「僕のことは忘れてくれ」と婚約者に言われましたので、お会いするたび初めましてと申し上げます~元婚約者が毎回、自己紹介からやり直しているのですが~
「僕のことは忘れてくれ。君なら、新しい相手などすぐ見つかる」
夜会の控えの間で、婚約者のレオポルト様はそう言った。腕には男爵令嬢が絡みついている。
燭台の火が、撫でつけた金褐色の髪を照らす。壁の向こうでは、弦の調べがかすかに流れている。
「承知しました。では、忘れます」
婚約の解消を告げるために呼ばれた席だ。声は震えない。胸の奥が、一つだけ静かに冷えていく。
当人が別れを告げれば、婚約は終わる。立ち会った父の頷きは、その確認だった。
二十二歳の侯爵令息は、これで話は済んだとばかりに手を広げる。
父は頷いたまま、口を開く。
「家への知らせは私が引き受けよう」
「ありがとうございます」
私はマティルデ、伯爵家の娘で二十歳。忘れてくれ、と仰ったのはあの方だ。
扉を抜けると、広間の光と楽の音が一度に押し寄せる。
その足で広間へ戻り、王弟殿下にご挨拶した。三年前の初対面から、私の名を一度も間違えなかった方だ。
祖母主催の社交界デビューの夜も、祖母と旧知のジークムント殿下は賓客だった。それ以来、集まりでその呼び声を待つのが楽しみだ。誰にでもそうなさる方だと、そう思うことにしている。今夜も戸口の脇で目が合う。
「殿下、ご機嫌よう」
「マティルデ嬢、今夜も会えたね」
黒い短髪の下で、深い青の目が私を見る。私は控えの間の戸口へも顔を向け、そばの客にも届く声で告げる。
「レオポルト様のご希望どおり、忘れることにしました」
「忘れるって……僕の話を聞いていたのか?」
戸口の向こうから、声が勢いよく跳ね返る。
「はい。ご希望のとおりにいたします」
レオポルト様が敷居を越え、私たちの輪へ追ってくる。
「初めまして。どちら様でしょう?」
「僕だ! レオポルトだ!」
「まあ、そうでしたの」
私は会釈する。衣擦れの音が、叫び声のあとに小さく響く。婚約のあいだ、一度も聞いたことのない声の大きさだ。お名前は、そんなに力いっぱい仰らなくても聞こえている。
「レオポルト様、初めまして。マティルデと申します」
「僕の顔を見れば分かるだろう!」
「お名前まで教えてくださるなんて、丁寧な方ですね」
「殿下からも、僕だと仰ってください!」
「私は覚えている。君の名も、君に忘れてくれと頼んだ男の名も」
殿下が口元を押さえる。きちんと伸びていた肩が、わずかに揺れた。深い青の目の端にまで笑みが浮かんでいて、こちらまで口元が緩みそうになる。彼が殿下へ向き直る。
「どうしてお笑いになるのですか?」
「ふっ……失礼。挨拶が届いたのが嬉しくてね」
祖母が扇を上げ、私の隣へ寄る。高く結った銀白の髪が、燭台の光を受けて明るい。公爵未亡人である祖母の扇の陰には、見慣れた笑みが隠れている。
「わたくしも忘れましたわ、そのお家の名」
「お祖母様まで……楽しそうなお顔です」
「あら、楽しいですもの! 孫の遊びに乗らない祖母がいて?」
「もう、乗るのはお祖母様だけでけっこうです」
レオポルト様は何か言いかけ、結局そのまま飲物卓へ離れていく。その背が遠ざかると、殿下が声を落とす。楽の音に紛れそうな声を、私は聞き逃したくない。
「来週の芝居は、私も観に行くよ。席は君たちの隣だ」
舞台へ向かって左から殿下、私と祖母、レオポルト様たちの桟敷が並ぶ。隣の桟敷と並ぶのは幼い頃からなのに、今は殿下のお席が隣だということばかり気にかかる。
「私も同じ芝居を観ますので、幕間にお話しできれば……嬉しいです」
