第10話 小さな炎
っふ
秘密の訓練を始めて二週間が経った。毎晩、深夜二時に起きて一時間の魔力制御を続けている。少しずつ、確実に成長している実感があった。
体内での魔力循環はもう完璧だ。思った通りに各部位へ送り込める。そして今夜、ついに次のステップに進む。
満月に近い明るい月明かりが窓から差し込む中、いつもの瞑想の姿勢で座った。呼吸を整え、意識を内側に向ける。もう日課になった手順で、すぐに魔力核を捉えることができた。
――今夜は、魔力を体の外に出す。
これまでは体内循環だけだった。だが魔法を使うには魔力を外部に放出し、特定の形にイメージして投影しなければならない。イメージが明確であるほど魔法は安定する。図書館で学んだ理論は頭に入っている。
まずは最も基本的な火属性。火は熱と光、エネルギーの可視化だ。酸化反応、分子の激しい振動。科学的な理解をイメージに組み込む。
目を閉じ、深く呼吸する。魔力核からゆっくりと魔力を引き出し、右手に集めた。腕を通って流れていく温かな感覚。手のひらに魔力が集まっていくのを感じながら、集中を深める。
炎をイメージする。母が絵本で見せてくれた火属性の魔法。赤とオレンジの揺らめき、そして熱。酸素と結びつき光と熱を生み出す反応を、魔力に重ねた。
燃えろ。強く、明確に命じる。
「……っ!」
手のひらがぱっと明るくなった。温かい。痛くはない。心臓が跳ね上がり、恐る恐る目を開ける。
そこには、ろうそくの火よりも小さな炎があった。赤くオレンジ色に揺れる、自分の手のひらから生まれた火。
「……で、できた」
声が震えた。喜びと驚きが胸を満たし、目頭が熱くなる。
ゼロ判定だったはずの自分が、師も手本もなく、独学で魔法を成功させた。科学知識とこの世界の理論を融合させて。
炎はすぐに消えた。集中が切れた瞬間、魔力の供給が途切れたのだ。まだ長時間の維持はできない。だがそれでいい。確実に一歩、前に進んだ。
「もう一回……」
高鳴る心臓を落ち着け、再び挑戦する。魔力を集め、イメージを研ぎ澄ます。二度目の炎はマッチの火ほどの大きさで、三秒維持できた。
――やれば、できる。
前世では研究成果を発表しても理解されなかった。だが今は結果が目に見える形で出ている。この手のひらの上の光がその証明だった。
その後も何度も試した。十回、二十回、やがて数えるのをやめる。
炎の大きさを調整できるようになった。持続時間も三秒から五秒、十秒、三十秒と伸びていく。手のひらから五センチほど浮かせることもできた。体から離れた場所に魔力を定着させる、本物の外部投影だ。
「……これが魔法」
手のひらの上で揺らめく火を見つめる。科学では説明できない奇跡。いや、魔力というエネルギーを物理現象に変換しているのだから、理解はできる。だが魔力の根本原理、なぜ意思でエネルギーを操作できるのかはまだ分からない。
研究者の血が騒いだ。もっと学びたい、もっと理解したいという渇望に夢中になるうちに、窓の外が藍色から紺色へ、東の空が薄いオレンジに染まり始めていた。
「……やばい」
慌てて炎を消し、ベッドに戻る。だが興奮で眠れなかった。天井を見つめながら、誰かにこの喜びを伝えたいという衝動が込み上げてくる。
「魔法が使えるようになった」と母に、父に、兄たちに言いたい。
だが言えない。ゼロ判定のはずの自分が魔法を使えるようになれば、必ず詮索される。なぜ使えるのか、誰に教わったのか。その先にあるのは、転生者であることの露見だ。
この喜びは、自分の中だけにしまっておくしかない。まぶたの裏に浮かぶ炎の残像を抱きしめながら、短い眠りに落ちた。
朝、扉が開く音で目を覚ます。花の香水と石鹸の匂い。母の足音だと分かって、寝たふりを続けた。
「アルヴィン、起きなさい」
「……んー」
