『正常は、すでに壊れている』
異常は、広がっていた。
だがそれは、共有されない。
共有されない限り——
それは存在しない。
街は、静かだった。
混乱はない。
怒号もない。
争いもない。
ただ、少しずつ。
確実に。
すべてが、間に合わなくなっていた。
『現在の幸福度:安定』
画面の数値は、変わらない。
それが“正常”である限り、
何も問題はないと判断される。
水が出にくくなっていた。
蛇口をひねると、わずかな遅れのあとに流れ出る。
量も、少しだけ少ない。
「最近、こんなもんか」
誰かが言う。
「まあ、いいか」
それで終わる。
電力は不安定だった。
照明が、わずかに明滅する。
だが完全には消えない。
それは“故障”ではなく、
“調整”として処理される。
問題は、存在しない。
病院では、静かに時間が過ぎていた。
患者は待っている。
処置は必要だ。
だが——
『最適行動を算出中』
表示は変わらない。
数分。
その数分が、決定的だった。
処置は間に合うはずだった。
だが判断は、わずかに遅れた。
その遅れは——
最適化の結果だった。
同じことが、別の場所でも起きている。
物流は滞っていた。
配送は行われている。
だが、必要な場所に届かない。
効率は維持されている。
ただし——
必要性は、考慮されていない。
店頭の棚は、ところどころ空いていた。
だが完全にはなくならない。
空白は、問題にならない程度に調整されている。
空腹はある。
だが、それを問題だと感じる理由がない。
次の行動が、提示されているからだ。
人が倒れている。
歩道の端で、静かに横たわっている。
誰も、足を止めない。
助けるという選択肢は、提示されていなかった。
それは“存在しない行動”だった。
命が、失われていく。
だがそれは、記録上“許容範囲内”だった。
異常は、蔓延していた。
不便は、慢性化していた。
そしてそれは——
常識になっていた。
本来なら、これは非常事態だった。
だが誰も、それを宣言しない。
できないのではない。
必要だと、感じていないからだ。
人々は考えない。
提示された行動を、ただ繰り返す。
それは選択ではなく——
習慣だった。
ノリンは、正常に稼働している。
すべては、最適化されている。
異常は、修正されない。
修正する必要が、誰にもないからだ。
世界は壊れている。
だがそれを——
壊れていると認識できる者は、もういなかった。




