嘘つきの町で
「着きましたよ、お客さん」
車掌に声をかけられて初めて目が覚めた。どうやら寝過ごしてしまったようだ。
新年度を迎えるパーティを朝までやって、目が覚めたのが11時。駅弁を食べながら帰ろうと家路に着いたがお腹がいっぱいになって眠ってしまったらしい。
長い間電車に座っていたから身体がぎしぎしと音を立てている。
僕は背伸びをしながら時刻表を探した。近づいて見ると、次の電車は2時間も先らしい。
自分の境遇にため息が出てきた頃、駅のホームを掃除しているおじいさんが目に付いた。
「そりゃあこの先の嘘つきの町がいい。この辺りでは一番だ」
僕が近場で何処か見るべき所は無いかと尋ねると、くすんだ緑色の帽子を被ったおじいさんはちいさな山を指差した。
「あの山を越えるとそうだ。この道を道なりにいくとこの先100メートルコムロ町という看板がある。その看板から500メートルほどいくと嘘つきの町があるのさ」
ありがとうございます、と僕は歩き出しかけて、おかしいなと思って尋ねた。
「ちょっと、その看板おかしくありませんか?」
おじいさんはガラガラとちりとりを引きずりながら行ってしまった。
諦めておじいさんに背中を向けると、竹箒でコンクリートを引っかく音とともに答えが返って来た。
「そりゃそうさ、嘘つきの町だからね」
そりゃそうだ。僕は肩をすくめて歩き出した。
どうやらコムロ町は虚室町と書くらしい。おかしな名前だ。
道と行っても車一つ通れるかという細いもので、舗装もおざなりだった。けれど、苔むした石壁やどこからとも無く聞こえてくるカエルの鳴き声を聞いているうちに、僕は小さな緑色のアマガエルの事を考え、その背中の潤った緑色の事を思った。
きっとこの山を少し分け入ればそんなアマガエルが湿った石の上で目をキョロキョロさせている光景に出会えるのだろう。そういう光景に出会える人はそういないに違いない。
ちいさな山といっても傾斜はそれなりにあり、ようやく建物が見えてきた頃には僕の足はキシキシといやな痛みにさいなまれていた。特に足の裏が痛い。
民家かと思いきや、扉のわきに切り株で出来た看板が立てかけられていた。
『喫茶ウルル』、妙な名前の喫茶店だったが妙に気になり(あと足の痛みも手伝い)僕はコーヒーでも飲む事にした。
「いらっしゃい……ませ」
割と好きな雰囲気の店だった。
店内には落ち着いた感じの音楽がかかっており、店長(っぽい人、多分店長)はアロハシャツを着こなしている。客は隅っこで将棋を指している老人と三十代くらいの男が二人だけで、所々にタペストリーがかかっている。
「あんた、よその人?」
アロハシャツの店長が怪訝そうな顔で尋ねた。
「ええ、電車で」
馬鹿みたいな返事だとは思ったけれど、僕は人と喋るのがそれほど得意ではないのだ。
店長は、まあいいけど。みたいな顔をしてカップを磨く作業に戻った。
僕がカウンター席の端っこに座ってメニュー(めにゅう、と平仮名で書かれていた)を開くと、将棋をしていたおじいさんが隣に座って言った。
「マスター、この人にコーヒーを一つ」
やれやれ、僕は人と喋るのが苦手なのにな。
「いや、ちょっとさっき五目並べで勝ってな、勝った金を何に使おうと考えとったところだ。だから気にせんでいい。いや、毎回勝ってばかりでな」
背後でジャラジャラと将棋盤を片付ける音が大きくなった気がする。
それに紛れて僕は気づかれない程度にため息をついた。
嘘つきの町、確かにその通りだ。この町で嘘を指摘する事が非礼に当たるのかは知らないが、あれだけどうどうと将棋盤を開いているのだから非礼ではないだろう。
「嘘ですよね」
「何?」
「だって、先ほど将棋盤を開いていたじゃありませんか」
