目覚め
シシリアは、広い、広いの海中で、ただ漂っていた。
身体が揺れる感覚はあるのに、上下左右どの方向に動いているのかはわからない。
あちらを見れば深い青、そちらを見れば透き通る青。昏い色もあれば、色が失せたような灰色をしているところもある。
海の中だからだろうか、なんとなく息がしにくい。
周りの色がすっと薄くなることがある。そういう時は、身体が芯から冷えてしまい、氷の中に落とされたように思えた。
反対に、透き通った青い海が広がる時は、はるか遠くから太陽の光が差し込み、肌からじわじわと温もりを感じることができる。
最近は、少しだけ、暖かくなる時間が増えた気がする。
なんとなく、太陽の光も、近くなったような。
そういえば、息もしやすい。
ふわり、ふわりと漂いながら、暖かい方に行くといいな、と考えていた。
(――重たい……)
ふと気がつくと、海の中に漂っている感覚が消えていた。
心地よい揺れはなく、代わりに重たい空気で全身が押さえつけられているような不快感があった。
どうして周りが真っ暗なのかしら、と思い、目を瞑っているからだわ、と気がついた。
シシリアは、そうっと重たい瞼をあげてみた。
薄く開いた瞼の淵から、ほのかな光が差し込み、眩しさに一度目を閉じた。
今度は、少し開いては閉じ、開いては閉じして、眩しさに慣れていく。
そうしているうちに、光しか見えなかった視界に、少しずつ色が戻ってきた。
耳の奥で、ごーっという音がしており、周囲の音が聞こえない。
視界の端で、何かが動いた気ががした。
(――女の、人?)
顔は、よく見えない。
着ているのは、王宮で見たことのある、お仕着せか。
その人は、シシリアの顔を覗き込み、何か口を動かしてから、慌てたように視界から消えてしまった。
(――眠たいわ……)
シシリアは、もう一度、目を閉じた。
身体は変わらず重たいし、心地よい揺れも感じない。
けれども、思い出してみると、とても疲れて眠る時は、こんな感じだったかもしれない。
少しだけ動かせた指に、さらりとした感覚が当たる。
よくよく考えてみると、時々感じていた寒さは感じず、むしろポカポカと温もっている。
お昼寝をするのにちょうどいい、と思ったシシリアは、目を開けることをやめた。
そのまま、静かに意識を手放した。
次に目を開けた時、今度は目に映った光景を理解することができた。
淡い白色の天井、クリーム色の壁、大きな窓の外に見えるのは、高く澄んだ空。
身体は相変わらず重たいが、包まれている暖かさは、心地よい。
視界の端で、淡金色が煌めいた。
「――起き……た?」
最近では、すっかり聞き慣れた声。
――ユリアス様。
そう言ったつもりが、口からは息だけが漏れ出た。
かたり、と音がする。
椅子から立ち上がったユリアスは、目を大きく見開き、前のめりになっている。
その横で、腕を組んで椅子に座るのは、ルーファスだ。少し目元を和ませて、「おはよう」と言った。
最近起きたら横に男性がいることが度々あるが、これは貴族令嬢としてどうなのかしら、とシシリアは内心で首を捻った。
少し考えたが、声も答えも出ないので後で考えることにした。
「――シ……シシリア……っ! 大丈夫かっ!? どこか、痛いところとか……いたっ!」
シシリアの横に両手をついて、勢いよく喋り出したユリアスの頭を、誰かが殴った。
ユリアスが振り向いた方向を見ると、とんでもない人が立っていて、シシリアは瞳だけで驚いた表情を作った。
「――母上……何を……」
ユリアスの母――王妃が腕を組んで立ち、自分よりも背の高いユリアスを見下ろしていた。
「あなた、なんですか。病み上がりのご令嬢に、次々と。お兄様を見習いなさい。みっともないですよ」
