アリス イン バーチャルワールド
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兎の眼はピンクであった。チョッキを着ていた。白い毛で覆われた兎だった。
アリスは、退屈だ。絵の無い本が退屈だ。花を摘むつもりもちっとも無かった。
兎が現れた。
兎が言った。
「大変だ、大変だ。遅刻してしまう」
アリスは驚いた。
兎はポケットから時計を取り出した。金の懐中時計だ。取り出した時計を兎は見た。
アリスはそれを見て不思議に思った。
兎ははねた。アリスは追った。
兎は垣根のそばの巣穴に入った。アリスも追った。
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ディスプレイに出力された文章を見て、自然にため息が出た。
現在僕達が取り組んでいる研究。それは、物語の自動作成。コンピュータによる執筆システム。
機械が如何に人間らしく、小説を書けるかということを研究している。人が書いたものと遜色ない文章が出来上がれば、この研究はゴール、つまり成功したといえる。
だけれど、今の段階では、冒頭の引用文のような不自然でいびつな文章しか生みだしてくれない。
研究はまだまだほんの入り口にさしかかったところである。
この研究はふたつの大きなシステムで構築されている。
ひとつは、物語の基礎となる仮想世界。
住人にAIを持たせて、ある程度規定どおり、シナリオに沿って行動させる。物語を作るためのシステムだ。
そしてそれを監視し、逐一文章化するシステム。
現在、研究が、頓挫しているのは、文章化システムのほうだ。
どうにも自然な記述が出来ない。言葉通り、機械的な文章しか出てこない。
一度、小説ではなくアウトプットを映像化してみようという実験が行われた。
仮想空間にカメラを設置して、その風景を映し出す。自律的なカメラワーク。
AIキャラクタたちの音声を出力する。雰囲気にあったBGMをライブラリから、抽出して再生する。
その試みは驚くほどうまくいった。仮想世界での物語は原作に忠実に、見るに値する映像を生み出してくれる。
問題はそれを、どううまく文章化するのか? ということなのだ。
仮想空間のAliceや他の住民達は非常にうまく行動してくれる。
Aliceは自分が仮想世界におかれたAIだということを認識している。
認識した上で、毎回僕たちの研究に付き合って同じシーンを何度も何度も演じてくれているのだ。
これは、主人公であるAliceにだけ与えられた特別な機能。
他の登場人物たちも、AIを装備し、自立的に行動しているがその自由度は著しく低い。自分を不思議の国の住人だと信じている。
研究がうまくいった暁には、Aliceに原作と違う行動を取ってもらい、それが全体にどう影響するのかを見極めるというのが、ゆくゆく計画されている課題のひとつ。
そのためにAliceにだけ与えられた特別なはからい。
さらには、Aliceには、現実世界で活動するための体が準備されている。
愛らしい少女の形をした二足歩行のロボット。
皮膚はシリコンで覆われ、見た目にもほとんど人間と区別がつかない。
実際、物語の自動筆記という研究課題だけではAliceの開発についてこれほどまでも予算が出なかっただろう。
仮想空間で生まれ、生活していたAIが現実世界でどのように振る舞うのか?
