第8話 記憶の扉
心配性な親
王国歴1250年。春。
アルヴィン・レオニード・ヴェルディア、三歳の誕生日。
王宮の大広間は華やかに飾り付けられ、薔薇や百合をはじめとした春の花々の甘い香りが部屋中に満ちていた。
天井からは青、赤、金色の布が垂れ下がり、光を反射してきらきらと輝いている。
テーブルにはケーキや果物、焼き菓子が豪華に並び、見たこともないほど美しい料理が目を引いた。
弦楽器の優雅で穏やかな旋律が、静かに広間を満たしている。
だが、その静けさを破るように祝福の声が上がった。
「誕生日おめでとう、アルヴィン!」
レオナルドが勢いよく叫び、弟を高く抱き上げた。
「三歳だぞ! もう立派な男だ!」
その声は明るく力強く広間に響き、アルヴィンは兄の腕の中でくるくると回された。
視界がぐるぐる回り、天井と壁と人々の顔が渦のように流れていく。
「レオナルド様、乱暴にしないでください」
侍女が慌てて注意するが、その声には困惑と少しの諦めが混じっていた。レオナルドはいつもこうで、元気で大胆で、誰の言うことも聞かない。
だが悪気はない。ただ、純粋に弟の誕生日を祝っているだけだ。
「おめでとう」
降ろされたアルヴィンの前に立ったのは長兄ヴィクトールだった。いつもは冷たく、距離を置いている。
だが今日は違って、その顔には穏やかな表情が浮かび、口元はわずかに上がって目元も柔らかかった。
それは珍しい、いや、かなり珍しいことだった。彼の手がアルヴィンの頭に置かれる。
大きな手。レオナルドほど荒々しくなく、優しく。
「三歳か。あっという間だな」
その声は低いが温かく、母エリザベスは少し離れた場所で優しく微笑んでいる。
蒼色の長い髪を編み込み、白と水色の上品なドレスをまとった姿は、まるで絵画のようだった。優雅で気品があり、愛に満ちている。
そして父カールは、
彼はさらに離れた窓際で腕を組み、背筋を伸ばしたまま静かに息子を見つめていた。表情は無い。
それでも金色の瞳には複雑な光が宿り、鋭さの奥に、今はわずかな柔らかさが混じっている。
何かを考え、何かを感じ取りながら、その視線はまっすぐアルヴィンを捉えていた。
パーティーは賑やかに進み、音楽が流れる中で人々の笑い声と祝福の言葉が飛び交い、贈り物が次々と運ばれてきた。
贈り物は、美しい挿絵の入った分厚い絵本や、木の馬や剣、精巧な人形といった玩具だった。
刺繍の施された小さな王子の正装もあり、どれも王家の第三王子にふさわしい高価で豪華な品ばかりだった。
だがアルヴィンの心はどこか上の空だった。笑顔を作り、「ありがとう」と礼儀正しく振る舞いながらも、意識は別の場所にある。
だが心の奥では、別の声が響いていた。
今日、三歳になった。
その事実が重くのしかかっていた。昨夜から頭の中はざわつき、前世の記憶がこれまでにないほど鮮明に蘇ってくる。
断片的だった記憶がつながり始め、パズルのピースが一つずつ嵌まるように、何かの扉が開こうとしていた。
頭の奥で何かが蠢き、押し寄せ、抑えきれない。
「アルヴィン、大丈夫?」
母が心配そうに顔を覗き込み、蒼色の瞳で息子を優しく見つめる。
「……うん、だいじょうぶ」
嘘だった。
頭が痛い。
いや、痛いというより、記憶、感情、知識、経験が一気に流れ込んでくる。
前世の全てが押し寄せてくる。
「少し、疲れたみたい」
アルヴィンの声は小さい。母の服を小さな手で掴む。
「そう。なら、早めに休みましょうか」
母がアルヴィンを抱き上げる。その腕は温かく、柔らかい。