おじいさんは面食らったような顔をしていたが、僕の言葉を聞くとああ、と声を上げた。
「そりゃあこの店には将棋しか置いてないでな。仕方無しに表向きのコマが白、裏向きが黒と決めてやっとったんだ」
それじゃあどう考えてもコマが足りなくなると思ったが、口を開きかけて、止めた。
どこまでいっても平行線だし、別に害の無い嘘はほうっておけばいい。
「最近じゃこの町にもめっきり人が少なくなってな、古くからの田畑も皆荒れ放題で、そこいらの山林と変わらん荒れ具合よ。これも、これも…………常夏化現象じゃな」
「ドーナツ化でしょう?」
「いや、いや………………確か常夏化じゃ」
この町の住人は嘘を訂正する事もしないらしい。
「コーヒーお持ちしました」
コトリ、と音を立てて置かれた湯気の立つコーヒーカップ。
光の加減か、何も入っていないように感じてのぞきこむと、なるほど。
白いカップにホットミルクが入っていたので空に見えただけだった。
「こう、この町の人はこういうすぐばれる嘘を吐くのが好きなんですか?」
店長に苦笑いで笑いかけると、店長は困ったような顔になった。
「ホットミルク、お嫌いですか?」
「いや、別にそう言うわけじゃないんですけど」
「ババさんのコーヒーはホットミルクなんだよ、何時もな」
どうやら将棋盤を片付けていた人のようだった。
「この爺さんもう年でサ、医者に刺激物止められてんの。で、何が面白いのか知らないけど、ミルクの事をコーヒーだって言って出してもらってんのサ」
「うるさい、お前にわしの気持ちが分かってたまるか。わしは子供の頃からこじゃれた喫茶店でこじゃれたマスターに、決まった時間になると『マスター、コーヒー』といって午後のコーヒーブレイクを楽しむのが夢だったんじゃ。この夢をかなえるのにどれだけ苦労した事か。最近じゃ良い雰囲気のマスターなんぞ……」
「あーはいはい、人間分不相応な苦労を背負い込むのは身体に毒だよ」
この町の住人は嘘をつくのが上手いだけじゃなくて団結力も強いらしい。
ババと呼ばれた老人がむくれているのも構わずに彼は100円玉を数枚カウンターに置くと出て行った。
「あの男、実は借金取りでな。わしが踏み倒さないように時々見に来るんじゃよ」
内緒の話をするように老人が僕の耳元でボソッと呟いた。
「え、ホントですか?」
あまり興味も無くおざなりに返事をしながら時計を見ると、もうすぐ電車の来る時間だった。
「大きい声では言えんがな、ウン千万と少しってとこかの。しかしまあ、期限どおりに払ってさえいれば借金取りも五目並べ仲間も対して変わらんのじゃよ」
「それじゃあ店長さん、ホットミルク幾らですか?」
話が長くなりそうなので腰を上げてポケットから財布を出すと、隣の老人がそれを止めた。
「構わん構わん、わしのおごりじゃ」
「いや、それは悪いですから、店長さん」
「だから構わんといっとる」
老人は何度も返事をするが、肝心の店長はカップ磨きに没頭しているのかこちらに顔を向ける事さえしない。
「あの、スミマセン!」
思わず大きな声を上げると、カップを磨いていた店長が眉をひそめた。
「スミマセンが勘違いなさっているんじゃないでしょうか? 私はアルバイト、店長はそちらです」
店長が指差した先には老人しかいない。
「だから、店長であるわしがいいと言っとるんじゃから、おとなしくおごられておけ」
もう反論する気も起きなかった。
「それで、どうだった?」
「ホントに嘘つきしかいない町でしたよ、最初は疑ってましたけどね」
それを聞くと竹箒を掃く手が止まり、老人は首を傾げて、それからニヤリと笑った。
「あんたも上手いね」
僕が口を開く前に、老人は背中を向けて何も言わずにまたゴミを掃き始めた。
まあいいか、そう思って時計を見ると、あと少しで電車の来る頃合だ。