「では、君の桟敷へ伺おう」
頬が温かい。お返事をいただいただけで、来週の幕間が待ち遠しくなる。楽しみが一つ増えただけだと、私は自分に言い聞かせる。けれど、頬の熱はなかなか引かない。
シュタインフェルト家へ帰るため出口へ歩くと、レオポルト様がまた前へ回ってくる。せっかく思い浮かべていた劇場の景色が、そのお顔で隠れてしまう。
「おい、さっきの挨拶はもう済んだだろう?」
「初めまして。どちら様でしょう?」
◇
翌週の夜。劇場の桟敷を覆う赤い天鵞絨は、舞台の灯りが当たるところだけ、柔らかな艶を帯びている。客席の顔を下から照らす光も、幕間には少し落ち着く。二十六歳の殿下が共通廊下から私たちの桟敷へいらっしゃると、私は芝居の余韻を抱えたままお迎えする。
「薄い茶だったね。砂糖は別にしてもらったよ」
「嬉しいです……あの夜の話を覚えていてくださったのですね」
砂糖なしの薄い紅茶を受け取る。頬に触れる湯気は柔らかく、茶器の温かさが指に伝わってくる。好きだと話したものを、こうして差し出していただける。そのことを味わいたくて、すぐには口をつけられない。
「舞台はどうだった?」
「夫婦が互いの名を呼び違えるところが、もう可笑しくて。隣の祖母まで扇を落としかけました」
「あれは私も笑ったよ。声を出さずに済んだのが不思議なくらいだ」
「殿下が声を出して笑うところ、私はまだ見たことがありません」
「では、いつか見せよう。……今夜は無理そうだが」
殿下の目が、共通廊下へ流れる。客席よりも暗いその向こうから、レオポルト様がのぞいている。お茶の香りを楽しむ間くらい、あってもよさそうなのに。
「前にも隣の桟敷だったな。さあ、君の感想は僕が聞こう」
「初めまして。どちら様でしょう?」
「僕だ! レオポルトだ! 先週も名乗っただろう!」
「まあ、そうでしたの」
殿下は楽しそうに言った。
「私は覚えている。君の名も、君に忘れてくれと頼んだ男の名も」
あの夜の男爵令嬢――エルムスホルン家のフランツィスカ様も、隣の桟敷から戸口へ来る。赤褐色の巻き髪が、その足取りにつれて大きく揺れる。
「どうして彼女に覚えていてほしいの!」
「そういう意味じゃない!」
フランツィスカ様は彼をまっすぐ見据える。舞台の灯りを受けた鳶色の目は、瞬きも惜しむように動かない。私の手元では、紅茶からまだ細く湯気が立っている。
「決まった話だと聞いたから、あの部屋までついて行ったのよ。なのに、なぜ今も彼女ばかり?」
「僕が忘れられるなんて……そんなの、おかしいだろう?」
彼の手が桟敷の縁を掴む。天鵞絨に指が食い込み、関節だけが白く浮いている。
「隣にいる私を……私を見てよ!」
「一緒に観たいのは、君なんだ!」
「なら、私と芝居の話をして!」
「この話さえ済めば、芝居の続きは見られる」
「その話を済ませたいのは、あなただけでしょう!」
彼女が私へ向き直る。目元の強さはそのままに、きゅっと結んでいた口元だけを整える。その唇から次の言葉が出るまで、私は黙って待つ。
「私は続きを楽しむわ。幕が上がるところを、見逃したくないもの」
「どうぞ。私も続きを楽しみにしております」
「ありがとう。あなたとはいつか、別の席でゆっくりお話ししたいわ」
自分のために、隣にいる相手へ怒れる人なのだと思う。私なら、あんなふうに見てほしいと言えただろうか。この人を悪く言う言葉は、私の中に一つも無い。
祖母が舞台を指し、それから扇の先を殿下へ向ける。その滑らかな動きに合わせて、私の目もつい殿下を追ってしまう。
「園遊会では、舞台の続きを聞かせてくださる? 殿下も、ぜひうちの庭へいらして」
