魔法縛りのLv99悪役令嬢。レベルダウンの呪いをかけた聖女様を相手に、呪いのアイテムで反撃を始めたら、聖女様の人生が詰みそうになってるんだけど!
雨の街道で、今夜も刺客に囲まれている。
それでも私は、杖に手もかけない。
魔法を一発でも撃てば、経験値をごっそり持っていかれる呪いを食らっているからだ。
「エリス、囲まれてる。ぜんぶ」
胸元で、銀のドクロのペンダントが早口になった。親指くらいの骸骨で、しゃべるたびに顎がかたかた鳴る。
「前も後ろも林の中も。しかも足運びが揃いすぎてる。これ、騎士団長クラスが束で来てるよ」
「知ってる。罠の位置は?」
「完璧。ずれてるのはエリスだけ。あと三歩、左」
無言で左へ寄った。ブーツが、くるぶしまで泥に沈んだ。
ドクロの目の穴が青く光った。
「右の木の上、来る!」
首を傾けた。耳の横を、ひゅっと風が抜ける。帽子の羽根飾りが一本、くるくる落ちていった。
「……これ、高かったのに」
「そこ?」
ドクロは、木の上へ向かって声を張った。こいつは、うまいものを見ると敵でも褒めずにいられない。
「待って、いま羽根だけ狙った? この雨で? うま……。弓の人、あとで握手して!」
黒外套たちは、乗ってこなかった。先頭の男が片手を上げると、輪がぴたりと止まった。
「足元を見ろ。仕込みがある」
男が剣を抜くと、刀身が白く光った。雨粒が刃に触れて、じゅっと湯気になる。聖なる加護つきの剣だ。
男はそれを、迷いなく泥へ突き立てた。ぶつり、と鈍い音がして、私が埋めておいた鎖が一本、断ち切られて浮いてきた。
「いったぁ!」
ちりん、と右の袖口が鳴った。
手首に巻きついた黒い鎖の腕輪、縛鎖の呪環だ。この子は喋るたびに鎖を鳴らす。
「は? 聖水くさい剣で触んないで。鎖、荒れるんだけど。しかもあの人、顔ふつうだし」
「顔は関係ないでしょ」
「あるよ。縛るのアタシだよ? どうせなら顔がいい人がいい」
縛る基準、そこなんだ。
それでも男は動じなかった。仲間に手で合図を送る。泥の深いところは避けろ。踏み固められた道の上だけを進め。
いい判断だ。強い相手ほど、ちゃんと固い地面を選んでくれる。
本命の鎖はそっちに埋めてある。
「見えてる罠はね」
私は言った。
「見せてる罠よ」
先頭の男の靴の下で、固い地面が、じゃらりと鳴った。
「はい踏んだ!」
ドクロが叫ぶのと同時に、呪環がちりんと笑う。
「縛ったげる。結び目まできれいにね」
道の下の鎖が、跳ね起きた。先頭の男の足首に巻きつき、隣の男の膝に絡み、後ろの男の腰をすくう。黒い外套が、ひとつながりのまま尻もちをついた。
それでも男たちは、転がったまま光る剣を鎖に当てた。ぎち、ぎち、と鎖の輪が悲鳴を上げる。
右手首で、呪環がきしんだ。
「エリス、長くはムリ! この人たち、切るのうまい!」
胸元ではドクロが別の方向を見ていた。
「左の茂み、増援!」
腰の後ろで、かたん、と小さな音がした。
ベルトに提げた、こぶし大の素焼きの壺。業火の呪壺だ。ふたが少しだけ浮いて、隙間から低い声が漏れる。
「……エリス。まだ?」
「まだ」
「……ひとまとめになってるよ。いま押したら、ぜんぶいい音になるよ。ねえ」
ふだんは黙っているくせに、爆発の前だけはよく喋る。
壺の口を、手のひらでふさいだ。手のひらの下で、くぐもった声が「あと少し……」と続く。
茂みから飛び出した男たちが、鎖の団子を助け起こそうと駆け寄ってくる。全員が、小壺を埋めた一帯に足を踏み入れた。
手を離した。
「どうぞ」
「……いただきます」
