第2話 魔力暴走の始まり
いらっしゃいませ~(読んでくれてありがとうの意)
生後一ヶ月。
私――アルヴィンは地獄にいた。
それは比喩ではない。文字通り地獄と呼ぶべき苦しみの中にあった。
全身が焼けるように熱い。
焼けるというより、本当に内側から炙られている感覚だった。皮膚も筋肉も骨も、溶岩に沈められたように熱を持つ。
意識は朦朧とし、視界は歪み、天井さえ揺れて見える。音も遠く、深い水の底から聞こえてくるようにこもっていた。
呼吸が苦しい。空気がまるで熱湯のように喉を焼く。
――何が起こっている?
赤子の体では言葉を発せず、泣くことしかできない。だがその泣き声すらか細く途切れ、喉は枯れて声が出なかった。
「アルヴィン! アルヴィン!」
母の声が聞こえる。
必死に呼びかける声は震え、明らかに泣いていた。
だがそれに応えることもできない。応えたいのに体が動かない。
体がおかしい。
何かが中で暴れている。見えない何かが体の中を引き裂こうとしている。
前世の記憶がまだ曖昧な今、自分に何が起こっているのか理解できない。ただ確かなことが一つある。
このままでは死ぬ。
また――死ぬ。
それは生後三週間目のことだった。
夜明け前。まだ薄暗い部屋で、最初の異変は突然訪れた。
侍女がいつものようにアルヴィンの様子を見に来た。毛布を直そうと小さな額に手を当てた瞬間――
「きゃあっ!」
侍女は悲鳴を上げて手を引っ込めた。指先は赤く腫れ、まるで熱湯に触れた直後のようだった。
「熱い! 王子様の体が異常に熱い!」
その叫び声で、部屋中の侍女が飛び起きた。蝋燭が灯される。揺れる炎が小さな赤子の姿を照らし出す。
アルヴィンの顔は真っ赤だった。汗が滝のように流れている。絹の産着がびっしょりと濡れている。
するとその体から、湯気が立ち上っていた。
まるで沸騰した湯のように。
「すぐに陛下と王妃様を! 宮廷医師も!」
部屋は一気に慌ただしくなり、廊下を走る足音と扉の開閉音に混じって、遠くから悲鳴のような叫び声が響いた。
だがアルヴィンには、それらが遠く聞こえた。意識がどんどん遠のいていく。
宮廷医師が駆けつけた。白い髭を蓄えた老人。震える手で、アルヴィンに触れようとする。
「これは……」
だが触れる前にその老医師が突然よろめいた。
「う……っ!」
顔色が青白くなりその場に膝をつく。
「医師殿!」
侍女が駆け寄る。だが次の瞬間、アルヴィンに近づいた者が次々に倒れていった。
まるで見えない何かに、力を吸い取られるように。
魔法が得意な侍女がふらりと倒れる。宮廷魔導師の見習いが白目を剥いて気を失う。
部屋中が混乱に陥った。
「何が起こっているのです!」
エリザベスが部屋に飛び込んできた。
寝巻のまま、髪も乱れたまま。だがその蒼色の瞳には母としての強い意志が宿っている。
息子のベッドに駆け寄る。倒れた侍女たちを押しのけて。
「王妃様、危険です!」
誰かが止めようとする。だがエリザベスは聞かなかった。
小さな手を握る。
異常なほど熱い。それでも母は手を離さなかった。
「アルヴィン……お母様よ……聞こえて?」
優しく、必死に呼びかける。
その声に――アルヴィンの意識がわずかに反応した。
――母さん……
言葉にはできない。だがその温もりを感じた。
倒れた侍女たちを治療するため、別の魔導師が呼ばれた。
そして宮廷魔導師長――アーロンが到着した。
長い白髭。深く刻まれた皺。だがその目は鋭く、知性に満ちている。
アーロンは部屋に入るとすぐに状況を理解した。
「……これは」
その老いた目が驚愕に見開かれる。
アルヴィンの周囲――半径数メートルに魔力の乱れが見える。魔法使いには見える、目に見えない魔力の流れ。