「はい、ぜひ。楽しみにしております」
殿下も頷く。次の幕を待つ短い暗がりで、私は胸にそっと手を当てる。この方と、また話したい。それだけのことだと思う。それだけのはずなのに、手の下の鼓動は芝居が始まる前より速い。
フランツィスカ様は自席で続きを楽しみ、終演後はレオポルト様と帰っていく。彼は廊下で、もう一度だけ私たちの桟敷を振り返る。私の中には、今夜の芝居と、殿下と交わした言葉がまだ温かく残っている。
◇
二日後の宵、アルテンブルク家の庭に灯りがともる。刈った芝の青い匂いに、遅咲きの薔薇の甘い香りが混じる。公爵未亡人イルムガルト――私の祖母は、あの宣言を令嬢たちへ伝え、私に挨拶の手本を頼む。祖母の客である殿下も庭にいらして、灯りの下には令嬢たちの華やかな装いが集まっている。
「このご挨拶、わたくしも皆様とご一緒しても?」
「ふふ。お祖母様もどうぞ」
「あら、あなたが先よ。手本は孫の役ですわ」
私は、解消前から招かれていたレオポルト様へ向き直る。彼は令嬢たちの輪の外にいる。その顔には、まだ何も知らないらしい、いつもの余裕が浮かんでいる。
「初めまして。どちら様でしょう?」
「僕だ! レオポルトだ! これで三度目だぞ!」
「まあ、そうでしたの」
祖母が扇を開く。張りのある音が、夜の庭に小気味よく響く。
「ヴァルトハイム家だ。家名まで言えば、もういいだろう?」
「そのご用件は、もう伺いました。さあ、皆様にもご挨拶をどうぞ」
殿下は楽しそうにレオポルト様の方を見る。
「私は覚えている。君の名も、君に忘れてくれと頼んだ男の名も」
「初めまして。ほら、わたくしが先ですわ」
「まあ、私たちも。初めまして!」
祖母が扇で拍子を取る。令嬢たちの声が灯りの下で揃い、語尾には隠しきれない笑いが弾む。
「僕は、ここの皆様と知り合いです!」
「あらまぁ、そうでしたの? ご挨拶がお上手ですわね」
「君たちまで、また僕に名乗れと言うのか?」
「お名前の続きもどうぞ。初めまして!」
彼は口を開き、言葉をこぼす前に閉じる。それから両手で顔を覆うと、令嬢たちの笑い声が薔薇の垣根の向こうまで転がっていく。
「公爵夫人まで……僕をからかうのですか?」
「あら、からかってなどいませんわ。だって、初対面ですもの。おほほほ」
祖母の扇は止まらない。灯りの下で銀白の髪が揺れるたび、令嬢たちの拍子もぴたりと揃う。彼は顔から手を離し、私を見る。けれど、こちらが会釈する間もなく、また顔を覆ってしまう。
私は笑いながら給仕を呼ぶ。笑うつもりはなかったのに、呼びかける声にまで笑いが混じる。口元をきちんと結ぼうとしても、今はどうもうまくいかない。
「殿下には、濃い紅茶に柑橘の皮を。果汁は入れないでください」
「かしこまりました」
皮を添えた茶へ、殿下が目を留める。湯気とともに立つ爽やかな香りは、私にも馴染みのあるものだ。お好みに合うはずと思いながら、ついそのお顔を確かめてしまう。
「私の茶まで覚えていたのか? ……嬉しいな」
「初めての茶席で仰ったことですもの。香りだけ、と」
「三年前の言葉を……私の好みまで、君が覚えているとは思わなかった」
「殿下が私のお茶を覚えていてくださるのと、同じことです」
「同じ……そうか。君も、私を見ていてくれたんだね」
君も。その短い言葉が、耳から離れない。殿下の目が、扇の陰の祖母へ向く。祖母は何も聞いていないような顔で、令嬢たちの拍子を取り続けている。柑橘の香りが温かな湯気に乗って広がる中、私は先ほどの返事を急に恥ずかしく思う。