足元の泥から、仕込んでおいた小壺が次々と炎を噴いた。ぼん、ぼん、と連鎖して、黒い外套がまとめて宙を舞い、沢へぼちゃぼちゃと落ちていく。
「……はぁ。いい音」
壺がうっとりとふたを鳴らした。この子は爆発を、耳で味わう。
杖を抜く必要さえなかった。
胸元で、ドクロが顎を鳴らした。
「エリス、今日もケチ」
「節約と言いなさい」
その雨の中で、白い光が起き上がった。
先頭の男だ。爆発の瞬間、加護の剣を盾にして耐えたらしい。外套は焼け、片膝は泥に埋まったまま、それでも目だけは冷えている。
その目が、私ではなく、私の腰の壺を見た。
あの男、わかっている。罠を張るのは私でも、罠そのものはこの子たちだと。
男が跳んだ。白い切っ先が、まっすぐ壺へ落ちてくる。
「……あ。私、割れる」
壺がひとごとみたいに呟いた。
「罠、ぜんぶ向きが逆!」
ドクロが叫ぶ。右手首で、呪環が鎖をばたつかせた。
「アタシ届かない!」
舌打ちが出た。胸の紋が、熱くなる。
「うちの子に、聖水くさい剣を向けないで!!」
右手を振り抜いた。
街道が、白くなった。音が遅れてやってきて、林の梢がまとめて倒れた。男は加護の剣ごと、はるか向こうの沢まで吹っ飛んで、水柱を上げた。
「……いまの、私が出したかった音」
壺が心底うらやましそうに言った。
そして。
ぽち。
胸の奥で、押しボタンを押したみたいな、軽い音がした。
視界の端に、金色のゲージが浮かぶ。経験値のゲージだ。縁までなみなみと満たしてある。
その金色がすうっと引いた。
栓を抜いた湯船みたいに、どこかへ流れていく。止まらない。止まらない。ようやく止まったときには、ゲージの底に、薄い金色がひと筋残っているだけだった。
【経験値が減少しました】
私は膝から、ぬかるみに崩れた。
公爵家の娘として持っていたものは、ぜんぶ与えられたものだった。家の名前も、ドレスも、王太子との婚約も。十五の春、学院の断罪の場で、そのぜんぶを失った。罪状は、同級生を罠にかけたこと。身に覚えはなかった。それでもその日から、私は『蜘蛛姫』と呼ばれた。蜘蛛令嬢とも。陰では、ただ『蜘蛛』とも。
でもLv99だけは、あの日から自分の足で上げてきたものだ。
「……一発で、これ」
ドクロがなぐさめるように顎を鳴らした。
「でもまだLv99。セーフ」
「『まだ』って言わないで」
次に撃てば、Lv99ではいられない。
泥の中に、男の剣の鞘が落ちていた。拾い上げると、金の紋章が刻んである。百合と光輪。
聖女マリアの紋だ。
胸元から、ドクロが聞いた。
「エリス。吸われた経験値って、どこ行ってんの?」
「知らない」
私は鞘を握りしめて、立ち上がった。
「でも、請求先は決まったわ」
◇◇◇◇
王都の大聖堂前の広場は、人で埋まっていた。
聖女様の公開祝福の日だ。みんな、手のひら大の聖印を握っている。私の手にもひとつある。振ると白く光る。
私はフードを深くかぶって、その中に立っていた。
右手首の呪環に、白い傷がひとすじ残っていた。街道で、加護の剣に切られた跡だ。袖の内側で、指の腹でそっとなでる。
「……なでても治んないよ」
呪環が小さく鳴った。
「知ってる」
ちりん、と、もう一度。
「でも、もうちょっとやって」
私は三つとも、順番になでた。この子たちは、私が自分の足で拾い集めたものだ。Lv99と同じで、誰にも与えられていない。
「待ってる間に、仲間の近況チェックしとく?」
ドクロが言った。こいつには、各地の遺物同士でつながる噂の網がある。
