第28話 雷帝降臨
トロールの足音は、もう追ってくる音ではなかった。
すぐ背後で地面を踏み潰す、現実の重さだった。
湿った森の空気が肺に張りつき、息を吸うたびに喉の奥が冷える。逃げる列の中では、誰かの荒い呼吸と、鎧が枝に擦れる高い音が絶えず重なっていた。濡れた土は靴裏へまとわりつき、走るたびに脚を一本ずつ引き止めてくる。
アルヴィンは中央を走りながら、何度目かも分からない深呼吸をした。整えようとしても、呼吸は浅いままだ。三属性複合を放った後の痺れが肩から指先まで残っていて、杖を握る手にうまく力が入らない。
前を行く騎士の背に、斜めの血痕がついていた。別の騎士は片脚を引きずり、それでも列から外れまいとしている。誰も弱音は吐かないが、走り方だけで限界が見えた。
「あと少しで乾いた地面に出る!そこまで崩れるな」
ダリオの声が飛ぶ。
短く、よく通る。だが、その声にも硬さがあった。励ましではない。現実を切り分ける時の声だ。
背後で枝の折れる音が続き、次の瞬間、右後方の木立から岩が転がり出た。トロールが投げたものではなく、走りながら蹴り飛ばされた石だったのだろう。だが、その一つで十分だった。列の最後尾にいた騎士が足を取られ、肩から倒れる。
「立て!」
隣の騎士が腕を掴み、引きずるように立たせる。そこへトロールの唸りが重なった。近い。思ったよりずっと近い。
アルヴィンは振り返り、残った魔力を探る。底が見えかけた井戸を手探りしているみたいだった。火を一つ、風を一つ、あるいは水膜を一度。どれか一回ならまだ捻り出せる。だが、それ以上は無理だ。
列の後方で、騎士が二人同時に足を止めた。後続を守るための減速だ。盾を返し、槍を斜めに構えている。
その判断が正しいことは分かる。だが、その二人だけでは止め切れないことも分かった。
「ダリオさん」
「喋るな、呼吸を整えろ」
「次に来たら、止まりません」
「分かっている」
返答は短かった。否定もしない。
その代わり、ダリオは列の左右を一瞥し、即座に命じる。
「第四、第五。殿下を先へ。全員で囲んで抜けろ」
アルヴィンの左右にいた騎士が、一歩ずつ近づく。護るための位置取りだと分かる。分かるからこそ、胸の奥がきつく縮んだ。
自分だけを押し出せば、列はその分だけ遅くなる。
前も後ろも、全部が自分を中心に歪む。
「嫌です」
口から出た声は、思ったよりはっきりしていた。
ダリオの目がこちらを向く。怒気より先に、確認が来る。
「殿下」
「ぼくだけを守る形にしたら、列がもっと崩れます。今の速度なら、誰かが背中を預ける方がまだ持ちます」
「それでも、殿下を生かすのが最優先だ」
「ぼくだけ生きても、ここで誰かが死んだら、父上は喜びません」
言い切った瞬間、自分でも驚くほど胸が熱くなった。正しさを並べただけではない。逃げたくないのだと、身体の奥が先に決めていた。
背後で金属が軋む音がした。トロールが槍を押し曲げたのだ。
迷っている時間はない。
アルヴィンはダリオを見たまま、もう一度だけ言う。
「一緒に戦います」
返事の代わりに、ダリオは一瞬だけ目を細めた。王子のわがままを見る目ではなかった。前線に立つ者が、無理を承知で賭け札を増やす時の目だ。
「三歩後ろだ。それ以上出るな」
「はい」
「第四、第五は殿下の両脇。引っ張るな、倒すな。殿下が止まったら担いででも抜ける」
「了解!」
命令が落ちた瞬間、列が再編される。
アルヴィンはその動きを見ながら、わずかに残った魔力を指先へ集めた。大きい術式は使えない。なら、小さい歪みを積み重ねるしかない。
後方の盾が、一つはじけるような音を立てた。
トロールが追いつく。
灰緑の巨体が霧を押し分けて現れ、焼け焦げた胸を見せた。さっき穿たれた傷は閉じ切っていない。それでも、さっきより動きが鈍いだけで、止まる気配はなかった。片脚を引きずりながらも、一歩ごとに人間との距離を奪ってくる。
最後尾の騎士が槍を突き出す。胸へ刺さる。トロールは顔もしかめず、槍の柄ごと腕で抱え込み、力任せに引いた。
「離せ!」
騎士が叫ぶ。
次の瞬間、その身体が前へ引き寄せられた。トロールのもう片方の腕が振り上がる。
アルヴィンは考える前に杖を突き出していた。小さな火球を一つだけ、怪物の肘へ撃ち込む。狙ったのは致命傷ではない。握りをずらす一点だけだ。
火が爆ぜ、トロールの腕がわずかに跳ねる。
その拍子に、引き寄せられていた騎士の身体が半歩戻った。別の騎士が肩を掴み、乱暴に後ろへ引く。
「今だ、下がれ!」
だが、代わりに最後尾の盾持ちが間に入った。受け止めるためではない。殴られるために立った形になった。
棍棒ではなく、トロールの素手が盾へ叩きつけられる。
