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雪が降る

 魔導院にある彼女の研究室は、数日前に来た時と変わっていなかった。

 あの日も、夕方に妻を迎えにきて、研究室の片付けを手伝った。そこにあった魔法植物に指を噛まれそうになったのを見て、焦った彼女がビーカーに入っていた発光する液体をこぼした。二人で慌てて風の魔法で液体をまとめようとすると、相乗効果でビーカーが割れた。液体は無事球状にまとまったので、別のビーカーに移した。二人で「もう歳だね」と、失敗を笑い合った。そして、手を繋いで離宮に帰った。

 ユリアスは、あの日のままの研究室に入り、研究台の横――いつもの椅子に座った。

 静かだった。

 ペンを走らせる音も、液体を揺らす音も、ガラスが当たる音もしない。

 静かに目を瞑った。

 目の前に、窓から差し込む光の下で、豊かな白髪を無造作に括って試験管を見つめる妻の姿が映った。

 彼女は、ふと、何かに気がついたように顔を上げる。そして、こちらを向くと、ふんわりと笑いかけてきた。

 幸せを感じて、ゆっくりと目を開ける。

 同じ光が差し込むそこには――誰もいない。

 ユリアスは、ゆっくりと息を吐き、椅子の背もたれに背を預けた。

 どれくらいそうしていたのか。

 コツコツと足音がして、開きっぱなしの研究室のドアの前で止まった。

「――来たか」

 ユリアスが、そこに立つ男――アーシェルに声をかけると、彼は何も言わずに研究室に入ってきた。

「ここも、変わったんだね」

 懐かしそうな、淋しそうな声で、アーシェルは言った。

「俺が知っている研究室には、彼女のもの以外、何もなかった」

 そう言って、研究室の一角に片付けられた、院生の研究材料や資料を、目を細めて見つめた。

「手紙の中でも、院生が研究する様子を楽しそうに教えてくれた。――あの頃、俺は、彼女の世界を狭めていたんだな」

 アーシェルは、院生の資料をそっと触り、目を伏せた。

 それを聞いて、ユリアスは「違う」と静かに言った。

「あの頃の彼女は、教育の場に怯えていた。それは、俺にも原因がある。君は、そんな彼女の支えであり、居場所を作るきっかけになった」

 ユリアスは、窓の外を見ながら続ける。

「講師になる前に、君に会えたこと。それが、彼女の人生を大きく変えたんだ」

 アーシェルに向き直ると、薄灰色の瞳と目が合った。

 そこには、いつものように、何の感情も見えなかった。

「――ありがとう」

 ユリアスは、静かに礼を言った。

 それは、長年連れ添ってきた妻が、多分、彼に言いたかった言葉だと思う。

 いや、彼女なら、きっと手紙でいつも書いていたはずだ。ありがとう、とか、大好きだ、とか、陽の感情を素直に言葉にする人だった。

 だから、これはきっと、自分自身が言いたかった言葉だと、ユリアスは思い直した。とても悔しいが、彼女の心を救ったのは、間違いなく彼だと、思った。

 アーシェルは、何も答えずに、ただ目を伏せた。

 自然な沈黙が流れる。

「――シシィは、笑っていた?」

 アーシェルの静かな問いに、ユリアスは目を閉じた。

 瞼に映るのは、愛する人の、いくつもの笑顔。

 ユリアスは、安心して頷いた。

 それを見て、アーシェルは、目元を少しだけ緩める。

「――アーシェル」

 ユリアスに名を呼ばれ、彼はドアに向けた足を止めた。

 振り向くと、ユリアスが立ち上がり、机の引き出しに手をかけた。

 そこから取り出したのは、一通の、淡い色合いの封筒。

「……君宛だ」

 ユリアスが差し出した封筒を見て、アーシェルは目を見開き、震える手でゆっくりと封筒を受け取った。