聖女とは、王命で同じパーティになった。旅のあいだ、あの子は誰にでも優しかった。魔王を倒した夜、その子が配った祝杯は、甘くて、あとから少しだけ苦かった。目が覚めたら、パーティは散り散りだった。みんな、ひどい目に遭っているはずだった。
「……お願い」
「了解。重騎士ガイ、北の流刑地」
息を止めた。
「パン屋やってる。行列のせいで、町の地図が描き変わったって」
「は?」
「大魔導士ルイス、裏通りの鑑定屋。暗殺者シェル、歌劇団のトップスター」
「……待って」
私は額を押さえた。
「惨劇やってるの、私だけ?」
「あと、勇者アレン」
ドクロの声が少しだけ落ちた。
「どこにもいない。噂の網に、ぜんぜん引っかかんない。王都の掲示板には、処刑済みの告示が出てる」
聖印を握る手に、力が入った。
あの夜、床に倒れながら、あいつは私に手を伸ばしていた。
私はその手を掴めなかった。
広場がわっと沸いた。
大聖堂のバルコニーに、純白の法衣の聖女マリアが現れた。両手を広げると、白い光の粒がはらはらと降りてくる。
学院の断罪の場で、証人席に立って泣いていた同級生だ。あの日も、みんなこの子の涙を信じた。
「みなさんに、祝福を」
その声は、私の手の中の聖印からも聞こえた。広場じゅうの聖印が、同じ声で、同じ言葉をささやいた。
胸元で、ドクロの目が青く光った。
「エリス。大聖堂の下、魔力の気配がすごい。底なしに溜まってる」
「……私の経験値?」
「たぶん。流れ込んでる先、あの真下。……あと、聖女のまわり。魔力が、半年前の倍は濃い。太い糸みたいなのが、広場じゅうに伸びてる」
あの女、足の下に溜めた私の経験値を、糸で吸い上げて肥えてるんだ。
「……行くわ」
ドクロの顎ががちっと鳴った。
「え、ここで? 魔法なしで?」
「なしで」
右手首を振った。ちりん、と鳴って、呪環の鎖がバルコニーの手すりまで伸びる。
「えっ待って、アタシ今日、ロープ担当?」
「担当」
鎖を引いて、私は群衆の頭の上を跳んだ。
バルコニーの両脇から、聖騎士が駆け寄ってくる。白銀の鎧に、長いマント。
「縛って」
「マントの結び方、ださ……。結び直してあげる」
呪環が、二人の騎士のマントの裾を、きれいな蝶結びでひとつにした。騎士たちは互いを引っぱり合って、ぐるりと回って、手すりの向こうへ二人そろって落ちていった。
腰の壺がふたを小さく鳴らした。
「……ちょっとだけ、いい?」
「ちょっとだけね」
ぽん、と私の足元で、小さな花火が弾けた。
広場がひときわ大きく沸いた。
「演出だ!」
「新しい聖女様の演出だ!」
聖印の光が私に向かって振られている。
私はバルコニーに降り立った。目の前に、聖女がいた。
国じゅうが拝む、慈悲の微笑み。
「請求に来たわ。私の経験値」
聖女は少しも驚かなかった。
それどころか、嬉しそうに目を細めた。胸もとの聖印を手のひらで覆って、私の耳もとに唇を寄せる。広場には届かない声で、囁いた。吐息から、焼き菓子みたいな甘い匂いがした。
「よかった。来てくれたのね」
「……は?」
「ねえ。もっと撃って?」
聖女の頬がうっすら赤かった。
聖女は手のひらをどけて、群衆に向き直った。声を震わせる。
「みなさん、お下がりください。その女は、呪われた魔女です」
「蜘蛛姫だ」「蜘蛛だ」と、声が上がった。
聖印の光が、一斉に私へ向けられた。さっきとは、ぜんぜん違う意味で。
大聖堂の正面の扉が開いて、白銀の鎧が、石段を埋めながら駆け下りてきた。
その先頭に、白銀ではない色がひとつ混じっていた。ずぶ濡れの黒外套。街道で、沢に沈めたはずの男だ。