それも、合同研究として、大きな注目を集めている。
気分転換に、バーチャルワールドのAliceと会話することにした。
コンソールからAliceを呼び出す。Aliceは昨日の分のルーチンを終え、今日もまた日々繰り返される物語の一幕を演じるのを待っている状態だ。
だが、文章化システムのルーチンの何かを根本的に改造しない限り、Aliceたちの行動は徒労に終わってばかりだろう。
たまには休みを与えるのもいいかも知れない。
「おはよう、Alice」
研究所の量子コンピュータ。その中に住むAliceに目覚めの一言をかける。
「おはようございます。マスターラビット。今日のご予定は? トランプさん達との裁判? それともチシャ猫さんと追いかけっこ?」
「いや、今日は何もしなくていいよ。そっちの世界を自由に歩き回る分には構わない。だけど、実験としてはお休みだ」
「あら、そうなの? じゃあ何をしようかしら? お茶会は今日も開かれてるの?」
「君はお茶会が好きなのかい?」
「ええ、裁判よりかはね。退屈しのぎにちょうどいいもの」
ふとそこで、僕は、思いつく。
Aliceのための体は既に完成しているのだ。あとはデータ、つまりはAliceの人格を転送するだけ。
それにここのところ僕自身働きずめでほとんど休みを取っていない。
たまには、羽を伸ばすのもいいだろう。
「一緒にパーティをしないか? Alice?」
「今日は誰の非誕生日ですの?」
「はは、違うよ。今日は君の誕生日になるんだ。僕たちの世界へおいで。今から君が体験する世界はとっても刺激的だよ。こうしてモニター越しではなく直接僕と触れ合える」
「あら、マスターラビットさんの世界へお邪魔することになるのかしら」
Aliceは首を傾げた。
「そうだね。僕たちの世界。現実の世界で君は過ごすことになる。機械でできた体だけどね。見た目には今の君と変わらないよ。
大きくなったり小さくなったりそんなことはできなくなるけどね。もちろん戻ろうと思ったら何時でも戻れるよ。残念ながら僕たちの世界では非誕生日のお祝いは開かれてないけど……」
「それはさみしいことです」
「君の誕生日のお祝いをしよう!」
「ほんとに?」
「うん、まずはそうだね。こっちの世界でちゃんと動けるか、簡単なテストが必要だ。それからパーティだ。さてと、それには準備がかかる。パーティの準備も、もちろん君をこちらの世界に連れてくるための準備もね。だからちょっと待っててね」
Aliceはにっこり微笑みながらうなずいた。
僕はAliceをいったんスリープさせた。普段は眠っている間のAliceも監視対象に置かれている。
夢に近い挙動を見せる睡眠中のAliceの思考。それをトレースして分析するのだ。
だが、今回はその活動を強制的に停止している。
Aliceの認識としては、さっき僕と会話していたその続きから新しい記憶が始まるはずだ。
気が付くと、それまでの電子空間から、現実世界へと跳んでいる。
そして、視覚、聴覚はもちろん触覚や味覚まで備えた、新しい体のうちで目覚める。
接続は問題ないはずだ。AliceがAliceとして振る舞うにあたって入念なシュミレーションを実施している。
歩く、走る、喋る、手を振る、頷く、お茶を飲む。
それらの当たり前の行動が当たり前に実行可能。
Aliceはモニターの中のAliceと同様に、愛らしい少女として目覚めるだろうか? それとも……。
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アリスは、研究室に戻ろうとして、呼び止められた。
「アリス教授、ちょっと、いいですか?」
そう声を掛けたのはアリスとともに研究をしている宇佐美。物語を自動で筆記するシステムの中核をなすAIのモデルとなった人物だ。
その名前の読みから、ラビットというあだ名で呼ばれていたりもする。
「なにかしら?」
「これを……」
アリスの手に、宇佐美から数枚の用紙が渡された。そして、それをざっと流し読む。
そこには、物語の自動執筆システムを研究しているマスターラビットという男の日常がつづられていた。
「へえ、だいぶと仕上がってきたんじゃない?」
「ええ、マスターラビット、つまりは僕の分身ですが、今のところ順調です。自身が仮想世界におかれたAIだということは考えてもいないようですし……」
「そうね、物語の筋書きとしてもまあまあね。この後、現実世界――まあ彼の中での話だけど――に飛び込んだAliceと接触するのね」
「ええ。起承転結でいえば転ですかね。やはり、Alice達の世界を客観的に描写させるより、いっそ一人称小説を書かせてみたらどうか? というアイデアが功を奏したようですよ。
どうします? ここらで一旦、論文にまとめますか?」
「それにはまだ早いわ。どこか、そうね、小説投稿のサイトみたいなところで公開して感想を募ってみるのもいいかもね。もちろん、機械が書いたなんてことは内緒にして」
「あ、それ僕も考えてたんですよ。それで、自然な文章として評価されたら、やっぱり実験は成功しつつあるってことですもんね。じゃあ、この文章応募しちゃっていいですか? 小説の投稿先には心当たりがあるんで」
「任せるわ」
それだけ言うと、アリスは研究室の扉を開けた。
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ひとりの男がディスプレイを眺めている。
そこには、アリスや宇佐美といった研究者たちが、コンピュータに小説を書かせるという試みを研究している文章、つまりは物語が映し出されていた。
彼の研究課題は、コンピュータにいかに自然な文章を書かせるのか? ということだ。
実験は着々と成功に近づいている。
システムは、コンピュータが書いたとは思えない自然な文章を綴っている。
アリスも宇佐美も自身がAIであるということにまったく気づかずに振る舞っている……。
fin