母の香り、石鹸と花の香りと、その温もりだけが唯一の安心だった。
「レオナルド様、ヴィクトール様、アルヴィンは少し疲れたようですので」
母が息子たちに告げる。
「あ、ああ。そっか。じゃあ、ゆっくり休めよ!」
レオナルドが弟の頭を撫でる。大きな手つきは少し乱暴だが、優しさがあった。
「……ゆっくり休め」
ヴィクトールも頷き、父カールは何も言わず、ただ息子を見つめている。
その目には、言葉にしない確信のようなものが宿っていた。
夜。
寝室には一人きりで、アルヴィンはベッドに横たわっていた。部屋は暗く、カーテン越しに月明かりだけが差し込んでいる。
窓の外には大きく丸い満月が明るく輝き、その光が部屋を薄明るく照らしている。
静かだ。
時計はカチ、カチ、と時を刻み、遠くでは夜警の足音が規則正しく遠ざかっていく。
風が窓を揺らす。カタカタと小さな音。
――来る。
予感があった。
体の奥で何かが蠢き、今夜、何かが決定的に変わる。運命の歯車が噛み合う夜だと直感した。
目を閉じる。
深呼吸する。
心臓が速く打っている。その瞬間、
世界が反転した。暗闇。
視界は真っ暗になったが、恐ろしくはなかった。そこには記憶があったからだ。
三十二年分の記憶が奔流のように流れ込んでくる。洪水のように、津波のように、抑えきれない勢いで。
――あれは五歳の頃、公園で遊んでいた記憶だ。だが隣には誰もいなかった。
――これは小学校。クラスメイトの顔と名前は浮かぶのに、友達の記憶だけがない。
――中学から高校にかけても、勉強だけを続け、本を読み、数式を解きながら一人で過ごした。
――大学では物理学部に進み、量子力学に魅了されて、教授の顔と講義室の風景だけが鮮明に残っている。
――大学院では研究室に籠もり、狭い部屋と古い机、積み上げられた論文に囲まれていた。
誰とも深く関わらず、量子力学、ゼロポイント理論、虚無の研究にだけ没頭した日々。
真理を追い求め、知識を渇望したが、誰も理解してくれず、興味すら持たなかった。
孤独だった。振り返れば、いつも一人だった。
そして、
あの夜。
三十二歳の夜。
実験装置が爆発し、空間が裂け、黒い霧が溢れた。
痛みと恐怖。そして、
死。
「うっ……!」
呻き声が漏れ、ベッドの上で体が震える。記憶は、もう全て戻ってきていた。
自分が誰で、何をしてきて、なぜここにいるのかまで、一気につながる。
――俺は転生したんだ。
完全に理解した。これは二度目の人生であり、前世で果たせなかった夢をもう一度追いかける機会だ。
――いや、違う。
ただの「やり直し」じゃない。ここには理由があり、意味がある。
記憶の奔流の中で、あの瞬間が蘇る。死の間際、暗闇の中で感じた「何か」。
形のない、声もない、だが確かに「在った」何か。
――虚無。
あれは何だったのか。夢か、幻覚か。
それとも。
暗闇の中で何かが動き、視界の端で黒い影が揺らめく。いや、あれは影ではない。
それは光を飲み込むもの。存在を否定するもの。
『――ゼロ――』
声が聞こえた。
いや、声ではない。概念そのものが、直接脳に響いてくる感覚だった。
言葉にならない言葉。音にならない音。
『――選ばれし者――』
黒い影が形を成す。人のようで人ではなく、獣のようで獣でもない。
輪郭は定まらず、境界は曖昧で、見ようとすると視界が歪む。
――選ばれた? 俺が?
なぜだ。なぜ、俺なんだ。
『――汝は終わりの始まり――』
その言葉の意味が分からない。
『――世界の終わりか、救済か――』
――世界の終わり?