◇◇◇◇
聖騎士に追われて、大聖堂の中へ飛び込んだ。
「エリス、これ撃ったら負けのやつだよ」
走りながら、ドクロが言った。
「わかってる」
聖女は、私に撃たせたがっている。撃つほど、大聖堂の下に私の経験値が溜まる。
だったら、意地でも撃ってやらない。
壺が、天井の鐘の綱を焼き切った。落ちてきた鐘が、ごおん、と鳴り響き、追ってきた騎士たちが兜を押さえてうずくまる。
「……あ。この響き、いい。ずっと聞いてたい」
「浸ってないで、走って」
「私、走れない。壺だから」
ドクロの目が青く光った。
「祭壇の裏。隠し階段。気配、この下」
階段を駆け下りた先に、扉がひとつあった。
押した。
広い部屋だった。
床には毛足の長い絨毯と、クッションの山。銀のワゴンには、焼き菓子が段になって積まれている。部屋の奥には、天蓋つきの大きな寝台があって、厚い帳がぴったりと閉じていた。
帳の向こうに、影が丸まっていた。人の倍はある、ぶ厚い影だ。それがゆっくりとふくらんで、しぼんだ。またふくらんで、しぼむ。
眠っている。私の経験値を吸って、あんなに大きくなったものが。
扉の前で、足が動かなくなった。
「静かに。起こさないで」
背後で、声がした。
「やっと、ここまで育ったの」
聖女が、階段の上に立っていた。胸もとの聖印が、白く灯っている。その後ろに、広場で見た黒外套がひとり。
聖女がすっと指を差した。
「その呪具を、焼いて。静かにね」
男が階段を駆け下りてきた。速い。私の横へ回りこみながら、剣が白く燃え上がる。
切っ先が触れた瞬間、呪環が悲鳴を上げた。
「熱っ、ムリムリムリ! 鎖、溶ける!」
右の手首から、じゅう、と煙が上がる。
胸の紋が熱くなった。
撃てば、ゲージは割れる。レベルがひとつ下がって、Lv98になる。
聖女はそれを待っている。
「エリス」
ドクロが言った。いつもの早口じゃなかった。
「撃たなくていいよ。うちら、溶けても割れても、ただの遺物だし」
「……は?」
私は右手を上げた。
「あなたたちを見つけるのに、私がどれだけ歩いたと思ってるの」
振り抜いた。
閃光が地下を埋めた。男は燃える剣ごと横へ吹き飛んで、石の壁にめり込んだ。呪環の鎖から、すうっと赤みが引いていく。
ぽち。
金色のゲージの、最後のひと筋が流れていく。その行き先が、はじめて見えた。細い金色の糸が、私の胸から帳の向こうへ伸びている。ゲージが、ぱりんと割れた。
【Lv99 ➔ Lv98】
わかってて撃ったのに、膝から力が抜けた。
そのとき、帳の向こうから、気の抜けた声がした。
「あ、上がった」
帳が内側からめくれた。
クッションと毛布の山に埋もれて、ぶかぶかの部屋着の男が、あぐらをかいていた。片手にマカロン。頭の上に、金色の文字。
【Lv98 ➔ Lv99】
勇者アレンだった。
会うたびに私のゲージを覗き込んで、「次は追いつくから」と言っていた男。自分の頭の上の数字を、ぽかんと見上げている。
「なんかさ、ここに来てから、たまに経験値入るんだよね。寝てるだけで」
部屋じゅうがしんとした。
吸われた経験値の行き先は、この寝台だった。
アレンが、私の割れたゲージと、自分の頭の上を見比べた。それから、マカロンを皿に戻した。
「……え。これ、エリスのだったの?」
「そうよ」
「ごめん。知らなかった。起きたら、みんな処刑されたって聞かされて、ここなら安全だって。……返し方は、わかんないけど」
寝ているあいだに、私の十代をひと口ずつ食べて、追いついたわけだ。
怒る気力も出ないまま、聖女の胸もとに目をやった。