それがまるで渦を巻くように赤子に吸い込まれている。
「王妃様……」
アーロンが恐る恐る告げる。
「アルヴィン王子が周囲の魔力を吸収しているのです」
「魔力を……吸収?」
エリザベスの声が震える。
「はい。無意識に制御できずに。まるで暴走した魔力炉のように……近づいた者の魔力を無差別に奪っているのです」
その言葉に部屋が静まり返った。
カール13世が部屋に入ってくる。外套を羽織っただけの姿。だがその威厳は失われていない。
「原因は何だ?」
王の問いにアーロンは苦渋の表情で首を振った。
「……分かりません。陛下」
その声がわずかに震える。長年魔法を研究してきた老魔導師が初めて理解できない現象を前にしている。
「こんな症例は聞いたことがありません。ゼロ判定だったはずなのになぜ魔力が暴走しているのか……矛盾しています。ありえないことです」
「ありえないと言っても、目の前で起こっているではないか」
カールの声が低く響く。
「可能性を述べろ。仮説でもいい」
アーロンはしばらく沈黙した後、口を開いた。
「……一つだけ、考えられることがあります」
「言え」
「王子の魂と肉体が適合していないのかもしれません」
その言葉に部屋の空気が凍りついた。
「魂と肉体の不適合……それは――」
カールが眉をひそめる。
その金色の瞳に何かが過ぎった。古い知識。秘められた預言。
だがそれ以上は何も言わなかった。ただ妻と息子を見つめるだけだった。
アルヴィンの意識の中で、何かが蠢いていた。
高熱に浮かされるたび、断片的な像が浮かぶ。白い天井、チカチカと点滅する蛍光灯、論文と冷めたコーヒーの匂いが残る研究室、モニターに並ぶ方程式と「量子力学」「ゼロポイント・フィールド」の文字。
夜中のキーボード音は不気味なほど静かで、その先には黒い霧のような亀裂が口を開けていた。そこにあったのは、ただの暗闇なのか、説明のつかない空白なのか。今の自分にはまだ判別できない。
これは夢か、それとも記憶か。答えは出ないまま、像だけが鮮明になっていく。
「う……あ……」
小さな喉から、うめき声が漏れる。
苦しい。体が、受け入れきれない何かを激しく拒絶している。
この生まれたばかりの体に、三十二年分の記憶が押し込まれようとしている。
小さなコップにバケツ一杯の水を注ぐようなものだった。溢れ、軋み、形が崩れていく。
別の「何か」が入り込もうとしているのではない。もう入り込んでいて、それが肉体と激しく軋轢を起こしている。
拒絶反応――朦朧とした意識の底で、ようやくその言葉に辿り着いた。
俺は転生した。異世界に赤子として。
だがこの小さな体は、前世で三十二年生きた魂を受け入れきれていない。魂と肉体の不一致が歪みを生み、その歪みから溢れた魔力が制御を失って暴走している。
「アルヴィン……お願い、諦めないで……」
母の声が聞こえる。
涙声だった。嗚咽を堪えながら、声が震えている。
その声に何かが反応する。胸の奥で、温かいものが広がる。
――ああ、そうだ。
前世では知らなかった感覚が、胸の奥で熱を帯びる。誰かに必要とされ、誰かが自分のために泣き、誰かが自分を愛しているという実感だった。
前世では、死んでも泣いてくれる者はいなかった。だが今は違う。この小さな手を握る母が、自分のために涙をこぼしている。
――だから、生きよう。
小さな意志が魂の奥底で灯る。ろうそくの火のように弱く頼りないが、確かに灯った。
生後二ヶ月。
アルヴィンの容態は一進一退を繰り返していた。
高熱が出ては下がりまた上がる。魔力の暴走が収まったかと思えば、また激しくなる。
その度にエリザベスは眠らずに看病を続けた。
