第5話 言葉と世界
精神的な変化を文字で表すのってむつかしい
生後一歳八ヶ月。
春の午後、陽光が窓から差し込む穏やかな時間に、アルヴィンは言葉を覚え始めた。
母エリザベスの膝の上で絵本を見つめる。美しい挿絵と色とりどりの魔法陣、踊るような文字を目で追い、まだ読めなくても形は認識できる。母が読んでくれる音と文字の形を、少しずつ結びつけていった。
「ま……ま……」
小さな声が喉から漏れる。
絵本に描かれた魔法陣を指差しながら。
「まあ! アルヴィン、喋ったわ!」
エリザベスが喜びの声を上げ、その声が部屋中に響く。侍女たちも驚いて顔を上げた。
「ママ、って言おうとしてるのね!」
母が目を輝かせて息子を見つめる。
――いや違う。
アルヴィンは心の中で否定する。今言おうとしたのは「魔法」の「ま」だった。母が読んでいた絵本の美しい魔法陣を見て、思わず「魔法」と言いかけたのだ。
だがそれを言うわけにはいかない。一歳八ヶ月の赤子が、最初に「魔法」という単語を発するのは不自然すぎる。
「まま」
仕方なく、母を喜ばせるために「ママ」と言う。演技であり偽りだが、今は必要な嘘だった。
「ああ、可愛い! アルヴィン!」
エリザベスは息子を抱きしめる。温かく優しいその腕は愛に満ちていて、アルヴィンはその温もりにわずかな罪悪感を覚えた。
――俺は普通の赤子じゃない。
――前世の記憶を持つ、三十二歳の男だ。
――母を騙している。
それなのに、こんなにも愛されている。ただ存在するだけで無条件に愛されるという事実が胸を締め付け、嬉しさと罪悪感が混ざり合った。
だが言えるはずもない。
転生者だと知られれば、どうなるか。
異端として迫害されるかもしれない。魔女狩りのようなものが、この世界にもあるかもしれない。
あるいは研究対象として監禁されるかもしれない。
――だから、隠すしかない。
これは自分だけの秘密で、誰にも言えない孤独だった。
前世と同じ孤独――そう思った、だが。
「愛してるわ、アルヴィン」
母の言葉が、その孤独を和らげる。温かい声と優しい腕に包まれるうちに、前世とは違うのだと腑に落ちた。前世は「誰もいない孤独」だったが、今の孤独には確かな温もりがある。
それだけで十分だ。十分すぎるほどだ。
生後二歳。
夏の暑い日で、窓を開けても生温い風が入ってくるだけだった。
アルヴィンの言語習得速度は異常で、通常の二歳児が話す「ママ」「パパ」「ワンワン」といった単語の段階を越え、すでに短い文章を組み立てられるようになっていた。
「おかあさま、これは?」
絵本を指差して尋ねる。
その発音も、二歳児としては異常に明瞭だった。
「これは魔法陣よ。魔法を使う時に描く図形なの」
エリザベスが優しく答える。
その声には驚きは隠せていない。息子の成長の速さに戸惑いながらも喜んでいる。
「まほうじん……」
アルヴィンがその言葉を繰り返し、舌を使って発音を確かめる。
「そうよ賢いわね、アルヴィン」
母が頭を撫でる。その温かな手の感触に目を細めるふりをしながら、アルヴィンは部屋の隅へ意識を向けた。聞こえないと思っているのだろう、侍女たちが声を潜めて言葉を交わしている。
「王子様、言葉が早すぎませんか?」
囁き声は抑えていても、不安の色は隠しきれていない。
「天才児なのでしょう。魔力はなくとも、知能は高いのかもしれません」
もう一人の侍女が、言い聞かせるように続けた。
「いえ、でも……異常ですよ。まるで最初から知っていたかのような……」
その言葉にヒヤリとする。この侍女は鋭い。少し目立ちすぎたかもしれない。
アルヴィンは心の中で後悔する。
もう少し普通の子供のふりをするべきだったかもしれない。
成長が遅いように見せ、周囲の期待を下げておくべきだったかもしれない。
だが知識欲は抑えられなかった。この世界と魔法、世界の仕組みを理解したい。前世の探究心は今世でも燃えており、むしろ前世以上だった。今は守るべきものがあるからだ。