祖母は、ヴァルトハイム侯爵夫人からの招きを取り次ぐ。扇越しに向けられる目には、まだ笑みが残っている。
「夫人もね、あなたとの親交を続けたいそうですわ」
「私もぜひ伺いたいです。お招きをお受けします」
「ご子息は、どう思うかしら?」
「ヴァルトハイム家のご子息のお考えまでは、存じ上げません」
祖母が、その夜のうちに返事を届けてくださる。庭の灯りが一つずつ消えていくと、薔薇の色は闇に溶け、香りだけが夜気に残る。
◇
さらに二日後の夜、侯爵家の食堂では、レオポルト様が胸を張って私を迎える。長い卓に並ぶ銀器には暖炉の火が映り、壁の肖像画にも揺れる明かりが届いている。殿下も夫人の旧知の客として同席していて、そのお姿を見つけると、よそ行きに整えていた私の口元が少し緩む。
「初めまして。どちら様でしょう?」
「僕だ! レオポルトだ! ここは僕の家だぞ!」
「まあ、そうでしたの」
殿下が横から茶目っ気たっぷりに口を出す。
「私は覚えている。君の名も、君に忘れてくれと頼んだ男の名も」
夫人が席を勧めてくださると、園遊会にも来ていた令嬢が笑いかける。声をかけられる前から、その口元には笑いがこぼれそうだ。
「初めまして! 昨日の茶席でも、皆様ご一緒になさって」
「まあ、そこでも! 楽しいご挨拶ですね」
王都中の茶席で同じ挨拶を交わしていると、令嬢が笑って教えてくれた。
「まあ、うちの息子がいちばん名乗りがお上手ですって」
「ええ、お名前を伺うたび、丁寧な方だと思います」
夫人は肩をすくめ、それから声を立てて笑う。そのあけっぴろげな笑い声で、広い食堂が少し近しく感じられる。
夫人が食前の茶を私へ勧める。淡い茶の髪を襟足で結った、気さくな女主人だ。茶器を勧める手つきにも、どうぞくつろいで、と声をかけられているような温かさがある。
「息子のことなら私も忘れたいわ……はぁ……」
「ふふ。では、ご一緒に忘れさせていただきます」
「ええ、そうしてちょうだい。今夜のあなたは、私のお客様なのよ」
「こうしてお客様として伺えるのが、嬉しいです」
「あら、嫁として来るより気楽でしょう? 私だって気楽よ」
夫人の灰緑の目が笑っている。お客様、と呼んでいただくだけで、肩に入っていた力が少し抜ける。私は給仕に、殿下の濃い紅茶へ柑橘の皮を添えるよう頼む。果汁は入れず、香りだけ。それを覚えていることを、今夜は隠さなくていい。
「ああ、この香りは嬉しいね」
「お口に合って、私も嬉しいです」
湯気の向こうから、レオポルト様が身を乗り出す。せっかく殿下と目が合ったところなのに、そちらを向かずにはいられない。
「母上が招いたのだから、僕の話をしに来たのでしょう?」
「私はね、お客様とお茶を飲みたいのよ」
「なら、僕のことを思い出してください!」
そこに夫人が横から口を出す。
「初めまして。お名前を伺っても?」
「……へ?」
「お名前は?」
夫人は杯を持ったまま、律儀に返事を待っている。暖炉の薪が、ぱちりと鳴る。その音が卓のこちらまでやけにはっきり届いて、私は唇を結ぶのに苦労する。
「母上! 僕はあなたの息子です!」
「まあ、ご丁寧に。お茶はどちらがお好み?」
レオポルト様は自分の杯を指す。夫人が笑い、食事が始まる。皿の触れ合う澄んだ音と笑い声の中で、息子の席だけが少し遠い。鶉の香草焼きが運ばれると、香ばしい匂いがふわりと広がる。暖炉の熱が背中に心地よい。私はこの家の食卓に、初めて客として座っている。目の前の料理を楽しんでいい、その気楽さが何よりありがたい。
肉の皿が下がる頃、殿下が私の杯へ目をやる。食事のあいだも変わらない淡い茶の色を、その目が確かめるようになぞる。
