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オリーブのおにぎり

作者: かに

 今日は月曜日なのでサンドイッチを買う。

 俺はキッチンオリーブに行くために少しだけ遠回りをする。俺の家から駅までの最短の道筋から外れた所にその店があるからだ。


 キッチンオリーブの手作りサンドイッチは具材が多い。

 コンビニやスーパーの総菜コーナーで売っているサンドイッチは、見栄え良くするために切り口に具材を集めて端っこはパンのみの詐欺仕様だが、この店は違う。


 具材はパンからはみ出さん勢いでギュウギュウに挟まれ、持てばずっしりと重い。

 パンは自家製でなく業者から仕入れたものだが具材は手作りで、タマゴサンドに時々卵の殻が混ざっているのはご愛敬。

 俺のお薦めはイカリング。ホットドッグ用のパンにイカリングとポテトサラダとチェダーチーズが挟まっている。

 イカリングの衣がサクサクで旨い。水分のある具材と一緒に挟んでいるのに、どうしてベシャベシャにならないのか不思議だ。


 店構えは小さくてサンドイッチを並べたショーケースが1台あるのみ。そのショーケースがレジ台も兼ねている。

 店員は1人。客は1人ずつ差し向かいで注文と会計をする。


「いらっしゃいませ。お決まりですか」

「イカリングとタマゴサンド」


 俺は小食ではない。年齢28歳。運動不足気味の会社員。

 仕事柄、5年も働いていれば肥えてくる男が大多数だが、中肉中背を保っている。

 キッチンオリーブのサンドイッチならば2個も注文すれば充分腹は膨れるのだ。


 店員はしばし沈黙。

 またかよ、と俺は思った。

 この店は店員が俺を睨むので怖い。


「イカリングとタマゴサンドですね。615円になります」


 俺は財布をゴソゴソあさる。1000円札と100円玉と10円玉を見つけた。あと5円あればイイ感じにおつりをもらえる。

 後ろに客も並んでないので気兼ねなく5円玉を探す。

 探しながら店員を盗み見た。注文しただけで睨むくらいなんだから、どんな表情しているやら。

 予想に反して店員の表情は変わっていなかった。注文したときと同じ表情で、ただ俺を睨んでいるだけだった。


「すみません、はい」


 キャッシュトレーに1115円をのせた。


「500円のお返しです」


 店員は代金を受け取りおつりとレシートをのせた。

 俺は茶色の紙袋に入れられたイカリングとタマゴサンドを受け取り、店員に背を向けた。


「ありがとうございました」


 今日も声は可愛い。透き通るような声というのは、ああいう声を言うのだろう。ちょっと歌でも口ずさんでくれないかなとも思う。

 店員は女だ。

 黒髪を引っ詰めて後ろで団子結び1つ。赤い縁の眼鏡をかけている。真っ白なエプロンの下は動きやすい私服のようで、夏は半袖シャツにGパン、冬は長袖シャツにGパンだった。


