第6話 王の重責
おなかいっぱいになった
生後二歳十ヶ月。もうすぐ三歳の誕生日だった。
王宮での生活にはすっかり慣れていた。母エリザベスの部屋、図書館、庭園といった場所を、今では自由に歩き回れるようになっていた。
どこに何があり、どんな人々が働き、どんな空気が流れているのか。少しずつ理解してきた。
特に図書館はお気に入りだった。静かで本の匂いが満ち、知識が溢れていて、前世の研究室を思い出させる。孤独だが充実していた時間だ。
だがこの世界では違う。一人ではなく、家族がいる。
「今日は父上のお仕事を見学するのよ」
母がそう告げた日、アルヴィンは内心で期待を膨らませた。
エリザベスの顔はいつもより少し緊張していた。長い蒼色の髪を丁寧に編み込み、正装に近い服を着ているところを見ると、執務室へ行くのは特別なことなのだろう。
「とうさま、おしごと?」
片言で尋ねる。
「ええ。とても大切なお仕事をなさっているの」
母の声は優しいが真剣だった。
――王の仕事。
前世では政治家など信用していなかった。権力欲と保身に塗れた職業だと思い、票のために嘘をつき、利権のために動き、民のことなど本当は考えていないと決めつけていた。
そう、確信していた。
だがこの父は違う気がする。
あの厳格な顔の奥に何かがある。それをこの目で確かめたかった。
廊下を歩く。母がアルヴィンの手を引いている。
石造りの廊下に高い天井、壁には歴代の王の肖像画が飾られ、どの顔も厳格で威厳に満ちている。
――この人たちも父のように民を想っていたのだろうか。
それとも違うのか。
足音が静かに響く。母の靴音は規則正しく優雅で、まだうまく歩けないアルヴィンがよろけるたび、すぐに支えてくれた。
執務室は王宮の中央にあった。
重厚な扉の前で母が立ち止まる。
その扉は黒檀でできている。彫刻が施され、王家の紋章――雷を掴む鷹――が刻まれていた。
エリザベスが扉を二度ノックする。
コン、コン。
静かな音が廊下に響く。
「入れ」
父の声が扉の向こうから聞こえた。
低く威厳のある声だ。だが妻と息子だと分かると、わずかに柔らかくなる。
母が扉を開ける。
ギィ……
重い音を立てて扉が開く。
広い部屋が広がっている。天井は高く、大きな窓から差し込む陽光が部屋全体を明るく照らしていた。
机の上には羊皮紙や紙、巻物が山積みになり、インクの匂いがかすかに漂っていた。
「来たか」
カールが顔を上げる。
机の前に座る父の姿はいつもより疲れて見え、目の下にはわずかな隈があった。それでも背筋はまっすぐだった。
その目にはいつもの厳格さがあった。だが息子を見る瞬間だけ、わずかに和らいだ。
金色の瞳。鋭く、だが今は優しい。
「邪魔をしないように、そこで見ていなさい」
母がアルヴィンを窓際の椅子に座らせる。
クッションが置かれている。おそらく事前に準備してくれたのだろう。
「おとなしくしているのよ」
母が優しく頭を撫でる。
「うん」
アルヴィンは頷く。
エリザベスは夫に一礼し、部屋を出ていった。
扉が静かに閉まる。
そこから父の仕事を観察することになった。
部屋の中は静かで、羽ペンが紙を走る音、書類をめくるカサカサという音、時計の秒針が刻む音だけが響いていた。
窓の外から鳥の鳴き声が聞こえ、遠くの訓練場の剣戟や王都の喧騒がかすかに届いてくる。
アルヴィンは椅子に座って父を見つめる。
カールは黙々と書類に目を通している。横顔は彫像のように動かないが、目だけは文字を追い、内容を理解し、判断を下していた。
――この人はどれだけの情報を処理しているのだろう。
机の上の書類の量を見れば分かる。おそらく毎日これだけの量が運ばれてくる。
コン、コン。
扉がノックされる。
「入れ」
カールの許可が出る。
「陛下、東部の収穫報告書でございます」
廷臣が入ってくる。
初老の男性だ。灰色の髪を後ろで結び、質素だが上質な服を着ている。背筋が曲がり、顔には深い皺が刻まれている。長年、王宮に仕えてきたのだろう。
彼は書類を差し出す。
カールはそれを手に取り、黙って目を通す。
その目は一字一句を見逃さないという強い意志に満ちていた。
ページをめくる音。紙が擦れる音。
時間がゆっくりと流れる。
廷臣はその場で待っている。背筋を伸ばし、じっと立っている。緊張が姿勢に表れていた。
「……今年は不作か」
カールが静かに呟く。
「はい。冷害の影響で、例年の七割程度かと」
廷臣の声は沈んでいた。
「税率を下げろ。五割に」
カールの言葉に廷臣が目を見開く。
「しかし陛下、それでは国庫が――」
「民が飢えては意味がない」
カールの声は静かだが絶対的だった。
それは議論の余地を許さない。王の決断だ。