王妃の声は氷点下だが、ユリアスは負けずに言い返す。
「――ごもっともですが、そのご令嬢の前で息子に手を挙げるなど、それこそみっともないですよ」
「まあまあ、好きな子の前だからって、見栄を張って」
「――す……っ!」
「何でもいいですけれどね。目覚めに会わせてあげたのですから、もういいでしょう? 二人とも、出ていきなさい」
「妃殿下、ありがとうございます。妹をお願いいたします」
ユリアスが声を上げる前に、ルーファスが立ち上がり、王妃に礼をした。
「シシィ。また後で来るよ」
ルーファスは、そう言ってシシリアの頬に手を置いた。
彼女の大好きな深い海の色の瞳と視線があって、シシリアは安心を覚えた。
シシリアの表情は、自然と緩む。
離れていく手が、淋しかった。
「ごらんなさい、愚息。これが、見本です」
「……うるさいよ、母上」
ユリアスの声が拗ねたように聞こえたのが、少しおかしかった。
「――シシリア、目覚めてくれて、嬉しいよ。……うるさくして、ごめんね」
少し恥ずかしそうにするユリアスがおかしくて、声を出して笑いたかった。
そこで初めて、喉がカラカラなのに気づいた。
声が出ないはずだ。
「――また来るよ」
ユリアスも、そう言ってルーファスと共に出て行った。
入れ替わりに侍医が入室し、王妃と数人の侍女が残った。
なるほど、診察をして身支度をするなら、彼らは出されるはずだ。
そう察して、シシリアはおとなしく従うことにした。
目を開けると、部屋は暗くなっていた。
シシリアは、きょろきょろと辺りを見渡した。
頭を横に向けると、ギリギリまで落とした魔導灯の明かりが、暗闇を払う程度に部屋を照らしている。
目を閉じる前よりも、少しだけ身体が軽い。
鉛を詰め込まれていたような重さが、わずかに抜けている。
(……少しだけ、目を閉じただけのつもりだったのだけれど……)
医師の診察があったのは、昼頃だと聞いている。
どのくらい、眠っていたのだろうか。
先ほどの診察の後、侍女に支えられながら水を飲んだ。
それは、今まで飲んだことのないような、甘く、涼やかな味がした。とても美味しくて、もっと飲みたいと願ったが、王妃に止められてしまった。
その後、身体を拭いてもらい、髪を整えてもらって、またベッドに戻された。その頃にはすっかりくたびれてしまって、少しだけ目を閉じたのだ。
その結果が、夜だ。
二週間も寝ていたと聞いたが、人はどれくらい睡眠が取れるのだろうか。
暇だから、少し挑戦してみようかしら、と思った時、部屋のドアから灯が差した。
顔を出したのは、ユリアスだった。
シシリアと目が合った彼は、あっという顔をしたが、次の瞬間、いたずらっぽく微笑んだ。
人差し指を唇に当てて、「しーっ」と小声で囁く。
その子供っぽい仕草に、シシリアは、最近彼の色々な表情を発見するな、と楽しくなった。
思わず、ふふっと笑い声を上げると、ユリアスは嬉しそうな顔をして近寄ってきた。
「起きていたんだ。一人で暇だったんじゃないか?」
椅子を持ってきて、ベッドの横に腰掛けた。
「――暇、だったわ」
まだ、喉はピリッとするが、案外マシな声が出た。
だろう、と言うユリアスは、予想が当たったと満足気だ。
「でも、まだ長話はだめだ。魔法もね。代わりに、俺が話をするよ」
「じゃあ……あの後のこと……教えて」
シシリアは、何度か息継ぎをしながら言った。
「――うん。気になるよね」
そう言って、ユリアスは話し始めた。
シシリアが倒れた後、アーシェルの魔力が暴走したこと、それをルーファスが止めたこと。シシリアを刺した短刀に呪がかけられていて、魔具に強いカディルがいなければ大変なことになっただろうこと。