 注文すると睨むので怖い。

 怖いけどサンドイッチは旨くてボリュームがあって安い。そして声は可愛い。

 だから俺は会社で食う昼飯をキッチンオリーブで買う。



*・*・*・*



 職場で昼休み開始を告げるチャイムが鳴った。


「国見さん、昼飯行かないッスか」


 研修を終えてOJTが始まったばかりの新人が俺にたずねる。


「国見くんはお昼はデスクで食べるのよ。仕事大好き人間だからね。月水金はサンドイッチ、火木はコンビニおにぎり。片手で食べられるものしか食べないから」


 俺の代わりに同期入社の木下が答えてくれた。メニューまでは言わなくていいのに。

 木下は姉御肌で恰幅も少しいい。ぽっちゃり体型というヤツだ。言うとぶっ飛ばされるから絶対に言わないけど。

 人の面倒を見るのが上手いのでOJTの担当をしている。


「仕事じゃねえよ。ニュースサイト見たり、ソリティアやってる」

「そうだったね。だったら『パソコン大好き人間』に訂正するわ」

「早く飯行けよ。混むぞ」


 新人と木下は他にも何人か誘って外に出て行った。

 俺は今朝キッチンオリーブで買ったイカリングを片手にマウスをカチカチ鳴らす。


 木下の言うとおり、1年前は昼休みも飯を片手に仕事をしていた。

 仕事はシステムエンジニア。顧客から請負一括受注をして自社でソフトウェア開発をしている。


 なかなか決まらない仕様に迫る納期。

 仕様が定まらないまま見切り発車で開発を進めれば、やっと決まった仕様と掛け離れたものが出来上がっている。

 不具合改修なんだか仕様変更なんだか訳がわからないまま、とにかく進める。

 時間なんかいくらあっても足りない。

 昼休みを削るのは当然の成り行きだった。


 月水金はサンドイッチ、火木はコンビニおにぎりを片手にソースコードを書き、テスト項目書を作り、テストを実施する。

 周囲が昼休みのチャイムと共に昼食を食べに出かけるのも構わず、仕事し続けた。

 あるとき上長に呼び出された。


「国見が昼休みも仕事をしているとな、国見よりも下の連中が休めないんだよ」


 やらなきゃ終わらないのに、やるなと言う。


 わかったよ、やめてやらあ! どうなっても知らないからな!


 なんて食ってかからなかった。というか力が抜けた。そうか、そんなにがむしゃらに頑張らなくてもいいんだ。

 妥協を許さず時間を無限に使うより、有限な時間で作業をこなす妥協も悪くないと思った。


 それ以来、昼休み中に仕事をするのを控えている。

 仕事はしないが社外に出るのは面倒くさい。オフィス街が一斉に昼休みでゴチャゴチャ人がひしめく食堂に入るのも、混んだコンビニでレジ待ちするのもウンザリだ。

 そういうわけで、月水金サンドイッチ、火木コンビニおにぎりは今も続いている。

 コンビニおにぎりもサンドイッチ同様、通勤途中のコンビニで買っていた。



 昼休みに仕事はしない。ただ昼飯片手にパソコンいじって時間を潰しているだけ。

 そのつもりだったのに、ここ数日はそうではなかった。


 俺は開発中の某食品会社の在庫管理システムを立ち上げた。

 開発中だが画面は実装を完了して、正常系のテストもほとんど終わっている。

 問題は、画面とデータを送受信するサーバーだった。


 在庫管理システムとは、文字通り在庫数を管理するために使うソフトウェアだ。

 入荷すれば在庫数が増え、売れば在庫数が減る。その動きを一目でわかるように見せるのが目的だ。

 サーバーが在庫数の増減の情報を保持していて、画面に送信する。

 画面は在庫数を見たり、売上げ情報や入荷情報を入力するためのもので、人が操作する。


 俺が開発しているのは画面、サーバーを開発しているのが俺より年上の西田さんだった。

 画面はユーザが直接触れる機能なので仕様を完全に満たす必要があり、仕様変更にも柔軟に対応しなければならない。

 ごまかしがきかない。だから俺が担当している。


 西田さんは俺より年上だが中途入社で、経歴は長いものだからプライドが高く、顧客との交渉も下手。白髪交じりの独身男だ。

 ちなみに俺も独身で彼女もいない。


 イカリングを食べ終わり、タマゴサンドを囓ったとき異変に気づいた。

 画面に表示されている在庫数がここ20分間同じ値だ。


 開発途中で運用はまだしていないが、データは本物と同じものを同じタイミングで流してもらっている。

 だから本物と同じように在庫は常に変動する。秒単位だ。それが20分も変わらないとはどういうことだ?


 俺はサーバーが管理しているデータがどうなっているのかを調べるために、サーバーに接続する為の端末を立ち上げた。

 サーバーが管理する情報を何回か再読み込みして、値が全く変わってないことを確認した。

 画面の不具合ではない。サーバーのデータ管理がおかしくなっている。


 昼休みが終わって社内に戻ってきた西田さんを捕まえた。


「サーバーからデータがきてないみたいなんですけど」


 『みたい』じゃなくて確実なんだが断定口調はやめる。

 決めつけた口調で相手の神経を逆なでして険悪な空気を作るなんて、社会人2年目で経験済みだ。


「おかしいな。データを送るところはちゃんと作ったのですが」

「きてないんで、見てもらえますか?」


 俺は昼休み中にとっておいたサーバーのログを見せた。


 1時間ほど待たされて西田さんから返答があった。


「データを生成するのに時間がかかりすぎてタイムアウトしていました」


 要するに、画面にデータを送ってなかったのだ。


 テストやったのかよ!?


 と言いたくなるのをグッと堪えて「テスト項目書見せてもらえませんか?」とたずねる。

 これは遠回しにテストやったのかよ!? と言っているのも同然なのだが、西田さんはそれに気づかない。


「メモ書き程度しかないのですが」

「形式は何でもいいので見せて下さい」


 30分後に見せられたテスト項目書に俺は頭を抱えた。


 ・データを送信すること

 ・データを受信すること

 その下にずらずら並ぶデータの項目。


 データのサイズとか! 送信間隔とか! 通信が切断されて再接続した後の復旧とか!