「国庫の不足分は、他で補う。まずは民の生活を守れ」
「……御意」
廷臣が深く頭を下げる。
その背中には安堵が滲んでいた。民の苦しみを知っていたのだろうが、財政を考えれば税率を下げるのは難しい。その葛藤を王が一言で断ち切った。
廷臣が退出していく。
扉が閉まる。
アルヴィンは心の中で感嘆した。この人は本物だ、と。
父は権力のためではなく、民のために決断している。前世で抱いていた為政者像とは明らかに違った。『国庫の不足は他で補う』という一言が意味する重さも分かる。おそらく王家や貴族側の負担を増やす判断であり、反発も避けられない。それでも父は迷わなかった。
時間が経ち、窓から差す陽光はゆっくりと位置を変えていく。
「次、北方の魔獣被害報告」
カールが言うと、また別の廷臣が入ってくる。
若い男性だ。騎士の服装をしている。剣を腰に下げ、鎧の一部を身につけている。顔には、疲労と緊張が混じっている。
「三つの村が襲撃されました。死者十二名、負傷者三十名以上」
その報告にカールの眉が僅かに動いた。
――怒っている。
アルヴィンには分かった。表情はほとんど変わらないが、確かに怒りがある。
拳がわずかに握られている。机の上の羽ペンを持つ手にも力が入っていた。
「騎士団は?」
カールの声は低い。抑えた怒りが滲む。
「すぐに出動し、魔獣の群れを撃退しました。しかし――」
「被害が出た後では遅い」
カールが低い声で言った。
その声には自責の念が混じっている。王として民を守れなかった。その事実が彼を苦しめていた。
「警備体制を見直せ。魔獣の活動が活発化している。巡回の頻度を上げろ」
「御意。ですが、それには人員が――」
「俺が行く」
その言葉に廷臣が目を見開いた。
「陛下御自らですか!?」
「民が死んでいる。王が動かずして、誰が動く」
カールが立ち上がる。
その姿は圧倒的だった。背が高く肩幅が広い。かつて戦場を駆けた戦士の体だ。
――そうか。
アルヴィンは思った。
――この人はただ命令するだけじゃない。自ら動く。
それが雷帝と呼ばれた男の流儀だ。
民のために自ら剣を取る。危険を顧みず前線に立つ。
だから民に愛され、騎士たちが慕っている。
「準備を整えろ。明日、出発する」
「御意!」
廷臣が力強く頷き、退出していく。
その背中には士気の高さが表れていた。
カールは再び座る。
だがその顔には疲労がより深く刻まれている。
――十二名の死者。
その数字が父を苦しめている。守れなかった命。二度と戻らない命。
拳をじっと見つめている。その手がわずかに震えていた。
その後も次々と報告が上がってくる。
外交問題、隣国との関係、貿易交渉、関税の調整。
貴族間の争い、領地問題、相続問題、権力争い。
魔導師の育成計画、新たな魔法理論の研究、実験施設の建設。
一つ一つにカールは的確な判断を下していく。
時に厳しく、時に優しく、時に冷徹に。
その姿はまさに王だった。
アルヴィンは黙って見ている。
言葉を発さず、動かず、ただ観察する。
一国を治めるということの意味を、アルヴィンは初めて体感した。
税、軍事、外交、教育、司法、農業、商業、魔法。王はその全てに目を配り、全てに責任を負う。一つの判断が何千、何万の民の命を左右するのだから、父が背負っている重みは、幼いアルヴィンの目にもはっきり見えた。
窓の外を見る。陽光が少しずつ傾いている。午後になっていた。
執務はまだ続く。
廷臣が出入りする。報告書が積まれ、決裁され、次の書類が運ばれてくる。
終わりがない。永遠に続くのではないかと思えるほどだ。
だがカールは止まらない。休まない。ただ黙々と仕事を続ける。
その背中をアルヴィンは見つめ続けた。
日が傾き始めた頃。
ようやく執務が一段落した。
最後の廷臣が退出し、扉が閉まる。
静寂が部屋に戻る。
カールは椅子に深く座り、目を閉じる。
その横顔には深い疲労が刻まれていた。目の下の隈はより濃く、額には汗が浮かび、肩がわずかに落ちている。
一日中緊張を保ち続け、判断を下し続けた。その疲れが一気に表れている。
だがそれでも背筋は曲がらない。王としての威厳を決して失わない。
「……とうさま」
アルヴィンが小さく声をかける。
静かに。邪魔にならないように。
カールが目を開け、息子を見る。
金色の瞳。疲れているが、まだ輝きを失っていない。
「ああ。まだいたのか」
その声は、いつもより柔らかい。
「うん」
アルヴィンが頷く。
「……退屈だっただろう」
カールの声にわずかな優しさが混じった。
罪悪感も少しある。息子を長時間じっと座らせてしまった。
「ううん。すごかった」
アルヴィンは正直に答える。
まだ片言だが、想いは伝わったようだ。