金属の潰れる音。盾ごと騎士が吹き飛び、木の根元へ転がった。
「くっ……!」
アルヴィンの足が勝手に前へ出る。
「殿下、止まれ!」
怒鳴られ、それでも一歩だけ進む。三歩の約束を破る寸前で踏み止まり、水膜を倒れた騎士の前へ滑らせた。直後に飛んできた土塊が水膜にぶつかり、濁った飛沫になって散る。
肩の奥が焼ける。もう一度やれば、腕が上がらなくなる。
倒れた騎士はかろうじて動いた。胸当てがへこみ、呼吸が乱れている。生きている。だが、次はない。
トロールが低く唸る。獲物を奪われた怒りより、まだ壊せると知っている生き物の確信に近い声だった。
列の空気が変わる。
さっきまでは、どう逃げるかを考えていた。
今は、どこで捨て身の足止めに切り替えるかを考えている。
それが分かった瞬間、腹の奥が冷えた。
ここで誰かが残れば、その誰かは帰れない。
しかも残るのは、たぶん一人では済まない。誰か一人が止まれば、もう一人が支えに入り、三人目が時間を稼ぐ。そうやって少しずつ命を削って、ようやく王子一人を森の外へ押し出す形になる。
アルヴィンは唇を噛み、杖を握り直す。指先の痺れは消えない。むしろ強くなっていた。視界の端も少し滲む。それでも、まだ完全な空ではない。火の残りかすみたいな魔力が、ほんの少しだけ底に残っている。
その時だった。
肌の上を、乾いた痺れが走る。
最初は、自分の魔力がまた逆流しかけたのかと思った。だが違う。首筋の産毛が逆立ち、空気そのものに金属の味が混じる。湿気の強い森の匂いの奥に、鋭い焦げ臭さが差し込んできた。
音は、まだない。
だが、空気が鳴る前に、世界の輪郭だけが先に震えた。
アルヴィンは思わず顔を上げる。木々の隙間から見える灰色の空が、かすかに青く瞬いた。
救いかもしれない。
だが、この時のアルヴィンには、その光が何を代償にして落ちてくるものなのか、まだ分からなかった。
「伏せろ!」
誰の声か認識するより先に、全員が身体を低くした。
次の瞬間、雷鳴が森を割った。
耳を殴られたような衝撃。遅れて、白ではなく青い閃光が視界を貫く。トロールの進路、その真正面へ雷が落ち、地面を抉った。泥と木片が噴き上がり、怪物の足が止まる。
同時に、背後の巻き道から一騎が霧を裂いて飛び込んできた。
さっき自分たちには使えなかった、斜面側の細い踏み跡だ。隊列は通せない。だが単騎なら抜けられる。その幅を、ためらいなく駆け抜けてくる。
馬の吐く息まで白く見えるほどの速度だった。騎乗のまま列の脇を駆け抜け、青い火花を散らしながら前方で止まる。乗り手はほとんど減速もせずに地へ降り立った。
蹄が泥を打つ音より早く、周囲の空気が張りつめる。怯えた馬がいななきもせず従っている時点で、その乗り手がただ者ではないと分かった。雷に怯えるどころか、雷を引き連れて走ってきたような気配だった。
銀髪。
長身。
王冠はない。ただ濃い外套の下に、戦う者の輪郭だけがあった。
「父上……」
声が、勝手に漏れた。
カール13世は振り返らない。前を向いたまま、一言だけ落とす。
「よくやった。後は任せろ」
短い。だが、それだけで列の空気が変わった。
緊張が消えたわけではない。むしろ張りつめたまま、別の形へ組み替わった。誰も大声を上げない。騎士たちは本能のように半歩下がり、王の背へ射線と間合いを明け渡す。
その動きに迷いがないことが、かえって異様だった。父が王だからではない。この場にいる全員が、前に出るべき一人が誰かを身体で知っている。
ダリオが膝をつきかけ、すぐに止めた。礼を取るより先に、守るべき局面だと理解している顔だった。
「陛下、負傷者三、戦闘可能六、殿下は消耗大です」
「聞いた。下がれ」
それだけ。
カールは一歩前へ出る。
青白い火花が、その肩から腕へ這った。最初は細い筋だった雷が、呼吸を一つ置くごとに増え、全身の輪郭へまとわりついていく。鎧というより、刃を内側に隠した光の膜だった。空気が震え、湿った土の上で小さな火花が跳ねる。
アルヴィンは息を呑んだ。
書物と噂の中でしか知らなかった姿が、目の前にある。
雷帝の鎧。
トロールもそれを危険と悟ったのか、唸り声を低くする。だが引かない。焼けた脚を引きずりながら、それでも前へ出た。逃げるより壊すことを選ぶ怪物のまま、腕を振り上げる。
カールは動かない。
本当に、最後の一瞬まで動かなかった。
トロールの腕が振り下ろされる、その手前で。
青い線が走った。
遅れて風が裂ける。
アルヴィンの目には、剣が抜かれたところさえ見えなかった。ただ、父のいた場所と、トロールの懐を貫く青い軌跡だけが一瞬残った。次の瞬間にはカールが怪物の背後へ立っていて、手にした剣から細い雷が滴るように落ちている。