 そういう変動的な条件が全く無く、これじゃまるで食堂のお品書きだ。


「ええっと、入力条件が全くないんですけど」

「あ、具体的な値がたくさんあるので省きました」


 違う、そういう問題じゃないんだ!

 正常系か、準正常系か、異常系か、そういう条件はどこにいったんだ!?


 万事がこの調子で、俺は西田さんの作業チェックをしなければならなくなった。



*・*・*・*



 火曜日は鮭おにぎりと梅おにぎり、

 水曜日はポテサラサンドとハムカツサンド、

 木曜日はおかかにぎりとタラコおにぎり、

 金曜日はツナサンドとオリーブサンドを片手に

 昼休みにサーバーのテストをやり直すのが俺の日課になった。


 金曜日に食べたオリーブサンドはラーメンにたとえると『オプション全部のせ』で、卵とメンチとポテトサラダとトマトスライスとチーズが挟まったスペシャルサンドだ。これだけ具材を挟んで、よくサンドイッチが崩壊しないものだと感心する。


 店員は俺を睨むのでやっぱり怖かった。



 翌週の月曜日に上長の呼出を食らった。昼休みに仕事をしているのがバレたな。

 これで叱られたら理不尽だよな。ブツクサ考えていたが上長は全てお見通しだった。


「苦労かけてるな。木曜の納期が無事終わったら金曜に飲みに行こう。好きな銘柄なんでも飲ませてやるからな」

「はい!」


 俺が必死にフォローしていることを労ってくれる言葉に胸が熱くなった。

 ただ、俺は酒は付き合いで口をつける程度だ。日本酒の銘柄なんか何も知らない。

 大の日本酒党なのは上長である。



 木曜の納品を滞りなく終わらせ――ヒヤッとする場面は何度かあったが大事には至らず――金曜の夜には予告通り飲み会をすることになった。

 金曜日はサンドイッチの日だったがキッチンオリーブには行かなかった。


 夜に酒を飲む日は昼を抜く。食事の量を調節することで、どうにか体重を増やさずに維持している。

 俺の見た目はほっそりしているが、運動をしていないので下腹は緩んでいる。



 上長が選んだ店は地方の銘酒を取りそろえた居酒屋。

 参加メンバーは上長と俺、同期の木下と新人、そして西田さんだった。

 俺を労う会のはずなのに、俺に苦労させた張本人が参加するとはどういうことだ。


 謝罪ならば聞いてやらんでもないけどな。謝罪なんてあるわけないが。

 俺がテストをやり直した原因なんか気づいてもいない。自分がバグ(不具合)を出したとも思っていない。


 『仕様が決まってないから』『データが多いから』『想定外だった』


 言い訳は言うが西田さんが謝る言葉を聞いたことは1度もない。


 俺だけじゃない。上長も顧客さえも。西田さんは自分の過ちを認めない人だった。

 そうであるから「俺が」テストをやり直す羽目になったわけだし、西田さんはノコノコとこの場に現れた。


 腹が立つ。

 しかしそれを受け入れてやるのが大人のたしなみなんだろう。



 酒は進んだ。いつもは乾杯の生ビール中ジョッキ1杯にサワーを3杯程度なのに、上長が勧めるに従い早々に日本酒に切り替わった。

 やれ、何とかの寒梅だ何とか山だ、地名や花や天気の名前のついた銘酒を冷やで次々と飲まされた。


 冷やはヤバイ。

 熱燗ならばアルコールの匂いがプンプンしてぐびぐびいけるもんじゃないが、冷やは違う。

 銘酒はどれも口当たりがよくて、つい口をつけてしまう。

 少し杯を傾ければ、酒が注がれる。


「よく納期を守れたな。おまえならできると思ってたぞ」

「いやいや~~、まだまだこれからッスよ。動かしたらとんだとか……ったらすりゃーしぇん」


 いよいよろれつも回らなくなってきた。

 と思った瞬間、俺の意識は飛んだ。

 日本酒の酔いは突然ドカンとくると思い知った瞬間だった。



*・*・*・*



 酔った勢いで記憶を飛ばし、目覚めたらベッドで隣に女が寝ていた。


 そんな夢のようなシチュエーション。隣の女は行きずりの女かもしれないし、身近にいる女かもしれない。

 俺の場合はさしづめ同期の木下か? 美人じゃないけど、普通に女には見えるからな。

 意気投合して2人で2次会をやろうなんて盛り上がってそのまま……

 木下に特別な感情などこれっぽっちも抱いていないが、こういう想像をしてしまうほど、俺は現在自分の置かれている状況を瞬時に把握できなかった。


 体が重い。頭がガンガンする。俺は寝ていたのか。

 体が重いのは2日酔いのせいだけではなかった。誰かが俺に寄りかかっている。その重さを感じていたのだ。

 ここはどこだ?