目の下に深い隈ができている。頬が痩せ、顔色が悪い。長い蒼色の髪も、艶を失いかけている。
「王妃様、少しお休みください。このままではお体が持ちません」
侍女が心配そうに声をかける。温かいスープの椀を持って。
だがエリザベスは首を横に振った。
「私がいないとこの子は不安なのです」
その声は静かだが強い意志に満ちていた。
事実、エリザベスが側を離れるとアルヴィンの容態は悪化した。
高熱が上がる。魔力の暴走が激しくなる。周囲の侍女が次々と倒れる。
そして彼女が戻ると――不思議なことに少しだけ安定する。
熱が下がり、呼吸が少し楽になる。魔力の乱れも、わずかに鎮まっていった。
宮廷魔導師たちはその現象を分析していた。
アーロンがカールに報告する。
「……おそらく、王妃様の魔力が王子を安定させているのでしょう」
「どういうことだ?」
カールが執務室の椅子に深く座ったまま問う。
その顔には疲労の色が濃い。王としての公務をこなしながら、息子の容態を気にかけている。
「王妃様の魔力属性は水と光。特に光属性には浄化と安定化の効果があります」
アーロンが羊皮紙に記された分析結果を示す。
「それが暴走する魔力を鎮めているのかと。光の魔力がまるで鎮静剤のように作用している可能性があります」
「ならば、他の光属性魔法使いでも――」
「いえ、違うのです」
アーロンが首を振る。
その顔に困惑の色。
「我々も、他の光属性魔法使いを試しました。宮廷魔導師の中にも、優れた光魔法使いがおります」
「だが?」
「効果がありませんでした。理論的には説明がつかないのですが……王妃様だけが王子を鎮められるのです」
その言葉にカールは黙って窓の外を見つめた。
そこには、魔法理論だけでは説明しきれない何かがあった。
母と子の絆か、血の繋がりか、あるいは愛という名の力か。少なくとも、数式だけでは届かない領域が目の前にある。
「……エリザベスを休ませてやりたいのだが」
カールが小さく呟く。
「だがそれができない。息子のために妻は自分を犠牲にしている」
その声には無力感が滲んでいた。
雷帝と恐れられた男が。かつて戦場で無敵を誇った王が。
今、何もできずにいる。
ある夜、月明かりが部屋を青白く照らす中で、アルヴィンは前世の記憶に沈んでいた。
夜中の研究室、モニターの光、方程式の列。量子物理学、ゼロポイント・フィールド理論、真空エネルギー――俺は確かにそれらを追っていた研究者だった。
名前や顔はまだ曖昧なのに、「世界の真実を知りたい」という渇きだけが妙に鮮明だ。理解したくて、知りたくて、他のすべてを後回しにしていたことだけは分かる。
実験は失敗し、爆発の中で死んだ。そこまでは確かなのに、その先の記憶は霧がかかったように途切れている。暗闇の奥で何かに触れた気もするし、ただの臨死の幻覚だった気もした。
はっきりしない断片を、赤子の脳が無理やり受け止めようとして軋んでいる。その痛みが、今の暴走と繋がっているのかもしれない。
「う……ぅ……」
意識が覚醒する。
赤子の体で、前世の記憶を思い出す。
それは耐え難い苦痛だった。
三十二年分の記憶が圧縮されて、生後二ヶ月の赤子の脳に流れ込む。
脳が拒絶している。許容量を超え、このままでは壊れそうだった。
それでも魂は受け入れようとする。これは自分の記憶で、失いたくなかった。
その葛藤が魔力の暴走を引き起こす。
体中が熱くなる。まるで溶鉱炉の中にいるように。
「アルヴィン!」
また母の声。
もう何度聞いただろう。この声を。
温かい手が額に触れる。
その瞬間、暴走していた魔力が嘘のように静まった。
熱が引いていく。呼吸が楽になる。痛みが和らいでいく。
――何故だ?