聖印が、まだ白く灯っていた。広場で、あの女が手のひらで覆っていたもの。覆わなければ、声が広場じゅうに届くもの。
「ねえ、聖女様。どうして、こんなことをしたの?」
聖女は、頬を染めた。両手を胸の前で組む。覆うのを忘れた聖印の、すぐ上で。
「だって、アレン様が二位なんて、おかしいでしょう? アレン様は、なにもしなくていいの。強さは、私がよそから持ってきてあげる。あなたたちを遠ざけたのもね、アレン様が私以外の人に、あんなに楽しそうに笑うから。見てると、胃が痛くて。いまはね、毎朝アレン様の寝言を書き留めてるの。昨日なんて、『マカロン』って言ったのよ。かわいいでしょう?」
ドクロがひそひそと言った。
「エリス。そいつ、魔法で殴る必要ある?」
「ないわね」
私は、聖女に向かって歩いた。一歩ごとに、膝に力が戻っていった。
「経験値の減ったあなたに、なにができるの? もう一発撃ったら、Lv97よ?」
聖女が、慈悲の微笑みで首をかしげる。私が撃つのを、まだ待っている。
撃たない。右手は、魔法のためには使わない。
「レベルが1下がろうが98あろうが、あなたをぶん殴るには十分すぎるのよ!!」
ちりん、と袖口が鳴った。冷めたばかりの鎖が、聖女の足首に絡みつく。
「待って、近くで見たら顔がいい……合格。縛ったげる」
私は聖女の額に、中指を一本だけ弾いた。
ぺちん。
聖女マリアは鎖ごと後ろへひっくり返って、クッションの山に頭から埋まった。Lv98のでこぴんは、それで足りた。
壺がふたをかたかた鳴らした。
「……いい音。今日いちばん」
右手首で、呪環がちりんと鳴った。
「ねえエリス。その金色の糸、結び目がださい」
私の胸から伸びる糸の根元を、鎖の先がたどっていく。もうひとつの結び目は、クッションに埋まった聖女の、胸の前で組んだままの両手の中にあった。
「結び直してあげる。払うのは、こっちの人ね」
鎖が糸をすくって、くるりと回った。きゅっ、と結び目の締まる音がした。
聖女の手の中で、糸の向きが変わった。
それから、ドクロがぽつりと言った。
「ねえ。上、静かすぎない?」
◇◇◇◇
聖女をバルコニーへ連れて戻ると、広場は、静まり返っていた。
広場を埋めた人たちが、黙ってこちらを見上げていた。
ぜんぶ、聞こえていた。
聖女のまわりの濃い魔力は、広場じゅうの聖印をつないで声を届ける術だった。
アレン様が二位なんて、おかしい。それから、勇者の気の抜けた声。寝てるだけで経験値入るんだよね。
聖女の口が、微笑みの形のまま止まった。目だけが、広場の端から端までを、何度も往復した。
あっという間に、目に涙がたまった。泣き慣れている。
「どうして……あの日は、泣いたらみんな信じてくれたのに。アレン様が、あなたのレベルばかり見てたから……」
聖印は、まだ白く灯っていた。
学院のあの日と、同じ形だった。違うのは、壇の上で青ざめているのが、聖女のほうだということだけだ。
私の後ろで、アレンが小さく言った。
「……おれのも、聞こえてた?」
聞こえていた。最前列で、子どもが聖印を耳に当てたまま、勇者を指さしていた。
聖女が、震える手を胸の前で組んだ。いつもの、祝福の形だ。
「みなさん、どうか落ち着いて。祝福を……」
ぽち。
聞き慣れた軽い音が、今度は聖女の胸から鳴った。
聖女の頭の上に、金色の文字が浮かんだ。広場の誰からも見える高さに。
【Lv62 ➔ Lv61】
ぽち、ぽち、ぽち。音が止まらない。数字が、目で追えない速さで書き換わっていく。
【Lv1】