 俺の体はくの字に曲がっている。手足を伸ばすスペースが無い。つまりベッドではない。

 俺に寄りかかってくる体からは香水の匂いではなく、おっさん臭がしている。つまり女ではない。


 寝ていた場所はベッドではなくソファーだった。

 俺に寄りかかっていたのは行きずりの女でも木下でもなく西田さんだった。


 俺はガバッと上半身を起こした。頭の横に置いてあった眼鏡をかけて状況を把握した。


 ここは会社近くのネットカフェ。そのカップル用ソファー。

 俺の隣では西田さんがすやすやと寝息を立てていた。

 『すやすや』とか表現すんじゃねえよ、俺! 気色悪い。


 ネットカフェは仕事が立て込み終電を逃したときに使っていた。

 現在では以前よりも効率よく作業ができるようになっていたので滅多に使うことはなかったが。


 昨夜の記憶はないが想像はつく。

 俺と同じかそれ以上に酔っぱらった西田さんを体よく俺に押しつけたんだろう。

 どうせ俺も訳わかんなくなってたし、男同士だし、最悪道路で寝っ転がって朝を迎えても大事には至らないだろうと。


 新人はきっと「国見さんに悪いッスよ」くらい言ったかもしれない。

 でも長い付き合いの上長と木下が「大丈夫、大丈夫、国見なら適当に上手いことやるから」そう言いくるめたに違いない。

 畜生! なにが苦労を労うだ。こんな後味悪い慰労会があるかよ。



「西田さん、大丈夫ですか? たぶんもう朝ですよ」


 西田さんに声をかけたが返事がない。熟睡している40歳過ぎのおっさんに触れるなんて背筋が寒くなるが、軽く肩を揺すった。


「ん……?」


 寝起きのしどけない声。おっさんの悩ましい声なんか聞いたら耳が腐る。

 俺が起き抜けに聞きたいのはこんな声じゃない。


 そう例えば



「ありがとうございました」



 唐突にキッチンオリーブの怖い店員の声を思い出した。

 途端に妙に恥ずかしくなり頭を左右に激しく振った。

 わっ、バカ。2日酔いで頭を振るなんて自爆行為じゃないか。


「どうしたんですか? 国見さん」


 西田さんは正気を取り戻したらしい。気遣う声をかけられ軽くいらつく。俺が西田さんを起こしてやったのに。


「すみません。昨日のこと全然覚えてなくて。ご迷惑をおかけしましたか」

「え?」


 思わず聞き返してしまった。西田さんが謝ったのを初めてきいた。


 仕事以外なら謝れるんですね。


 イヤミの1つも言いたくなったがグッと堪えた。もう正論でケンカを売るような年齢じゃないからな。


「いや、俺も全然覚えてないんで。月曜にでもみんなに聞きましょう」


 そう言って、俺と西田さんは駅で別れた。



*・*・*・*



 電車に乗っている途中に揺れで気持ち悪くなったが何とか駅までもちこたえた。

 最寄り駅のトイレに駆け込んで吐いた。胃の中を空にしたら気分はスッキリした。

 トイレの洗面所で顔をワシワシ洗い、ついでに口もすすぐ。


 楽しかった……かな。

 飲みの席で言いたいことはそれなりにぶちまけた気がする。西田さんとは最後まで噛み合わなかったけど。

 しばらくは木曜に納品したソフトの保守工程が続くだろう。それと並行して次のプロジェクトの要件定義が始まる。

 そうやって途切れなく仕事は続いていく。


 駅を出た。空模様が怪しいのが気になる。

 新人がOJTで配属されたばかりの時期、今は梅雨だ。いつ雨が降り出してもおかしくない季節。

 俺はカバンに折りたたみ傘を常備している。


 ポツリと滴が肩に落ちた。空は真っ黒。大雨になる気配がする。

 折りたたみ傘を出すためにカバンを開けようとして違和感を覚えた。

 カバンの中を見て違和感が確信に変わる。

 見覚えのない財布、雑誌、ペットボトル飲料。


 これは俺のカバンじゃねえ!!