 彼女の机から出てきたそれは、いつものようにほんのりと甘い香りがする。今回は、マドレーヌの香りか。この香りの魔法だけは、どうなっているのか教えてもらえなかった。

 封筒を見つめて動かなくなったアーシェルの横を、ユリアスが静かに通り過ぎ、振り返ることなく研究室を出ていった。

 扉が閉まる音が、アーシェルには聞こえなかった。

 音のしない研究室に、カサリと手紙を開く音だけが響いた。


 ――


 ユリアスは、魔法薬学棟を出て、正門への道を歩く。

 魔導院の中では、彼らは王族ではなかった。

 護衛もいない、側近もいない。

 魔導院を覆う結界のおかげで、ここでは、彼らもただの人になれた。

 ここは、彼女の魔法で満ちている。

 

 雨が降ると虹が出る結界

 気温が下がると雪が降る空

 気温が上がると氷が弾ける噴水

 夜になると流れ星が見える訓練場

 年中適温を保つ実技研究室

 暗くなると足元を照らす石畳

 春に一日だけ舞う薄桃色の花びら


 魔法を使うたび、「君は魔法薬術師だよね?」と笑った。

 彼女らしい、遊びの魔法だ。

 ここでのプロポーズは、彼女に取られてしまった。

 あの時の情けなさと言ったらなかった。

 生涯で最大の緊張が、彼女のペースに巻き込まれてしまった。

 本当に、彼女らしい、と白い息が零れた。

 ふと気がついて、空を見上げる。

 青く澄み渡った広い空に、白い雪が舞っている。

 ああ、と吐息が漏れた。

 ふわふわと舞う白い雪は、ユリアスの頬に落ちて、消えていく。

 じわりと滲み、崩れる視界に、ライラック色が飛び込んできた。

 えっ、と驚いて手をかざすと、その手の中に紙でできた蝶が飛び込んできた。

 それは、キラキラとした光と共に、勝手に解けて一枚の手紙になった。

 そこには、見慣れた文字が並んでいる。


 ユリアス様へ


  ありがとう。

  大好きよ!

 

      シシリアより


 ――なんだ、これは。

 どんな魔法だ。

 感情が何かを突き抜けて、ただぼうっとしていると、後ろから足音が聞こえてきた。

 振り返ると、そこには先ほど置いてきたアーシェルが、息を整えながら立っていた。

 手には、これも先ほど渡したシシリアの手紙。淡い色の封筒には、真っ白な便箋が入っていたようだ。

「――最後まで読んだら、手紙から蝶の形をした紙が現れた」

 それは、手に持ったこの手紙か。そう思って、ユリアスは手元を見た。

「蝶を追うように、と。受け取ったヤツのびっくりした顔を、自分の代わりに見て欲しい、と。親切に、光の道標付き」

 いつもは感情の乏しい薄灰色の瞳が、少しだけ和んでいる。

「――なるほど、驚くほど間の抜けた顔だ」

 くっくっと笑った。

 ユリアスは、空いた口が塞がらない。

 なんと、ここまで彼女のペースに巻き込まれるか。

 やはり、彼女は特別な親友を選んだのだろうと思った。そこにきて、この手紙。この細工。もうこれは、彼女からの、確かな『愛』だ。

「――なんて書いてあった?」

 アーシェルの問いに、ユリアスは口の端を釣り上げた。

「これは、俺だけの手紙だ。教えるわけがないだろう」

 もう一度、手紙を愛おしそうに見てから、アーシェルを見る。

「君こそ、他に何が書いてあった?」

 言いながら、正門へと歩き出す。

「教えるわけがない。――この便箋いっぱいに、びっしりと書いていた」

 横で、アーシェルがニヤリと笑う。

「想いは、量ではないよ」

 ユリアスは肩をすくめた。

「ということは、一言か」

「その言葉に込められた想いは、俺のものだ」

 二人は静かに喧嘩をしながら、雪の舞う中をゆっくりと、正門へと並んで歩いた。

これで本編終了です。

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