母の手には不思議な力がある。それは魔力だけではない。もっと根源的で、前世の数式では表せなかった何かだ。
愛――そう呼ぶしかない力が、今の自分を確かに救っていた。
「大丈夫よアルヴィン。お母様がここにいるから」
優しい声。
疲れ切っているはずなのに優しさを失わない声。
その声に自分の中の何かが応える。
前世で孤独だった魂が、ここでようやく別の温度を知る。
――ああ、そうだ。今度の人生は一人じゃない。家族がいて、自分を愛してくれる人がいて、守りたい人がいる。
その事実が魂と肉体の橋渡しをしていた。油と水のように反発していた二つが、少しずつ馴染み始める。まだ完全ではないが、確実に変化している。
生後四ヶ月。
ようやく、高熱の頻度が減り始めた。
週に数回だったのが週に一回。そして二週間に一回。
魔力の暴走も、徐々に収まりつつある。
完全に治ったわけではない。まだ、時折暴走する。だが最悪の状態は脱した。
「……奇跡です」
アーロンがカールに報告しながら呟く。
「普通なら、とうに命を落としていてもおかしくない。これほどの魔力暴走に生後間もない赤子が耐えられるはずがない」
「だが生きている」
「はい。これは――」
アーロンが言葉を選ぶ。
「神の奇跡か、あるいは……王子自身の、強靭な生命力か」
その時、部屋にエリザベスが入ってきた。
アルヴィンを抱いて。
彼女の顔には以前のような深い隈はない。少しずつ、回復している。
「この子が強いのよ」
エリザベスが静かに言った。
その蒼色の瞳が息子を見つめる。深い愛情と誇りを込めて。
「この子には生きる理由がある。だから、諦めない。どんなに苦しくても、戦い続ける」
その言葉にカールは何も言わず、ただ妻の肩を抱いた。
二人は小さなアルヴィンを見つめる。
彼は眠っている。苦しみから解放され、穏やかに眠っている。
小さな胸が規則正しく上下している。呼吸が安定している。
頬には健康的な色が戻ってきている。
「……アルヴィン」
カールが小さく呼びかける。
その声は王のものではなく、父のものだった。
「お前は何と戦っている? お前の中には何があるんだ?」
その問いに答えはない。
だがカールの金色の瞳には確信めいたものが浮かんでいた。
この子は普通ではない。
ゼロ判定、魔力暴走、そして生き延びる強さ。
全てが何かを示唆している。
――ゼロより生まれし者。
古い預言の言葉が脳裏をよぎる。
あの羊皮紙に記された、古代文字。
『ゼロより生まれし者――』で始まる、あの不吉な預言。
「まさか……」
だがその先は口にしなかった。
今はただ――息子が生きていることに感謝するだけだ。
生後六ヶ月。
アルヴィンはようやく安定した。
魔力暴走は完全には止まっていない。月に一、二度、軽い症状が出る。だが致命的な状態は脱した。
高熱も、ほとんど出なくなった。
体重も増え、健康的な赤子らしくなってきた。
そして彼の意識の中では大きな変化が起きていた。
前世の記憶が少しずつ整理され始めている。
まだ完全ではない。断片的で、夢のように曖昧な部分も多い。
だが確かに「ある」。
自分は転生者だ。前世があった。研究者だった。
――まだ、全ての理由は思い出せない。
――なぜここに来たのか。何をすべきなのか。
――ただ、生き残った先にしか答えはない。
ある日の午後。
春の陽光が窓から差し込んでいる。
部屋は暖かく、穏やかだ。
エリザベスがアルヴィンを抱いて、窓辺に座っている。
外では庭園の花が咲いている。色とりどりの花が風に揺れている。
赤子の小さな手を優しく握る。
「アルヴィン、よく頑張ったわね」
母の声は愛に満ちていた。
疲れも、苦しみも、すべてを乗り越えた、強い愛。
言葉にはできない。まだ、話すことはできない。
それでも胸の奥で、冷え切っていた何かがゆっくり解けていくのを感じた。
小さな手が母の指を握り返す。
弱い力だが確かに、握った。
エリザベスの目に涙が浮かぶ。嬉しさの涙。
「……生きていてくれて、ありがとう」
その言葉が温かかった。
――まずは、生き延びる。
その先で、失った記憶の意味を確かめる。小さな決意だけを胸に、アルヴィンは母の指を握り続けた。
春の陽光が母子を優しく包んでいた。
まだ、あたまいたいよ・・・!!