知識は力だ。知ることで守れる。だから学ぶ。
母との時間はまた違った学びがあった。
秋の午後、窓の外では木々の葉が色づき始めていた。
部屋は静かで、暖炉の火が心地よい暖かさを作っている。
「アルヴィン、今日は魔法のお話をしましょう」
エリザベスは美しい絵本を開く。革装丁の豪華な本で、王家の蔵書だろう。ページをめくる音がパラパラと響く。
「魔法にはね、七つの基本属性があるの」
絵本には色とりどりの魔法陣が描かれていた。赤、青、緑、茶、白、黒、黄。それぞれが美しい幾何学模様を形作っている。
「火、水、風、土、光、闇、雷。それぞれに得意なことがあるのよ」
母の指が一つ一つの魔法陣をなぞる。
「……ひ、みず、かぜ……」
アルヴィンが繰り返す。その目は魔法陣を凝視し、形を記憶に刻み込もうとしていた。
「そう。火は攻撃が得意。水は変化が得意。風は速さが得意……」
母の説明をアルヴィンは真剣に聞いた。一言も漏らさず、前世の知識と照らし合わせる。
火――燃焼反応。酸化によるエネルギー放出。熱と光。これは分かる。
水――流体。分子間力で結合する極性分子。前世で何度も扱った。
風――気圧差による流体の移動。ベルヌーイの定理が当てはまるはずだ。
土・光・雷にも、それぞれ対応する物理法則が思い浮かぶ。固体力学、電磁波、プラズマ。
闇だけは難しい。光の吸収か、それともエントロピー増大か。
ここまでなら、前世の知識で説明できる。
だが、そこで思考は止まった。魔法の火は「無から」生成される。質量保存則もエネルギー保存則も崩れるうえ、水や土まで何もない場所から生まれるなら、前世の物理法則とは両立しない。
魔法には前世の物理法則を超えた「何か」がある。新しい次元のエネルギーか、異なる法則か、それともまだ知らない科学か。科学的思考は理解の助けになるが、完全には説明しきれない――それがこの世界の「魔法」だった。
――そうだ。魔法はこの世界の物理法則だ。
――前世の物理法則とは違う、新しい法則。
――ならば、前世の知識を応用しながら、新しい法則を学べばいい。
期待が膨らみ、研究者としての血が騒ぐ。前世では到達できなかった真理へ、今度は魔法という新しいアプローチで届けるかもしれない。
「お母様、魔法は誰でも使えるの?」
アルヴィンが尋ねる。その声は幼いが真剣だった。
「ええ、魔力がある人ならね」
エリザベスが答える。その声にはわずかな影がある。
「魔力は生まれつき決まっているの。測定で分かるのよ」
「……ぼくは?」
その問いにエリザベスの表情が曇る。目が伏せられ、唇がわずかに震えた。
「……アルヴィン、あなたは……」
言葉を濁す母。言いたくない、息子を傷つけたくない。だが嘘もつけない。
だがアルヴィンは分かっていた。自分は「ゼロ」判定、魔法が使えないと思われている。
それでも、すぐに別の仮説が浮かぶ。――だが本当にそうか。魔力暴走は確かにあったし、あの時は周囲の人々を倒すほど魔力が暴れていた。ならば魔力そのものはあり、通常の測定法で捉えられないだけだ。
――ならば、いつか使えるようになる。そう信じることにした。信じなければ前に進めない。
「だいじょうぶ」
アルヴィンは母に微笑みかける。二歳児らしいあどけない笑顔だが、その目には強い意志があった。
「ぼく、がんばる」
「……アルヴィン」
エリザベスは涙ぐみながら息子を強く、強く抱きしめた。その腕が震えている。
「ありがとう。お母様、あなたを信じているわ」
涙声のまま、エリザベスは息子の強さに救われると同時に、その孤独も感じ取っていた。魔力ゼロという現実があっても前を向く息子に、母としてできるのは愛することだけだった。
生後二歳半、冬の寒い日。雪が窓の外で舞っている。
アルヴィンは王宮の中を自由に歩けるようになった。とはいえ、まだ「行けるようになった」ばかりだ。小さな足で侍女に付き添われて回廊を進むたび、知らなかった王宮の輪郭が少しずつ増えていく。
