくなる頃には、千哉は皆元領の中心までやってきた。さすがに城下町を堂々と歩くわけにはいかない。一ヵ月前の海賊騒動が原因で、恐らく千哉の顔は皆元の幹部に割れているだろう。名前は覚えてないが、とにかく目立つ行動は控えるべきだ。
千哉は路地裏で一度休憩を入れた。
突然飛び出してきたものだから旅支度はしていない。途中川で汲んだ水を飲み、喉の渇きを潤して大通りを眺めた。
「……」
別段変わった様子はない。
皆元の城下も一色のそれと同じように活気に満ちている。規模はケタ違いだ。こちらのほうが賑やかで騒がしかった。
皆元の領民も主君を信頼している様子で、皆元は暴君ではないようだ。
だが、それは表向きかもしれない。
昨日出会った、鬼――茨城稔は領主の皆元隆光に憎悪を滾らせていた。彼が鬼だということもあるだろうが、不満を持つ者は必ずやいるだろう。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
千哉はこれからどうするか迷った。正直言って鬼酒の里がどこにあるかわからない。皆元領は広い。人間が踏み込んでいない未開の地も多くあるだろう。それをしらみつぶしに探していては時間を食ってしまう。
運良く鬼と思わしき人物に会えればと思い、城下まで来たがそう簡単にはいかないようだった。
「まさか。こんなに早く来ていただけるとは思ってもいませんでした」
声に千哉は驚く。声は頭上からだ。仰ぎ見ると、屋根の上に人がいた。いや、人ではない。
「……稔か?」
「はい。昨日ぶりですね、千哉さん」
茨城稔はひょいっと屋根から飛び降り、着地する。彼は昨日と同じような格好で、にこにこと笑顔をしている。そんな彼に千哉は身構えてしまった。
「そんな恐い顔しないでくださいよ。……昨日は失礼しました。感情が高ぶってしまい、ついあのようなことを……」
稔は己の言動に悔いているのか、地面を向いて口にする。
「ですが、あなたが来てくれたことはすごく感謝しています」
しかしすぐに顔を上げて笑顔を振りまく。
千哉は平静を保って口に開いた。
「……俺も同族は気になる。お前と出会えたのは奇跡に近いのだからな。一族以外の鬼とも会ってみたい」
「そうですか。……ではご案内しますね」
稔はゆっくりとお辞儀した。
鬼酒の里は皆元領の外れにあった。城下からおよそ六里、北東へ上ったところか。千哉は稔に導かれ、鬱蒼とした森の中を歩く。
「元々ここは皆元の領土ではありませんでした」
稔が口を開いた。
「その頃は人間にも見つからず、我ら鬼酒は鬼の掟に従い、ひっそりと暮らしていました」
――皆元が攻めて来るまでは。
最後に付け加えられた言葉は、ひどく冷めていた。
それ以降、稔は口を開かなかった。千哉も黙ったまま彼の後を追う。
二人は黙々と森を歩き、開けた空間へ出た。
日差しが目に当たり、千哉は目を細める。
「千哉さん。ここが鬼酒です」
口の端を上げて笑う稔は、前方を指した。
そこには田畑が広がり、民家が立ち並ぶ。閑散とした空気は鬼柳の里と変わりない。決定的に異なるのは規模で、鬼柳よりも鬼酒は大きかった。
「ここが……鬼酒の里」
千哉は言葉にできないほどの感激を受けた。
ここにはたくさんの『鬼』が、鬼柳一族以外の同族がいる。
千哉は目頭が熱くなった。
「千哉さん、行きましょうか」
「あぁ」
千哉の声は震えていた。
「……あの屋敷は誰の者だ?」
千哉は目を拭い、一つの館を指差した。それは遠目でもわかるように、里で一番に大きいものだ。千哉には予想がついていたが、訊ねてみた。
「あれは鬼酒様の屋敷です」
「やはり。鬼酒の頭領と挨拶がしたい。稔、面通しできるか?」
「できません」
稔は即答し、表情を歪めさせた。千哉は嫌な胸騒ぎがした。
「何かあったのか?」
「ええ、いろいろと……」
稔の表情が険しく、悲しみを帯びていった。
「稔!」
そのとき誰かが彼を呼んだ。振り向けば、三十歳前後の男が駆けてくる。温厚な表情をしているが、少し頼りない印象を与えた。
その男に稔が口を開く。
「……兄さん」
「兄上か?」
千哉はこちらに寄る男を観察する。視線に気づいた彼は会釈を返した。男の表情は少々、強張っていた。それから稔に尋ねる。
「この方は?」
「鬼柳千哉さん。『鬼』だよ」
「お、鬼……?」
素っ気なく答える稔に、稔の兄は目を見張った。当然だ。外から来た鬼など彼も見たことないだろう。
「俺は一色に住む鬼。鬼柳一族の頭領だ」
「真にございますか」
「証拠を見せようか?」
答えると、稔の兄はまじまじとこちらを見つめてやがて首を振った。
「いや。……貴殿は鬼なのですね」
嬉しさと安堵が混じった声音だった。
千哉は名乗った。
「鬼柳千哉だ」
「私は、鬼酒千雪と申します」
「鬼酒?」
引っかかった。さきほど稔は彼――千雪を兄と呼んだ。しかし名字が異なる。思案顔の千哉に気づいた千雪は柔和な笑みを浮かべた。
「ああ、私は鬼酒様へ婿入りいたしまして」
「なるほど……」
千哉は納得し、そして閃いた。
「ならばあなたが鬼酒の頭領でよろしいか?」
「……っ」