カールの顔がわずかに緩んだ。目尻が下がり、口元がほんの少し上がる。
「……そうか」
彼は立ち上がり、窓の外を見る。
アルヴィンも椅子から降りて父の隣に立つ。
そこには王都の街並みが広がっていた。夕日に照らされ、美しく輝いている。
石造りの建物、赤い屋根、石畳の道、市場の賑わい。
遠くから人々の声が聞こえる。商人の呼び声、子供たちの笑い声、馬車の走る音。
「あの街に、何万もの民が住んでいる」
カールが静かに語る。
その声は深く重い。だが温かい。
「彼らには、それぞれの人生がある。家族がいて、仕事があって、夢がある」
窓ガラスに父の顔が映っている。厳格な顔だが今は優しい。
「……」
アルヴィンは黙って聞いている。
「それを守るのが、王の務めだ」
その言葉は重かった。だが声音には温度があり、義務だけで言っているのではないと分かる。守らねばならないから守るのではなく、守りたいから背負っている――アルヴィンには、そう聞こえた。
「アルヴィン」
カールが息子を見る。
膝をついて目線を合わせる。
金色の瞳が、まっすぐにアルヴィンを見つめる。
「お前もいつか王になるかもしれない」
「……」
その言葉の重さをアルヴィンは感じる。
「その時は――」
言葉が途切れる。
カールは何かを言いかけて止めた。
複雑な表情がその顔に浮かぶ。期待と不安と願いと恐れ。
ただ息子の頭に手を置く。
その手は大きく温かかった。少し荒れている。剣を握り、書類を書き、多くの仕事をしてきた手だ。
「……強くなれ」
最後にそう呟いた。
それだけ。
だがその言葉には全てが込められていた。
その夜。
寝室に戻ったアルヴィンは窓の外を見つめていた。
月が空に昇っている。満月に近い大きな月だ。
その光が王都を照らしている。
静かな夜。星が無数に輝いている。
王都の街。そこに住む民たち。
一つ一つの家に、明かりが灯っている。それぞれの家族が、それぞれの時間を過ごしている。
食事をしている家族、本を読んでいる老人、眠りにつく子供たち。
――父はあの全てを守っている。
その重さを少しだけ理解した。
何万もの命と何万もの人生を背負うということ。
一つの判断ミスが多くの命を奪う。その恐怖と責任。
――俺も、いつか。
まだ赤子の体だが心の中で誓う。
――この人みたいな王になりたい。
民を愛し、民に愛される。そんな王に。
権力のためではなく、民のために働く。自己保身ではなく、他者のために生きる。
前世では誰のためにも生きなかった。
研究だけが全てだった。知識を追い求め、真理を探究し、それ以外には興味がなかった。
人間関係は面倒だった。誰かのために何かをするなど、時間の無駄だと思っていた。
だが今度は違う。
――誰かのために生きよう。
父のように。
月が静かに輝いている。
その光の中で、アルヴィンは小さく拳を握った。
まだ力のない小さな手。だがいつか強くなる。
――待っていろ。
小さく拳を握ったまま、アルヴィンは心の中で誓った。いつか父を超える王になる、と。
一方、カールは一人執務室に残っていた。
窓の外を見つめながら静かに立っている。
月明かりがその姿を照らしている。
机の上の書類はまだ残っている。明日もその次の日も終わることはない。
だが今は仕事の手を止めている。
ただ、夜空を見上げている。
「……アルヴィン」
その声は、誰にも聞こえない。
静かな独白。
「お前は王になどならない方がいい」
拳をわずかに握る。
その手が、震えている。
「この重責を、お前に背負わせたくない」
目を閉じる。
今日見た全てのことを思い出す。
不作に苦しむ東部の民。魔獣に襲われた村。死んだ十二名の人々。
外交問題。貴族たちの争い。国を取り巻く危機。
そして、一人で全てを背負う孤独。
「お前には、自由に生きてほしい」
本音が、漏れる。
王としてではなく、父として。
「笑って、幸せに、自分の道を歩んでほしい」
「それでもお前が選ぶなら」
月明かりがその横顔を照らす。
厳格さと疲労を滲ませながらも、強い意志を宿した顔。
「俺は全てを教えよう」
王としての覚悟も責任も、そして代償も。
拳を強く握る。
「俺が味わった全ての苦しみまで、隠さずにな」
息子に重責を背負わせたくない。だが息子が選ぶなら、全力で支える。矛盾していても、その覚悟をカールは受け入れていた。
窓の外で風が吹く。
木々が揺れ、葉が擦れる音がする。
カールは静かに目を開ける。
そして再び机に向かう。
まだ仕事は終わっていない。
王の仕事は、決して終わることがない。
最後まで構想はあるんだけど、膨大になりすぎてしまうので、どうしようと、悩んで、手が、動かない。。




