第3話 生と死の境界
細かく描写しているのはいみがあります。はい。
それは生後一歳の誕生日の夜に起こった。
月のない暗い夜、城全体が静まり返り、誰もが眠りについた深夜だった。
突然、アルヴィンの体温が急上昇した。
これまでで最悪の魔力暴走、いや、これまでとは次元が違う異常だった。
小さな体から目に見えない波動が放射され、空気が震え、壁が軋み、窓ガラスはピキピキと亀裂の音を立てた。
「アルヴィン!」
エリザベスの悲鳴が王宮に響き渡る。
彼女は寝室で、息子の異変に気づいた。いつものように隣で眠っていたアルヴィンが――燃えるように熱かった。
部屋の空気そのものが熱を帯びている。まるで真夏の日差しの中にいるような、耐え難い暑さ。
侍女たちが慌てて駆けつける。足音が廊下を響かせる。扉が勢いよく開かれる。
だが、次の瞬間だった。
「うっ……!」
部屋に入った瞬間、侍女が膝をつく。
次の侍女も、その次も、次々に倒れていく。
アルヴィンから放出される魔力が周囲の生命力すら吸い取っている。まるでブラックホールのように容赦なく。
「近づくな! お前たちは下がれ!」
カールの声が響く。
王は外套も着けず、寝間着のまま駆けつけていた。だがその威厳は失われていない。銀髪が乱れ、顔には焦燥の色が浮かんでいるが瞳は鋭い。
侍女たちがよろめきながら退室する。
カール自身が息子の元へ駆け寄る。床に転がるように横たわるアルヴィンへ。
アルヴィンは苦しそうに身悶えていた。小さな顔は真っ赤で、汗がシーツを濡らし、口を開けて必死に空気を求めている。だが呼吸は浅く短く、まるで溺れているようだった。
小さな体は異常な熱を帯び、触れられないほどだった。周囲の空気さえ歪んで見える。
「カール様!」
エリザベスが夫を見る。その目には恐怖と懇願が混ざっている。
「大丈夫だ」
カールが答える。だが声は緊張で硬かった。
「俺の魔力なら、耐えられる」
S級魔法使いであるカールは雷の魔力を身に纏い、その体を青白い光で包んだ。
そして息子に手を伸ばす。
触れる。
その瞬間――
ビリビリと魔力が吸い取られる感覚。
カールの雷魔力がまるで穴の開いたバケツの水のようにアルヴィンに流れ込んでいく。
だがそれでも足りない。いくら注いでも、底なしのように吸い込まれていく。
カールは自身の雷の魔力で、アルヴィンの暴走を抑え、制御し、鎮めようとした。
だが、結果は変わらない。
「……駄目だ」
カールの顔に驚愕の色。
「制御できない」
初めて、この男の顔に焦りが浮かぶ。
雷帝と恐れられた男が、かつて戦場で千の敵を薙ぎ払った男が、今は一歳の息子の魔力を前に無力だった。
アルヴィンの魔力暴走はもはや常軌を逸していた。
ゼロ判定だったはずの子供が、魔力を持たないはずの王子が、なぜこれほどの力を放つのか。
いや、これは本当に魔力なのか。カールの胸をよぎったのは、もっと別の何かだった。
「私にやらせてください」
エリザベスが進み出る。
その足取りは震えていない。蒼色の瞳が息子を見つめている。
母としての、決意の目。
「エリザベス、危険だ!」
カールが止めようとする。
「俺でも制御できないんだ。お前が近づけば――」
「この子は私の息子です」
エリザベスがカールの言葉を遮る。
その声は静かだが揺るぎない。
「母として、見捨てられません。たとえ、命を落とすことになっても」
カールの目が見開かれる。
妻の覚悟を知り。
そして何も言えなかった。
エリザベスはアルヴィンを抱き上げた。
熱い。あまりにも熱い。手が焼けるように痛み、腕に抱いた体は火のかたまりのように熱を放っていた。
だが彼女は離さなかった。
抱きしめ、額を合わせ、自身の魔力を込めて子守唄を歌い始めた。
「眠れ、愛しい我が子よ……」
その声は震えていた。だが優しかった。
「お月様が見守ってくれる……」
光属性の魔力がエリザベスの体から溢れ出す。
柔らかく温かな光が、優しくアルヴィンを包む。
「お星様が歌ってくれる……」
