変化する人間模様
一方その頃、応用魔法科三年の院生エリス・バンデールは深刻な問題に直面していた。
「イベントは発生したはずなのに……どうしてアーシェルが微動だにしないの!?」
胸元に手を当てて転びかけるイベントを起こしても――
「……怪我はないか?」
と淡々と距離を取られる。
図書館で高いところから本を取ろうとしていた時なんて、素通りされた。あの本は課題で必要だったから、何とか取った。すごく大変だった。脚が攣るかと思った。
応用魔法科に隣接するダリアの庭は、魔法によって年中ダリアの花が咲き誇っている。今日の講義を全て終わらせ、庭にあるベンチに座って、エリスは悩んでいた。
風に揺れる茶色い髪は、つい触りたくなるほどふわふわしており、少し伏せられた淡い翠の瞳は、声をかけたくなるほど揺れている。
エリスは、最近の周囲の状況を思い浮かべる。
アーシェルが靡かないだけではない。
ユリアスも、妙に落ち着かない。
距離が、少しずつ離れているような……?
(……私が知ってるルートと違う? でも、他の二人はシナリオ通り仲良くなった。あの二人がおかしいってこと?)
悶々として考えていると、軽装の青年と、異国の服を着た青年が近づいてきた。魔法騎士を志望しているレオン・ノクト・ディスタンと、砂漠の大国の王子カディル・アルナスルだ。
「エリス、帰るのなら送るぞ」
「いえ、エリスさん、せっかくですし、僕と散策をしませんか? 今、何か考えていましたよね? 面白そ……悩んでいるなら相談に乗りますよ」
おおらかな笑顔で付き添いを宣言するレオンと、好奇心旺盛な眼差しで散歩に誘うカディル。
何か違うのだ、とエリスは常々思っている。
二人とも、予定通りにイベントを進めて、予定通りに一緒にいる時間が長くなった。長くはなったのだが……
(私が欲しいのは、保護者の眼差しでも、おもちゃを見る時の笑顔でもないのよ……っ!)
エリスの混乱は、ますます深まっていく。
*
魔法薬学科の講義棟、その一角にある無人の図書室で、シシリアは本に埋もれていた。
明日の講義では、魔力のコントロールがカギになる。どうやったら素材を発火させないようにコントロールできるのか、うまく説明できる資料はないだろうかと、様々な文献を読み漁っていた。
そこへ、そっと足音が近づく。
「……――――」
誰かの声がした気がして、シシリアは顔を上げた。
ゆっくりと視線を上げると、そこにはわずかに緊張を滲ませたユリアスが立っていた。
シシリアは、何度か瞬きをした。
砂金のような淡金色の髪は、昼の日の光を反射して輝いているのに対し、瞳のアクアブルーはどことなく影を落としているように見えた。
それまで文献に没頭していて現実世界とは切り離されていたシシリアの頭が、次第に目の前の状況を捉え始める。
完全に目の前の光景を理解した時、シシリアは驚いて立ち上がった。
「――王太子殿下……っ! 失礼いたしました……」
慌ててカテーシーをした。
彼が魔導院の院生だということは知ってたが、まさかここで会うとは思ってもみなかった。ユリアスは、シシリアを王太子妃に相応しくない人間だと思っている。会う必要もないと思っているに違いないと、勝手に考えていた。
ユリアスは、そんなシシリア見て慌てた。
「あ――いや、普通にして欲しい。礼をとって欲しいわけではないんだ」
ユリアスは、自分が何を言っているのかわからなくなった。
自分に――王太子に会ったなら、礼をとるのは当然の反応だが、彼女には、なぜかそうしてほしくなかった。
その言葉に、今度はシシリアが混乱する。
「――と、言われましても――」
どうすればいいのかわからない、という気まずい雰囲気が、二人の間に流れる。
(――いや、今は、こんな会話をしたいわけではないんだ)
ユリアスは、ふうっと息を吐き、気持ちを落ち着けて切り出した。
「急に声をかけてすまない。君と、話がしたかったんだ」
王太子の緊張した声に、シシリアは少しだけ目線を上げた。
それを見て、ユリアスはもう一度息を吐いた。
「あの時は……一方的に、すまなかった。私は、君の何も見ていなかったのだと痛感している。最近の君を見るたびに……悔いるばかりだ」
苦しそうなユリアスの表情に、シシリアの瞳が驚きに揺れる。
ユリアスはそれを見て、勇気を振り絞った。