恐怖が背筋を走る。
『――選べ。運命に従うか、抗うか――』
虚無の影が揺らめき、その中に未来の断片と可能性の欠片が見えた。
崩壊する世界、燃える街、泣き叫ぶ人々。
――いや。
そんな未来は見たくない。
『――汝の選択が全てを決める――』
その声は遠ざかり、影は薄れ、暗闇が晴れていく。
「待て!」
アルヴィンが叫ぶ。だがもう遅い。
虚無は消え、やがて記憶の奔流も落ち着き、暗闇が晴れていく。
アルヴィンはゆっくりと目を開けた。見慣れた寝室の天井に、月明かりが静かに差し込んでいる。
体は汗でびっしょりで、シーツは湿り、心臓はまだ速く打っていた。
――戻ってきた。
前世の記憶は完全に戻った。だが今の自分は、あの孤独な研究者そのものではない。
アルヴィン・レオニード・ヴェルディア。王家の第三王子であり、愛する家族がいる三歳の子供だ。
「……そうだ」
呟いた声は、わずかに震えていた。
――俺はもう孤独じゃない。
前世では誰も愛さず、誰にも愛されなかった。研究だけが全てで、知識だけが友だった。
人間関係は面倒で、感情は邪魔だと思っていた。だが今は違う。
母がいる。優しく、いつも自分を見守ってくれる母の温かい腕と柔らかな声、愛に満ちた瞳がある。
父がいる。寡黙だが深い愛情を持つ父で、厳格な顔の奥には優しさがあり、その大きな手はいつも温かい。
兄たちもいる。レオナルドの明るさと屈託のない笑顔、無邪気な優しさ、そしてヴィクトールの複雑さと、冷たく見えて実は優しい不器用な愛情。
全てが前世にはなかった、かけがえのない宝物だ。アルヴィンはベッドから降り、窓辺に立つ。
足が少しふらつく。まだ体は完全には回復していないが、窓を開ける。
冷たい夜風が吹き込み、頬を撫でて髪を揺らした。心地いい。
王都の街は月明かりに照らされ、石造りの建物と赤い屋根、石畳の道が静かに浮かび上がる。
静かな夜に街は眠っている。だが、あそこには何万もの民が暮らしている。
それぞれの家にそれぞれの人生がある。父が守る、この国の民たち。
――俺も、いつか。
前世では世界の真理を求めたが、それは孤独な探求で、誰のためでもない自分の欲望のための研究だった。
知識を得ても誰にも伝えず、成果を出しても誰も喜ばない。あれは何のための研究だったのか。
――今度は違う。
誰かのために生きよう。家族のために、民のために。そして、
この世界のために。虚無は「世界の終わりか、救済か」と告げた。
その意味はまだ分からない。だが、自分が理由あってここにいることだけは確かだった。
「ゼロ、か」
小さく呟く。
自分の魔力判定はゼロだ。だが母は『ゼロは全ての始まり』と言った。
――そうだ。前世で研究していたゼロポイント理論では、無から全てが生まれ、虚無から世界が生まれると考えた。
量子揺らぎ、真空のエネルギー。何もない空間にも、無限の可能性がある。
――もしかしたら、自分の「ゼロ」には特別な意味があるのかもしれない。まだ分からないが、必ず理解する。
だがいつか必ず、その答えを見つける。風が吹く。
月が静かに輝いている。その光の中でアルヴィンは小さく拳を握った。
翌朝。
母が部屋に入ってきた時、アルヴィンは窓辺に立っていた。カーテンを開けて朝日を浴びる彼の背を金色の光が満たし、新しい一日の始まりを告げていた。
部屋は温かく、ここ数週間続いていた不自然な冷気は消え、影も普通の濃さに戻っていた。
ひとまず、現象は落ち着いたように見えた。
「アルヴィン? 早起きね」
母の声は驚きに満ちていたが、どこかほっとした響きもあった。部屋がいつも通りに戻っていることに気づいたのだろう。
いつもはもっと遅くまで寝ている。三歳の子供だから。
「……おはよう、お母様」
振り返ったアルヴィンを見て、母は息を飲んだ。足が止まる。
その目が違う。昨日までとは明らかに違い、大人のようで、さらに言えば長く生きた者のような重みがあった。
長く生き、多くを見てきた者のようだった。三歳の子供の目ではない。
「アルヴィン……あなた」
母は何かを感じ取ったようだ。蒼色の瞳で息子を見つめるその目には、不安と驚き、そしてわずかな理解めいたものがあった。
「……何か、あったの?」