「薄い茶のままだね。夕食のあとも変えないのか?」
「はい。殿下と同じで、好みは動きませんの」
晩餐を楽しんでから、私は殿下へ向き直る。今夜のお礼を申し上げたい。それなのに、またお話しできるのはいつだろうと、もう次の機会を探している。
「三日後の夜、私の屋敷で定例の茶会がある。この続きを、そこで話してくれるか?」
「はい、ぜひ。今度は殿下のお話も伺いたいです」
茶会へ伺う返事も、祖母の言伝でその夜のうちに届ける。お誘いの言葉を思い返すたび、返事に込めきれなかった楽しみが、胸の中で膨らんでいく。
◇
三日後の夜は、王弟邸で定例の茶会だ。客間には柑橘の皮の香りが漂い、窓の外では夜風が庭木の葉を鳴らしている。祖母も客として同じ卓につく。以前からの客だというレオポルト様が、入口で手を広げる。
「僕はここの茶会には慣れている。席だって案内できるぞ」
手を広げたまま、彼は私の返事を待っている。控えの間で別れを告げたときと同じ、揺るぎない声だ。同じ声を、こんなに遠く聞けるようになるとは思わなかった。
「初めまして。どちら様でしょう?」
「僕だ! レオポルトだ……いい加減に、覚えてくれ!」
「まあ、そうでしたの」
殿下は笑いをこらえ、杯を口元から下ろす。口の端を引き結んでも、目元に浮かぶ笑みまでは隠せていない。
「私は覚えている。君の名も、君に忘れてくれと頼んだ男の名も」
殿下が私へ話しかけようとすると、祖母がそっと扇を閉じる。その静かな仕草に、私も笑みを収めて顔を上げる。
「ここは、あなたが話しなさいな」
祖母は殿下に目配せをする。
「はい。殿下のお話を、伺います」
「名を呼んだ夜、君が笑ってくれてね。次に会うのが待ち遠しかった」
「私も……殿下が覚えていてくださるのが、嬉しかったのです」
祖母が扇で口元を隠し、卓の向こうで肩を揺らしている。レオポルト様は、なぜか自分の杯をじっと見ている。私も手元に目を落としたいのに、今は殿下から目を離すのが惜しい。
殿下が杯を置く。指先が卓の縁で止まり、それきり動かない。窓の外の風は、いつの間にか止んでいる。客間の静けさが急に気になり、誰もが聞こえないふりをして耳を澄ませているように思えてくる。
「今夜もね、君が来るまで落ち着かなかった」
「……いつも落ち着いておいででしたのに」
「そう見せたかったんだ。……今は、うまくいかない」
五度目の夜、殿下が差し出したのは、結婚を申し込むための指輪だった。
「これを……受け取って欲しい」
用意していた言葉が、どこにも見当たらない。ちゃんとお答えしなければと思うほど、喉の奥が熱くなる。灯りが滲んで、殿下のお顔までぼやけそうで、けれど目を伏せることもできない。
「……嬉しい。私、こんなに、嬉しくて……」
差し出された手が止まる。私は殿下を見上げる。深い青の目が、初めて私より先に揺れている。いつも迷いなく私の名を呼んでくださる方が、今は私の言葉を待っている。そのことが、苦しいほどいとおしい。
「お受けいたします」
「ありがとう……私のことは、忘れないでくれ」
「殿下のことは、一生忘れません」
私から手を差し出す。殿下が指輪をはめてくださった。金の輪が指の根元でひやりとして、すぐに温かくなる。思っていたより軽い。三年ぶんの思いは、胸の奥にゆっくりと満ちてくる。集まりのたびに待っていたあの声で、これからも私の名を呼んでいただける。そう思うだけで、また灯りが滲みそうだ。祖母の扇が、卓の下で小さく鳴る。
そのとき、卓の端に控えていたレオポルト様が、身を乗り出す。
「僕は?」
「初めまして! ふふっ」