「もし、許してもらえるなら、せめて――」
「――へぇ。ユリアスが“許しを請う”だなんて、珍しい光景だね?」
どこから現れたのか、アーシェルが、シシリアとユリアスの間にするりと滑り込んできた。笑っているのに、目は全く笑っていない。
アーシェルは、公爵家の次男だ。ユリアスとは、ある程度の交流があった。だから、王太子相手でも躊躇がない。
「お前……っ! アーシェル、いつの間に!? いや、今、私はシシリアと――」
「“二人で話が必要”とか? それは、ユリアスの都合?」
「い――や……そうではなく……っ」
シシリアからは、アーシェルに隠れてユリアスの様子は見えないが、声から、アーシェルがユリウスを追い詰めているように聞こえた。
シシリアにとって、ユリアスは辛い貴族院時代の象徴でもあるが、だか――今思えば、彼自身が悪かったわけではない。周囲の言葉に、勝手に自分が縛られていただけだ。
彼だって、ある意味で“被害者”なのだ。
「――あの、王太子殿下。発言をお許しいただけますか?」
シシリアがそっと声をかけると、アーシェルは驚いて振り返り、ユリアスは緊張してひゅっと息を飲み込んだ。
「……あ、ああ。許す」
「ありがとうございます」
シシリアは、丁寧な所作で一歩前に進む。
「わたくし、殿下と婚約させていただいていた期間は、周囲の方に言われていたのです。殿下の婚約者として、目立たず、荒立てず、無難に対処せよ、と」
シシリアは、一つ一つの言葉を、よく考えて、丁寧に発した。
「公においては己を殺し、私においては己を偽り、そうしてできた虚像が、殿下に大変なご迷惑をおかけする結果となってしまいました」
シシリアは、自分を出さなかった。だからユリアスは、シシリアを理解できなかった。それだけのことだ。
「殿下の婚約者であったなら、乗り越えなければならないことでしたのに……周囲のせいにして逃げ出しました」
ユリアスの目を見て、シシリアは一度姿勢を正した。
「取り返しのつかないことをいたしました。大変申し訳ありませんでした」
ユリアスもアーシェルも、動けなくなる。
――その時。
「やあ、シシィ。こんなところにいたんだ。何? 殿下にいじめられたのかい?」
場の雰囲気を片っ端から破壊する声と共に現れたのは、シシリアの兄ルーファスだった。
(なぜ今――!?)
そう思ったのは、ユリアスだけである。
「――あら、お兄様? いったいどこから現れたんですか? 今日は王宮で執務でしたよね。やっぱり空間を捻るような魔法でも開発したのですね。私にも教えてくださいませ?」
「おやおや、君にそんな魔法を教えたら、“魔の森”や”死の砂漠”に行き放題ではないか。秘匿案件だよ」
「嫌だわ、私、そんな危険なことは致しませんよ? 講義と講義の合間に素材採集に行けるわね、と思っただけですもの」
「だからこそ秘匿事案だ。私のかわいい妹は、大したお転婆だ。――ねぇ、殿下?」
雰囲気を完全にぶち壊した兄妹の不毛な会話。呆気に取られていたユリアスは、急に話を振られて大いに焦った。
「――え、あ……?」
うまく反応できないユリアスの肩を、なぜかアーシェルがポンと叩いた。
「これがこの兄妹の平常だ。気にしないことだな」
(いや気にするだろ……!)
と心の中で絶叫するユリアス。
「殿下、私は妹に会いにきたのです。お話が終わったのでしたら、妹を返していただけますか?」
ルーファスの言葉は丁寧だが、王太子相手に有無を言わさない圧があった。
「アーシェル、君もね。悪いけど、妹は返してもらうよ」
ユリアスとアーシェルの言葉を待たずに、ルーファスはシシリアに帰宅を促した。
「お兄様、何かご用事でも? 先に言ってくだされば、時間を空けておきましたのに」
そう言いながらも、シシリアは散らばった文献を返却ポストに入れていく。
ルーファスとアーシェルも「当然のように」手伝って、机はあっという間に片付いた。
「それではみなさま、ごきげんよう」
嵐のように兄弟が去り、アーシェルも「また今度」とユリアスに手を振って出ていく。
ユリアスは、最初から最後まで混乱しかなく――気がつけば暗くなるまでそこに立ち尽くしていた。
*
魔導院の片隅では、院生たちの知らぬところで“ある計画”が進んでいた。
院内に漂う微かな魔力の歪み。
この前兆に気づいている者は、まだ誰もいなかった。