演技で眠そうに目を開ける。まぶたが本当に重い。
「おはよう、お母様」
「おはよう。……あら」
母の蒼色の瞳が、息子の顔に留まった。
「アルヴィン、少し疲れてない? 目の下に隈ができてるわ」
指摘にドキリとする。母の手が頬に触れた。ひんやりとした、柔らかい指先。
「……大丈夫」
笑顔を作ったが、母は心配そうな表情を崩さない。それでも追及はせず、ただ一言。
「そう……無理しないでね」
深い愛情の込もった声に、罪悪感がちくりと胸を刺した。
――ごめん、お母様。いつか必ず話すから。
午後、庭園で一人、花を眺めていた。赤いバラ、白い百合、名前の分からない青い花。春の陽光の中で色鮮やかに咲き誇っている。
昼間にもう一度あの炎を出してみたいという衝動がある。だが王宮の庭には庭師や侍女、巡回の騎士がいる。我慢するしかなかった。
「アルヴィン」
振り返ると母が立っていた。水色のドレスに、風に揺れる蒼色の長い髪。
「お母様」
「一人で何してるの?」
「お花、見てた」
「そう」
母が隣に座り、二人でしばらく黙って花を見つめた。風が花を揺らし、甘い香りと噴水の遠い水音を運んでくる。
この沈黙が心地よかった。何も聞かず、ただそばにいてくれる。前世では誰かと一緒にいるだけで幸せだと思える時間など、一度もなかった。
「……お母様」
「何?」
「ぼく……頑張ってる」
母は柔らかく微笑んだ。
「知ってるわ」
「……えっ?」
「あなたが何か頑張っていること、お母様には分かるの。母親っていうのはね、子供のことは何でも分かるものなのよ」
頭を優しく撫でながら、蒼色の瞳が息子を見つめる。
「何をしているかは聞かない。きっと言えない理由があるんでしょう。でも無理はしないでね」
「……うん」
全部気づいている。夜中に何かしていること、秘密を抱えていること。それでも問い詰めず、ただ見守ってくれている。
「もし辛くなったら、いつでもお母様に話していいのよ。何があっても、あなたの味方だから」
その言葉が胸に染み込んだ。熱いものが込み上げ、視界がにじむ。
こんなに愛してくれる人が、前世にはいなかった。
「……ありがとう」
声が震えた。母は何も言わず、静かに息子を抱きしめた。温かい腕の中で、ここにいれば大丈夫だと思えた。
その夜、珍しくカールがアルヴィンの寝室を訪れた。
コン、コン。ノックの音。
「入っていいか」
「はい」
扉を開けて入ってきた父は、いつもの厳格な顔をしていたが、目だけは穏やかだった。椅子を引いて腰を下ろし、金色の瞳でまっすぐ息子を見る。
「アルヴィン。お前は何か……特別なことをしているか」
核心を突く問いだった。一瞬迷ったが、父の目に怒りはない。厳しさの奥に、確かな信頼があった。
「……ぼくは強くなりたいです」
嘘ではない答えを選ぶ。
「父上みたいに。強くて、みんなを守れる人に」
カールの目がわずかに揺れた。驚き、そして何か深い感情。
「……そうか」
それ以上は追求せず、息子の肩に大きな手を置いた。
「強くなりたいなら、生活を崩すな。続けられない鍛錬は鍛錬じゃない」
「……はい」
「それでも進むなら」
金色の瞳に覚悟が宿る。
「迷ったら来い。基礎だけは俺が叩き込む」
「……ありがとうございます、父上」
震える声で答えると、カールはわずかに、だが確かに笑った。
「強くなれ。口だけで終わるな」
不器用で短い言葉だったが、背中を押す力があった。
父が頭を撫で、「よく寝ろ」と言い残して部屋を出ていく。扉が閉まり、一人になった。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。
――お母様。父上。ありがとう。
こんなに優しい家族がいる。いつか必ず恩返しする。強くなって、守る。
心に誓い、目を閉じた。
かたこりが・・・