シシリアを刺したのは、帝国の元軍務局長だったこと。シシリアが浄水装置の問題を発見したことで帝国の方針が変わり、それについていけずに罷免となった、その逆恨みだったということ。
「……エルは、大丈夫?」
魔力暴走を起こした者は、同じような刺激により再度魔力暴走を起こしやすいため、危険視される。最悪、魔力封じを受けることになるという。
「ああ。しばらくは魔力封じの上、公爵邸で自宅待機していたけれど、今は魔導院に復帰しているよ。魔力封じも、なしだ。そこは、ルーファスが尽力してくれた」
言ってから、少し申し訳なさそうにする。
「ただ、君が魔導院に戻る頃には、彼は修了しているだろうね。その後は、ルーファスが身元を預かることになっている。あまり、会えないかもしれないね」
そう、とシシリアは目を伏せた。
ユリアスの話は、彼女の体力を考えてか、簡潔にまとめられている。
この二週間で、本当にたくさんのことがあったのだろう、と想像できる。
「――大変……だったのね」
「まあ……でも、君が目を覚さないことの方が、大変だった」
ユリアスは、少し遠い目をした。
「リュミエラ侯爵とルーファスは、一日中ピリピリしているし、アーシェルは落ち込みすぎて調子が狂うし、カディルはしつこいし。父上からは嫌がらせのように書類が回ってくるし、母上は……」
大きなため息と共に、言葉が出なくなった。
少しの沈黙。
シシリアは、堪えきれず「――ふ……っ ふふ……っ」と笑ってしまった。
「え、シシリア。それ、笑うところ?」
「――ふふ……っ だって……ユリアス様――情けない、顔……っ」
シシリアは思った。
この人は、いつも、何があっても何でもない顔をしているが、内心では誰よりも騒いでいるのかもしれない、と。
今まで、どれだけ努力をして“王太子”像を作り上げてきたのだろう。
そんなことを考えていると、ユリアスは拗ねたように向こうを向いてしまった。
「……本当に、大変だったんだ」
ユリアスは、もう一度大きなため息をついた。
「他国の皇帝が押しかけてくるなんて、前代未聞だよ……」
「……え?」
シシリアの笑い声が、ぴたりと止まった。
「シシリアの目が覚めたと聞いたアウレリア帝国の皇帝がね、勝手に転移門を使って現れたんだ。それはもう、大騒ぎで……」
二人で遠い目になってしまった。
「この部屋の前まではたどり着いたんだけど、母上に殴ら……怒られていたよ」
そういえば、とシシリアは思い出した。
王妃が退室する時、ドアの外が少し騒がしかった。王妃が退室し、大きな衝撃音が聞こえたと思ったら、静かになったのだった。
「ヴァルディス殿が、引きずって帰って行ったよ」
「ヴァルディス様の胃、大丈夫かしら」
「……心配になるよね」
二人で顔を見合わせて、ため息をついた。
その後、取り止めのない話をして、いつの間にか眠ってしまった。
その眠りは、とても心地よいものだった。
朝、ユリアスが椅子に座ったままベッドにうつぶして寝ているのを見て、シシリアは「無理をさせたかしら」と申し訳なく思った。
起こそうか迷っていると、誰かから報告を受けたのだろう王妃が訪室した。
「おはよう、シシリアさん。愚息が、ごめんなさいね」
王妃はにこやかに言うと、手にした扇子でユリアスを文字通り叩き起こし(シシリアは驚いて何も言えなかった)、彼を引きずって出て行った。
その後、一週間ほど王宮で過ごしたシシリアは、侍医からの許可で侯爵邸へ戻ることになった。
その頃には、ベッドの上に身体を起こせるようになっていて、ユリアスだけではなく、ルーファスたち家族や、カディル、なぜか国王夫妻までお見舞いに来て話をしていったので、暇を持て余す時間はなかった。
そして、アシュレインは、しばらく出禁になったと、王妃がにこやかに教えてくれた。