観察する。人々の会話、世界の情勢。耳を澄ませ、目を凝らし、すべてを記憶する。
その日も、まずは図書館に入った。
普段なら咳払いひとつ憚られる図書館で、司書たちが本棚の影に寄って声を潜めていた。紙をめくる音しかない空間に、ひそひそ話だけが不自然に浮いている。
「聞いたか? 北方でまた魔獣が出たらしい」
本を抱えた若い司書が、声を潜めて隣に身を寄せる。
「ああ。冬が近づくと、餌を求めて人里まで下りてくる個体が増えるからな」
年配の司書は帳簿に目を落としたまま、重い口調で返した。
「討伐には第三騎士団が向かったらしい」
その名を聞いて、周囲の司書たちの手が一瞬止まる。
――魔獣。アルヴィンはその単語を心の中で反芻する。この世界の脅威であり、人を襲う危険な存在。前世にはなかった新しい脅威だ。
司書たちのひそひそ声が遠のくころ、侍女に手を引かれてアルヴィンは訓練場へ向かった。
訓練場は、アルヴィンにとってまだ見慣れない場所だった。遠くから音だけを聞いていたころと違い、今は踏み込みの癖や呼吸の乱れまで目に入る。休憩中の騎士たちが武具を外し、輪になって雑談していた。
「最近、隣国との関係が悪化してるって話だ」
鎧を脱いだ騎士が水袋をあおり、額の汗を乱暴に拭った。
「ガルヴァード帝国だろ? あそこは拡張主義だからな」
別の騎士が苦い顔で木剣の刃こぼれを確かめる。
――ガルヴァード帝国。
騎士の言葉を聞いた瞬間、図書館で読んだ地誌の一節が頭に浮かぶ。
ガルヴァード帝国は大陸東部で版図を広げてきた軍事国家。百年戦争の停戦後もヴェルディアとの火種は消えず、今は剣を抜かぬまま戦力を誇示し合う冷戦が続いている。
「このままじゃ戦争になるかもしれん。今のうちに備えておかないとな」
その言葉に、笑っていた騎士たちの空気がすっと引き締まった。
――戦争。国際関係は複雑で、この王国は平和一色ではなく、外に敵を抱えている。
木剣の打音を背に、今度は湯気と香りが流れる厨房へ回る。
厨房に足を踏み入れると、鍋の沸く音と包丁の刻む音が重なり、香草と焼いた肉の匂いが一気に押し寄せる。その騒がしさの中で、料理人たちは噂話を続けていた。
「それより古代遺跡の調査はどうなった?」
野菜を刻む包丁の音に重ねて、別の料理人が鍋をかき混ぜながら答える。
「ああ、虚空の大迷宮か。まだ最深部には誰も到達してないらしい」
「雷帝陛下ですら、途中で引き返したって話だしな」
その言葉に、下ごしらえをしていた見習いたちから驚きの声が上がった。
「S級の陛下でさえ? どれだけ危険なんだよ」
「さあな。ただ、最深部には“何か”があるって噂だ」
――虚空の大迷宮。父カールでさえ到達できなかった場所に、何があるのか。
魔獣、戦争、古代遺跡。拾った情報はどれも、この世界が平穏の表皮の下に危険を抱えている事実を示していた。
前世の研究室のような安全地帯はない。だからこそ知り、鍛え、備える必要がある。守るべき相手がいる以上、強さは選択ではなく責任だった。
そして生後二歳半、冬が終わり春が近づく。雪が溶け始め、空気は少しずつ柔らかくなっていた。
世界の危険、魔法の基礎、父の苦悩。得た情報のすべてがアルヴィンの中に積み重なり、強くならなければという想いは日に日に強くなっていく。
窓の外を見る。春の訪れ、新しい季節。前世では季節の変化など気にせず研究室に籠もっていたが、今は心から美しいと思える。
――変わったな、俺も。前世では感じなかった感情が芽生えている。愛情と温もり、そして守りたいという想い。自分のためだけに生きた前世とは、もう違う。
――この世界で、誰かのために生きよう。
――この温もりを守ろう。
小さな拳を握りしめ、決意を胸に刻む。まだ二歳半で幼い体でも、心は決まっていた。この世界で強く生き、家族を守ると誓った。
か、かきなおすかも・・・