 西田さんのカバンと取り違えてしまったらしい。駅の改札はポケットに入れた携帯のモバイルSuicaで通ったので今まで気づかなかった。


 雨はあっという間に本降りに変わった。

 西田さんのカバンの中に折りたたみ傘は入ってなかった。


 大きな雨粒が勢いよく空から降ってきて容赦なく俺を濡らす。

 前髪からポタポタ滴がたれる。上は背広なしノーネクタイのYシャツだ。そのYシャツもペッタリと体に張り付いている。


 西田さんもカバンの取り違えに気づいて俺の傘を見つけたら遠慮無く使ってくれ。

 遠慮なんかするわけないか。俺の傘なのに。あいつが使うなんて。

 俺が傘を準備したのに俺が使えなくて、何なんだよ一体。

 俺が何したってんだよ。


 ビシャビシャの体にどす黒い感情がうずまく。怒りのやり場がない。


 コンビニの側を通り過ぎたが傘を買う気にはなれなかった。

 濡らすなら濡らしやがれ。それで風邪でも引いて来週は丸々1週間休んでやる。


 そしたら再来週に休んだ分の仕事が恐ろしいほど溜まっているだろうな。

 バグ票とかバグ票とかバグ票。

 西田さんちゃんとバグ改修してくれっかな。俺がある程度解析しないとバグ票を見もしないからなあ。


 自暴自棄になりつつも、その後に考えを馳せてしまうのが社会人の悲しい性だ。


 俺、結構がんばってるよな。がんばってるのに報われないなあ。


 空を見上げた。顔面にもろに雨を浴びて何も見えなくなった。

 やけっぱちになって水たまりも気にせずにバシャバシャ大股で歩いた。

 防水加工のない革靴なので、これでダメにしてしまうかもしれない。

 アホか俺は。




「風邪を引きますよ」


 俺は立ち止まって声の主を見た。

 雨の中、鮮やかな水色の傘をさした女性。ふんわりウェーブのかかった髪が肩にかかっている。

 困った表情で俺を見つめていた。

 俺が身動きできずに戸惑っていると、彼女は俺に近寄ってきて傘をさしかけた。


「い、いいですよ! 走って帰ればすぐなんで!」


 走ろうとは全く思ってないが、傘をさしかけるのを止めてもらうために言い繕った。

 既に俺はずぶ濡れだったから。今さら雨を避けても意味がない。


「うちもすぐ近くです。ご存知と思いますが」

「いえ……」


 おいおい、俺の知り合いにこんな可愛い子はいないぞ。

 首を振る俺。彼女は「あ」と声を上げた。

 傘を俺の手に預け、両手で髪を掴んで首の後ろに回した。

 髪を引っ詰める仕草。ウェーブの髪が肩の上から消えた。


「あ!!」

「いつもありがとうございます。キッチンオリーブです」


 注文のたびに俺を睨んでいた店員が俺に傘をさしかけて微笑んでいる。

 眼鏡はどうした? 引っ詰め髪は? どうして笑っているの?