母の歌声、母の魔力、母の温もり。そのすべてが暴走する息子を鎮めようとしていた。
だがそれでも暴走は止まらない。
いや、むしろ激しくなっていく。
「エリザベス……!」
カールが妻に駆け寄ろうとする。
だがエリザベスは首を振った。
「大丈夫です……この子は聞いてくれています……」
涙が頬を伝う。
「必ず、戻ってきてくれる……」
その言葉は祈りだった。
アルヴィンの意識は闇の中を漂っていた。体の感覚はなく、痛みも熱さも遠い。ついさっきまで全身が焼けるようだったはずなのに、今はただ意識だけがどこか遠くへ流されていく。
川に落ちた木の葉のように、抵抗もできず、ただ流される。
――ああ、これは。
死、というものか。
前世でも死は経験した。あの爆発の瞬間だ。
だが今回は違う。前回は一瞬で終わったのに、今はゆっくりと確実に死へ向かっている。意識が薄れていく過程をすべて感じながら、生と死の境界線を一歩ずつ踏み越えていく感覚があった。
――このまま、消えるのか。
――また終わるのか。
――何も成し遂げずに。
その時、目の前に光が見えた。いや、光ではない。走馬灯のように、前世の映像が古いフィルムめいたノイズをまとって流れ始めた。
研究室の白い蛍光灯、机に積み上がった論文、夜明け前の冷えたコーヒー。そこにいた俺は、真実を追うことだけを生きる理由にしていた。誰かと生きることを後回しにして、最後にはそれ以外を全部失った。
それでも手放せなかった。世界の根源を知りたいという渇きだけは、死ぬ瞬間まで消えなかった。
――いや、違う。
――あの時、俺は選んだ。
記憶がさらに鮮明になる。
暗闇の奥で交わした、虚無の存在との対話。それは声でも音でもなく、概念が直接、魂に触れる感覚だった。
『汝、世界の終わりで何を願う?』
問いかけられた。
何を願う。もう一度研究を続けるのか。だが前の世界では限界だった。物理法則に縛られすぎている。
『別の世界で、再び真実を求めるか』
『魔法の世界。物理法則を超えた、新たな真実がある世界』
――ああ、そうだ。
俺は転生を選び、もう一度真実を求めることを決めた。新しい世界で新しい法則を学び、新しい真実を見つけるために。
だが、それは正しかったのか?
今、また死のうとしている。
生後一年で、何も成し遂げず。
前世と同じだ。孤独で、誰にも理解されず、一人で消えていく。
――いや違う。
その時、心の奥で何かが叫んだ。今度は違う。母がいて父がいて兄たちがいる。自分のために泣き、必死に呼びかけてくれる人がいる。
――ああ、そうか。
俺はもう孤独じゃない。
前世とは違う。
誰かが自分を必要とし、誰かが自分を愛してくれている。
――だから死ねない。まだ終われない。
その瞬間、闇の中に何かが現れた。
――黒い霧。
それは前世の死の瞬間、研究室で見たものと同じだった。
虚無。完全な無。だが確かに存在するもの。無なのに在るという、矛盾そのもの。
「……またお前か」
声にならない声で、呟く。
黒い霧がゆっくりと形を変える。
人の形――いや人のようで、人ではない。
輪郭が定まらない。境界が曖昧だ。見ようとすると視界が歪む。
虚無の存在。名前も姿もなく、ただ確かに「在る」何か。
――お前は……
問いかけようとするが声にならない。喉も口も体もなく、ここにあるのは魂だけだった。
何かが――伝わってくる。
言葉ではない。もっと根源的な、概念。直接、魂に刻み込まれる情報。
――ゼロ。虚無。終わり――
それは生命も意識もすべてが閉じる終幕であり、同時に始まりでもある。終わりは始まりで、無は有を生み、ゼロよりすべてが生まれる。
その言葉が魂に響く。
ゼロより生まれる――
それはどこかで聞いた言葉。
預言? いや違う。もっと根源的な、真理。
――まだ、終わりではない――
――汝の物語は始まったばかり――
――故に戻れ――
その瞬間、遠くから声が聞こえた。
とても遠くから、だが確かに聞こえる声。
「……アルヴィン……お願い……」