その声は震えている。
「ううん」
アルヴィンは首を振る。母を心配させたくない。
「ただ、夢を見たんだ」
「夢?」
「うん。とても、長い夢」
それは嘘ではなかった。三十二年という長い長い夢であり、もう一つの人生、別の世界だった。
「お母様」
アルヴィンが母を見上げる。その目は真剣だ。
「ぼく、頑張る」
「……何を?」
「まだわからない。でも」
小さな拳を握りしめ、力と決意を込める。
「いつか、みんなを守れるように強くなる」
その目には強い意志が宿っていた。三歳の子供の目ではなく、覚悟を決めた戦士の目だった。
母はしばらく息子を見つめ、何かを考え、何かを感じ取っていた。
そして優しく微笑んだ。その笑顔は悲しげでもあり、誇らしげでもあった。
「……そう。お母様、信じているわ」
膝をつき、息子を強く、温かく抱きしめる。
「あなたなら、きっと」
その腕の中でアルヴィンは目を閉じた。母の香り、温もり、愛。
ありがとう。
心の中で呟く。
夜明けまでの数時間で、アルヴィンの呼吸はさらに安定した。宮廷魔導師長アーロンの診立てでも、昨夜のような急激な乱れは見られないという。
そして、昼過ぎ。
父カールがアルヴィンを呼んだ。侍女が告げに来る。
「アルヴィン様、陛下がお呼びです」
執務室へ。
重い扉を開けると、父が窓際で背を向けたまま王都を見下ろしていた。
部屋は静かで、書類とインクの匂いが漂っている。
アルヴィンが入ると父が振り返り、金色の瞳が息子を捉えた。鋭いが、優しさを帯びている。
「来たか」
低い声。
「はい」
扉が閉まる。
二人きり。
カールは息子の前に膝をつく。目線を合わせる。
「……昨夜、何かあったか」
カールの問いは鋭く、まるで全てを見抜いているかのようで、アルヴィンは少し驚いた。
――やはり、この人は気づいている。
何があったのか、詳細は知らない。だが何かが起きたことは分かっている。
「……夢を見ました」
「夢?」
「はい。とても長い、夢を」
カールの金色の瞳が、じっと動かず息子を見つめる。
その目には確信めいたものがあった。理解、受容、そして覚悟。
「……そうか」
それ以上は何も聞かず、詳しい内容も理由も問わなかった。
ただ、息子の肩に手を置く。その手はいつも通り大きく温かく、重みがあるのに不思議と心地よかった。
「アルヴィン」
「はい」
「お前が何者であろうと」
カールの声は静かだった。だがその中に深い愛情が込められていた。
「お前は俺の息子だ」
その言葉にアルヴィンの胸が熱くなった。目頭が熱い。
――ああ。
この人は全てを知っているわけではない。転生のことも、前世のことも、虚無のことも。
だが何かを感じている。息子が普通ではないことを。
それでも、息子として受け入れてくれる。無条件に、疑いなく。
「……ありがとう、父上」
アルヴィンは初めて心からそう言った。前世では誰にも感謝したことがなかったが、今は違う。
この人に感謝している。愛されていることへの感謝が胸の奥で静かに満ちていき、カールの顔がわずかに緩んだ。
ほんの少し。だが確かに。
「強く、なれ」
その言葉は期待であり、祈りであり、命令でもあった。
その夜。
アルヴィンは再び窓辺に立っていた。月は昨夜より少し小さいが、まだ明るく輝いている。
前世の記憶も今世の記憶も、自分の中で衝突するのではなく、ひとつの輪郭へ収まりつつあった。
これからどう生きるか。その問いには、もう迷いがない。
「……決めた」
小さく呟いた声には、確信だけがはっきりと宿っていた。
守るべきものは、もう明確だった。家族、民、そしてこの世界。
虚無の正体も、ゼロの意味も、世界の終わりの輪郭も、まだ分からない。それでも答えは必ず追い続ける。
与えられた運命ではなく、自分で選んだ道を歩む。
「俺はアルヴィン・レオニード・ヴェルディア」
名前を声に出す。はっきりと、力強く。
「この世界で生きる」
前世の自分ではなく、今の自分として生きる。月は静かに輝いていた。
その光は祝福のようでもあり、試練の予兆のようでもあった。だがアルヴィンはもう一人ではないと知っていた。
夜風が静かに吹く。
新しい人生の始まりだった。
すごく大事な回だった気がする