トロールの巨体が、音もなく止まった。
胸から肩口へ、斜めの光が走る。
それが裂け目だと理解した時には、巨体はずるりと崩れていた。切断面から遅れて雷が噴き上がり、再生しかけた肉を内側から焼き潰す。焦げた臭いが一気に濃くなる。
あれほど止まらなかった怪物が、たった一合で沈黙した。
アルヴィンは、喉の奥が乾くのを感じた。
自分の三属性複合は、やっと足を止めただけだった。
父の雷は、怪物が立っていたという事実そのものを斬り落としていた。
しかし、それで終わりではなかった。
左右の木立が揺れる。
オーガだ。さっき散った群れの残党か、あるいは血の匂いに寄っていた別群か。二体、三体、さらに奥にも反応がある。今さら出てきても遅いはずなのに、その遅さが逆に悪い。救援直後の隙を狙っている。
ダリオが前へ出ようとしたが、その前にカールの左手が上がった。
空が、再び鳴る。
今度の雷鳴は、さっきより低かった。怒号ではなく、王命のような響きだった。
「そこまでだ」
静かな声。
その一言に応じるように、木々の上で青白い光が幾筋も枝分かれした。
雷が落ちる。
一つではない。天から垂直に落ちた光が、地面へ届く寸前で枝のように分かれ、木立の陰を舐めるように走った。隠れていたオーガの肩が弾け、別の個体の棍棒が手から消し飛ぶ。奥へ退こうとした影にも細い閃きが追いつき、湿った地面へ縫い留めた。
轟音が連続し、森全体が青く明滅する。
木々は焼け残っていた。狙われているのは魔力反応だけだ。無差別に落ちているようでいて、一本一本の雷が意思を持っている。
それがどれほど異常な制御か、アルヴィンには分かった。
強いだけではできない。
広いだけでもできない。
あれは、戦場全体を一つの盤面のように把握し、その上で必要な一点だけを同時に撃ち抜いている。
だからこそ、自分の魔法との違いが痛いほど分かった。アルヴィンの術式は、まだ一つの危機にしか噛みつけない。父の雷は、一撃で怪物を倒すだけではなく、味方が次にどう動けるかまでまとめて作り直していた。
最後の雷が消えた後、森にはじゅうっと濡れたものを焼く音だけが残った。
そして、静かだった。
さっきまであれほど自分たちを追い立てていた圧力が、完全に消えている。
誰もすぐには動けなかった。
騎士たちでさえ、剣を構えたまま父の背を見ている。畏敬という言葉で足りるのか分からない。恐れではない。信頼とも少し違う。圧倒的な何かを目の前にした時、身体が勝手に静まる、あの感覚に近かった。
カールは剣を一振りし、付着した血と焦げを払った。雷の膜がすっと薄れ、青い火花が肩口で消える。
その時、ほんのわずかにだけ、父の呼吸が深くなった。
大した変化ではない。普通の人間なら見逃す程度の、わずかに長い息。
だが、アルヴィンはそれを見た。
見てしまった。
無敵のように立つ背中にも、確かに消耗はあるのだと。
カールが振り返る。
金色の瞳が、まっすぐアルヴィンを捉えた。
「無事か」
「……はい」
短く返したつもりだったのに、声が少し掠れた。
父はそれ以上、余計な言葉を足さない。ただ一歩だけ近づき、アルヴィンの肩へ手を置く。熱い。雷を纏っていた余熱なのか、もともとの体温なのか分からないほど、掌が力強かった。
「立てるな」
「立てます」
「なら帰るぞ」
それだけで十分だった。
ダリオがようやく息を吐き、周囲へ指示を飛ばす。負傷者の確認、警戒、隊列の再構築。さっきまで崩れかけていた動きが、今度は不思議なほど素早く戻っていく。王が前にいるというだけで、兵の足取りまで変わるのだと初めて知った。
アルヴィンはその場で一度だけ、焼け落ちたトロールの残骸を見た。
さっきまで絶望そのものの形をしていたものが、今はもう動かない。
その事実よりも、もっと強く胸に残ったものがある。
父の背中だった。
伝説の英雄。
雷帝。
王。
どの言葉も間違っていない。
だが、今のアルヴィンにとっていちばん正しかったのは、それが父だという事実だった。
泥と血と焦げた雷の匂いを纏い、誰より前に立ち、誰より少ない言葉で全員を生かしてしまう人。
あの背中に追いつきたい、とアルヴィンは初めて明確に思った。
ただ強くなりたいのではない。
守る順序を崩さず、それでも最後に前へ出られる強さが欲しい。
父の手が肩から離れる。その一瞬、指先がごくわずかに強く食い込んだ気がした。疲労か、確かめるための力か、アルヴィンには分からない。
分からないまま、それでも歩き出す。
霧の森の先を行く父の背は、伝説より大きく見えた。
そして、伝説よりずっと近かった。