その下に、赤い文字が一行。
【返済残高あり】
私の割れたゲージの底へ、金色が流れ込んできた。指一本ぶんだけ。
聖女が一生かけて稼いだ経験値で、指一本ぶん。
「Lv99の経験値って、そういう量なのよ」
聖女は、自分の両手を見た。祈りの形には、もう戻らなかった。
「呪いを……解いて」
「解き方、書いてなかったんでしょう?」
聖女は、口を開けて、閉じた。
「教会の禁書庫の祈りを、唱えただけなの。唱えたのは、あなたにだけ……」
私は羽根ペンを、聖女の震える指に握らせた。告発の撤回。私財での賠償。一枚ずつ差し出して、名前が最後まで書かれるのを見下ろした。にじんだ字は、書き直させた。
返済は終わっていない。聖女がこれから稼ぐ経験値は、ぜんぶ私に流れてくる。Lv99に戻るまで、あの子の人生が何回いるのかは知らない。それまで、取り立てる相手は手元に置いておく。
アレンの手に、一瞬だけ目が行った。
私はその手から、マカロンの皿を取り上げた。
「あなたは担保よ。私のLv99が戻ってくるまで、きっちり働きなさい」
「……うん。返せるまで、手伝う」
アレンは素直にうなずいた。
その後ろで、Lv1になった聖女が、法衣の裾をつまんで駆けだした。
「待って勇者様ぁぁぁ! 私も行く!」
「あなたも来るのよ。働いて、経験値を稼いでもらうから」
アレンを置いておけば、あの子は逃げない。好きな男のそばで、一生ただ働きだ。
聖女の私財で、王都の外れに小さな事務所を借りた。
看板には『取り立て・罠・呪具相談 エリス商会』。
開店祝いに、北からパンが山ほど届いた。添えられた紙には一行だけ。『広場の声、北まで届いた』。
元婚約者の王太子からは、分厚い謝罪の手紙が届いた。封も切らずに、壺のふたを開けて入れた。
「……紙は、音がつまんない」
勇者は雑用係になった。王都での呼び名は『寝てるだけの勇者』。
看板の釘を打たせたら、金づちの一振りで、釘と看板と壁が、まとめて隣の空き地まで抜けた。
「うわ、力加減わかんない」
「それ、私の経験値で抜いてるのよ」
「ごめん、加減する」
聖女は、その横で壁の破片を拾っていた。Lv1の腕には、破片ひとつが重いらしい。拾ったぶんのわずかな経験値も、ちゃんと私のゲージに流れてくる。
最初の客は、沢からも壁からも這い出してきた黒外套の男だった。聖女に未払いの給金を取り立ててほしいらしい。
その夜、事務所の裏で、指先に小さな火を灯してみた。
ぽち。
ゲージの底の金色が、ひと筋減った。流れていく先は、見えなかった。
結び直せたのは、聖女が勝手に繋いだ一本だけだった。私の呪いの根は、別の場所にある。
胸元で、ドクロの目が青く光った。
「エリス。噂の網に、気になるの引っかかった」
「なに」
「南の港町で、魔法を撃つたびに経験値が抜けるって騒いでる冒険者がいる」
聖女が唱えたのは私にだけだ。
「……禁書庫の祈り、だったわね」
腰の壺がそわそわとふたを鳴らした。
「……燃やす? 燃やしていい?」
「まだ」
ちりん、と袖口が鳴る。
「アタシは、その祈りを書いた人の顔しだいかな」
私は、割れたゲージを見上げた。Lv98の表示の横で、割れた金色の器の底に、指一本ぶんに少し足りない金色が溜まっている。
レベルはひとつ減った。代わりに、うるさいのがやたらと増えた。
差し引きで言えば、たぶんまだ私の大赤字だ。
「行くわよ。一滴残らず、回収するんだから」
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