 声だけは同じだ。そうだ、あの可愛い透き通る声のままだった。


「えっと……眼鏡は?」

「雨の日はコンタクトにしているんです。雨に濡れてくもっちゃうから」


 確かに。俺の眼鏡は水滴だらけで視界が乱反射している。


「髪は……」

「普段はおろしてます。仕事のときだけまとめてます。食品を扱っているので」


 どうしていつも睨んでいたの? 今は笑っているのに。


 それだけは勢いで聞けなくて、かわりにクシャミをした。


「引き留めちゃってごめんなさい。本当に近いんですか? うちよりは遠いですよね?」

「遠いですけど、大丈夫です。帰ってすぐ風呂に入りますしご心配には及びません」


 遠慮が先に立ち断ってしまう。

 口では断っているのに


 ぐーー


 腹の虫が鳴った。駅のトイレで胃の中を空にしたから正常に活動を始めたのだ。


「おにぎり食べますか?」

「はい?」

「わたし、おにぎりも作れるんです」


 そりゃ作れるだろう。あれだけ旨いサンドイッチを作れるのだから。



*・*・*・*



 キッチンオリーブは2階が住居になっていた。

 まず風呂に入れ入らないで一悶着した。

 ある意味初対面に近い女性の家で風呂を借りるほどの度胸は無い。

 タオルを借りる、Yシャツは乾燥機にかけてもらう、で妥協点を見いだした。


「お貸しできる服があれば良かったのですが、父が亡くなったときに服はあらかた処分してしまいまして」


 形見の服に袖を通すのは気が引けるので俺にとっては幸いだった。

 俺の上半身は借りたバスタオルで包まれている。緩んだ下っ腹も何とか隠せている。

 彼女は台所で飯の仕度をしていた。


 家捜しでない程度に家の中を見渡すと、小さな家の中に家具がこじんまりとあり、無駄なものはなく、物はあるべき場所にしまわれている。

 きちんとしている、そういう印象を受けた。


 なんかこの状況ってアレだよな。

 酔った勢いで記憶飛ばして女と……も、とんだ夢物語だが、雨の中拾われて女性の部屋へもずいぶんミラクルな展開ではなかろうか。


 それに彼女が意外に饒舌で驚いた。

 いつも注文のたびに睨まれていたのに。怖い店だったのに。



「できました」


 彼女が笑顔とともに運んできたのは、おにぎりとたくあん、それと菜っ葉の味噌汁。

 雨で冷えた体を温め、2日酔いにも優しい最高のメニューだった。


 おにぎりは握り具合もすばらしく、手に持って崩れず口に入れた途端に炊いた米の味が広がる。

 具は梅とオカカ。オカカは直前に醤油と和えたようで、しょっぱさ加減が絶妙に俺好み。


 彼女は「おにぎりも作れる」と言っていたがとんでもない。「メチャクチャ旨いおにぎりも作れる」と言うべきだ。

 雨に打たれてやさぐれていた俺の心がみるみる氷解していく。


 こんなおにぎりをいつも食べられたらいいのにな。


「おにぎり、メチャ旨いです。おにぎりも売ればいいのに……と思います」

「1人で作っているので、今以上はたぶん無理ですね」

「そうですか。残念です」

「火曜日と木曜日は何を?」

「え?」

「あ、すみません。たぶんお昼を買われていると思うのですが、月水金だけいらしていたので」

「ああ、コンビニでおにぎり買ってます。片手で食べられるものがいいので」

「そうですか、あの、もし……」


 そこで彼女の言葉が止まった。たぶん、俺は彼女の言おうとしていることがわかる。俺も言おうとしていたから。


「お名前は?」


 同時に同じ事をたずねて笑った。

 下手に顔見知りだったものだから、彼女は俺を招き俺ものこのことついてきてしまったが、俺は彼女の名前を知らないし、彼女は俺の名前を知らないはずだ。


「国見伸一郎と言います」

「長谷部杏子です」


 今度は同時に頭を下げて笑った。

 この流れならばきけるかもしれない。


「こんなに親切にしてくれてありがとうございます。俺、嫌われていると思ってました」

「嫌う!? どうして!?」


 彼女が目を丸くする。ああ、そんな顔をしないで、可愛すぎるから。

 怖くてもサンドイッチと声を目当てに通っていたのに、可愛かったら俺はもう落ちるしかない。


「俺は睨まれていたので……」

「睨む!? そんなつもりは……。話し……たかった……です」

「何を?」

「今日は良い天気ですね、とか、他愛もないことですけど」

「話せばいいじゃないですか。今みたいに」

「お店だと何故かダメだったのです。出勤途中で引き留めるのもと思って」


 注文してからの間は迷っている間だったのか。

 話そうか話すまいか。迷いながら結果的に睨んでいたのかと想像すると、怖がっていたのがバカバカしい。


「おにぎりは商品にはできませんが、国見さんが食べたいと仰るならば作ります」

「俺のために……ですよね」


 杏子さんは真っ赤な顔をして俯いた。

 ああ、もう、押し倒してしまいたい。


「それはちょっと困るな」

「差し出がましかったですか」

「さっき片手で食べられる飯と言いましたよね。俺、昼休みは飯を片手にパソコンいじってるんです。片手間で食ってるんです。でも俺のために作ってくれたものは、きちんと正面を向いてありがたく頂きたいですから」

「でしたら、きちんと向き合って食べて下さいな。月水金は商品のサンドイッチを片手間に食べて、火木は真剣にご飯に向き合って下さい。ありったけの心をこめますから」


 キッチンオリーブは怖い。そんな気持ちは吹き飛んだ。吹き飛んだあとに残ったものは恋心。


 杏子さんの家の乾燥機が終了の合図を鳴らした。

 Yシャツは乾いた。

 雨ももう止んでいた。

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