そう尋ねると千雪は硬直し、真っ青な顔をして立ち尽くした。稔と同じような反応に、千哉は顎に手を当てて考えた。
「と、とにかく、立ち話もなんです……屋敷へご案内します」
千雪が震えた声でへこへこと頭を下げた。そのとき稔が口を開く。
「千哉さん、もう予想はついてるでしょう?」
振り返ると、彼以外にも鬼がたくさんいた。屈強な若い男鬼がざっと三十人。彼らは皆、武装していた。張りつめた空気だったが、千哉は感動してしまった。鬼はまだ存在していると。
「皆……」
千雪はおどおどと頼りなく目を泳がせる。
鬼酒の鬼たちは、千哉をじろじろと睨むように見つめた。一同は同じ表情をしている。主に憎悪の感情が顕れていた。
「鬼酒は終わっていますよ、とっくの昔にね」
稔が吐き捨てるように呟く。その表情は昨日と同じ、憎しみや恨みといった負の感情が混じり合った表情だ。
「現鬼酒一族の頭領はここにはいません」
「どういうことだ、千雪が頭領ではないのか?」
「兄さんはただの婚約者です、祝言もあげていません」
「……婚約者」
おうむ返しに呟くと、稔は自虐的に笑う。
「我ら鬼酒の頭領、鬼酒千早は皆元の人質となり、城で軟禁されています」
「なんだと!?」
千哉は雷でも打たれたかような衝撃を受ける。稔はこちらの様子など気にせず続けた。
「言ったはずです。鬼酒は皆元の傀儡……我々は虐げられていると」
奥歯を噛みしめる稔。
「……ぼくは嬉しかったです」
稔は言う。
「あなたに会えて、鬼はまだこの世にいることがわかった。我々だけではないことを知った。だけどあなたも、人間に仕える愚者だ」
「それは違う。俺とあいつはただの友人だ」
「人間と付き合って頭がおかしくなりましたか? 人間と我ら鬼は決して相容れない。人間と関わりなく平穏に生きたいだけだ。なのに人間どもはそれを踏みにじり、嘲笑う!」
「稔……」
「それぐらいのこと、あなたにもわかるでしょう」
彼の苦痛の叫びに千哉は唇を噛む。
これでは昨日と同じだ。
千哉は他家の鬼の存在を知りたくてここまで来た。そして鬼酒の現状を知りたかった。しかしそれは確認するまでもなく最悪だった。
「千哉さん、提案があるんですよ。聞いていただけますか?」
稔は凍り切った笑みを浮かべる。どちらにしろ千哉に選択肢はない。彼は鬼酒の鬼たちに囲まれていた。千哉は目だけで続きを促した。
「手を組みませんか」
「なに?」
稔は己の両手を合わせる。
「我らで皆元を討ち、『鬼』の国を創るのです!」
「なっ!」
「鬼だけの国ですよ? 人間が決して干渉できない、無敵の国を創りましょう!」
「馬鹿を言うなっ!」
千哉は間髪容れずに叫んだ。
「そんなことをしては人間と同じだ! 己の欲のために戦うなどあってはならない! 稔、お前たちは人間と同格でいいのか!」
稔は一瞬無表情になったが、口を三日月に吊り上げた。
「自由のためならなんだってやりますよ。……戦は既に始まっています。千早様を略奪されたときから」
「そうだ、俺たちは戦うぞ!」
「「オオオ――ッ!!」」
鬼の一人が宣言すると、他の連中も声を上げる。
千哉は彼らの空気に戦慄した。
――無謀だ!
相手は東国を治める大国。強大な力があるから国を治めているのだ。ほとんどの大名は敵わないと理解しているから追従するのだろう。
数千、いや数万の大軍を相手に勝てるはずがないのだ。
「千雪!」
千哉は彼を呼んだ。空気に飲まれていた千雪はビクッと肩を震わせる。
「今はお前が頭領だろ! なぜ止めない!?」
必死の形相でそう怒鳴るが、千雪には届かなかった。
「千哉殿。確かに貴殿の言う通り、馬鹿な計画なのかもしれない」
彼は穏やかな表情で笑った。
「だが、私たちの気持ちは変わらない。皆はもう我慢できないのです」
なぜ笑っていられるのだ?
疑問に思ったが口に出ない。あまりにも千雪が冷静だったからだ。
「……愚かだ!」
千哉が口にできたのはそれだけだった。
「千雪さん!」
そのとき、男鬼が一人転がりこんできた。
「どうした?」
千雪が尋ねると鬼は焦ったように里の入り口を指差す。
「人間がいるっ、渡邊っていういつもの奴だ!」
「そうか、私が挨拶に行こう。皆、散開!」
千雪が告げると鬼たちは散り散りに家屋へ引っ込む。千雪はそれを見届け、里の玄関へと向かった。すると稔は千雪に近寄る。
「兄さん、ぼくも行くよ」
「稔は屋敷にいなさい」
「だけど……」
「皆元の侍か?」
それに千哉が口を挟んだ。
「顔を見てみたい」
「千哉殿?」
その発言に千雪は目を丸くする。
「一月前に俺は皆元の侍に会っている。少し見ておきたい」
「えっ。しかし千哉殿、捕まれば何をされるかわかりませんよ」
「そのときは逃げ切って見せる」
言い切るこちらを千雪は呆然と見つめる。そのとき馬の蹄の音がした。
「出迎えも無しか。失礼な村長だな、まったく」
三人して顔を向けると、馬にまたがった二人の男がいた。
一人は羽織袴をきちんと着て、顎髭を生やしてがっちりとした体格の男。
もう一人は、痩せ型のひょろ長い背丈の男。蛇のような目をしてこちらを睥睨している。
「……」
この二人が皆元の侍。
渡邊頼綱と碓氷貞道だ。