泣き声だった。必死に呼びかける声は震え、嗚咽が混じっている。
「……行かないで……お母様を……置いていかないで……」
――ああ、この声だ。
自分を呼び、自分を必要とし、自分を愛している声。
――そうだ。帰らなければ。待っている人がいる。
前世にはなかった温かい場所へ。前世には得られなかった愛のある場所へ。
暗闇が少しずつ薄れ、黒い霧も消えていく。
虚無の存在が最後に――何かを残していった。
――いずれ、また会おう――
――その時まで、生きよ――
そして意識が引き戻される。
まるで深い海の底から引き上げられるように。
急速に現実へ。
「アルヴィン、お願い目を開けて!」
母の声がする。目を開ける。
最初は何も見えない。視界がぼやけている。光だけが滲んで見える。
徐々に、焦点が合っていく。
そこには涙でぐしゃぐしゃになった母の顔があった。
蒼色の髪が乱れ、目は赤く腫れ、頬は涙で濡れている。
だがその顔には、必死にこらえた喜びの笑顔があった。
「……あ……」
小さく声を出す。それだけで精一杯だった。喉はカラカラに乾き、声はかすれていた。
だが確かに声を出せた。
それは生きている証だった。
「アルヴィン! 生きてる! 生きてるわ!」
エリザベスが息子を抱きしめる。
強く、強く。まるで二度と離すまいとするように。
その腕の中で、アルヴィンは「ああ、戻ってきた」と実感した。まだ終わりじゃない。もう少し、この温もりを感じていたい。
「エリザベス……」
カールが妻の肩に手を置く。
その手が震えている。
そして妻と息子を両腕で抱きしめる。
「よく、戻ってきてくれた……」
その声は震えていた。
雷帝と呼ばれ、戦場で無敵を誇った王が、今は一人の父親として息子の無事を喜んでいた。声を震わせ、目に涙を浮かべて。
三人はしばらくそのまま抱き合っていた。
部屋の外では侍女たちが回復し、不安そうに様子を窺っている。
だが誰も中には入らない。
この瞬間は家族だけのものだった。
夜明け前、宮廷魔導師たちが最低限の検査だけを行った。
アーロンは数値の推移を見て、息を詰めるように言った。
「暴走値は急低下しています。前回の仮説どおり、王子の内側で均衡が取り直されたのでしょう」
ゼロ判定そのものは変わらない。だが一歳時点での最大暴走を越えて、アルヴィンの脈と呼吸は安定域へ戻っていた。
詳しい理屈はまだ誰にも分からない。
それでも王宮は今回の一件を受け、寝室の隔壁強化、夜間当番の再編、発作時手順書の改訂をすぐに決めた。次に同じ夜が来ても、ただ慌てるだけで終わらせないためだ。
数日後。
熱は下がり、発作も止まった。アルヴィンは母の腕の中で静かに呼吸し、昼間には窓辺で外を眺める余裕すら取り戻していた。
そして内側でも、大きな変化が起きていた。断片だった前世の記憶が一本の線として繋がり、虚無と交わした問いだけが、焼き印のように残っている。
――何のために生きるのか。
前世の俺は、その答えを真実の探究だけに絞りすぎた。今世の俺は、そこにもう一つの答えを重ねる。守るべき人のために生きることだ。
虚無の存在が本当に何を望んでいるのかは、まだ分からない。だが次に呼ばれた時、今度は受け身では終わらない。何を差し出し、何を守るのか、自分の言葉で選び取る。
今はまだ、一歳の体でしかない。
それでも、ここからだ。
「う〜」
アルヴィンは母に向かって手を伸ばす。
一歳の赤子らしい、拙い動作。
エリザベスが優しく微笑んで抱き上げる。
「元気になったのね、アルヴィン」
その声は幸せに満ちていた。息子が生きている、それだけでこの上ない喜びなのだ。
――言葉にはできないが、心の中で深くうなずく。
――あなたに救われた命だから、今度は守る側に回る。父さんも兄さんたちも、この温もりも、二度と失わない。
窓の外では春の陽光が降り注ぎ、庭園の花が風に揺れ、鳥がさえずっている。前世では気づかなかった世界の美しさに、今ようやく気づいた。
節制




