許せない
痛いシーンが出てきます。苦手な方はご注意ください
王宮の執務室は、冬でも一定の温度に保たれている。
窓の外には柔らかな日差しが差し込み、机の上に積まれた書類の端を淡く照らしていた。
ユリアスは、魔導院の院生でありながら、少なくない量の公務を引き受けている。
目がまわるほどの忙しさだが、この立場を維持することでシシリアを守ることにも繋がっていると思うと、手を抜く気持ちにはなれなかった。
ユリアスは、報告書の最後に署名を入れ、目の前の人物に手渡した。
手渡された人物――ルーファスは、それを確認して礼を言う。
「お疲れ様です。あとは、帝国との協定の調整ですね」
「基本は、外務庁に任せているがな。シシリアの派遣を、どの程度許すか――」
ユリアスは、執務机の上で手を組んだ。
「魔導院もあります。派遣は最小限ですね」
ルーファスの言葉に、ユリアスは渋面を作る。
「あの男が、納得するか?」
「納得させますよ。任せてください」
ニヤリと笑うルーファスに、王太子はぶるりと震えた。
ほどほどに、と声をかけようとした時、ルーファスの顔が一瞬でこわばった。
すぐに、ツカツカと執務机をまわり込み、ユリアスの腕を掴んで強引に立たせる。
「行くぞ」
王太子に対するとは思えない態度に、緊急事態を察する間も無く、ユリアスの視界が、一瞬にして光に包まれた。
光が収束した瞬間、ユリアスの足裏に土の感触が戻った。
同時に、冷たい冬の空気が肺に流れ込む。
――血の匂い。
目の前で、立ち尽くしたシシリアの身体が、ぐらりと傾いた。
思考より先に、身体が反応した。
ルーファスが、シシリアを受け止めたのが見えた。
そのそばに膝を着くと、泥でぬかるんでいるような嫌な音と共に、冷たい何かで濡れた感覚があった。
仰向いた彼女の顔は蒼白。白く厚いコートの腹部に、鮮やかな色が滲んでいる。
――それは、判断ではなかった。
外套を開き、血で濡れた布地を押さえ、止血の魔法陣を即座に展開する。
ユリアスの手の上に、ルーファスの手が被る。
展開される、二重の魔法陣。
「貫通はしていない。内臓損傷は……最小限だ、間に合う」
ユリアスは、自分に言い聞かせるように、短く告げる。
(――血が、足りない……っ!)
シシリアの身体は冷えていく。
唇は青白く、呼吸は浅い。
「シシリア……頼む……っ!」
ユリアスは、知らず叫んでいた。
ユリアスが傷を閉じ、ルーファスが傷口から魔力が流れ出るのを防ぐ。
「シシィ! 耐えろ……っ!」
シシリアの瞼が、わずかに震えたように見えた。
ルーファスは、妹の治療をしながら、空気が歪むのを感じた。
「――――っ!!」
抑えきれない殺気が、肌を刺す。
顔を上げなくてもわかる。
アーシェルだ。
「……シシィに、何をした」
低く、感情を削ぎ落とした声。
その向こうで、呻き声と、何かを引きずる音。
「やめろ、アーシェル!」
カディルの叫びが聞こえた。
だが、それを聞き入れる気配はない。
ルーファスは、一瞬だけ視線を走らせた。
地面に落ちた、血に染まった短刀。押さえつけられ、地に臥した男。
――こいつが……っ!
殺意が、理性を掠めた。
だが、ルーファスは視線を戻す。
未だに青白い顔をした妹。
瞳は硬く閉ざされている。
どの行動が、この妹を笑顔にするだろうか……
もう一度視線を上げると、地面に転がった男に馬乗りになるアーシェルと、彼が振り上げた右手に発動している魔法陣を、腕ごと抑えるカディルがいた。
「離せ、カディル」
氷のような声だった。
「俺のシシィを、傷つけたんだ」
カディルが必死に彼を抑える。
「待て! お前が犯罪者になるっ!」
「知るか」
短い言葉。
その直後、魔力が爆発的に膨れ上がった。
シシリアの治療をしているユリアスは、暴力的な魔力に自分の魔力が揺れるのを感じ、歯を食いしばって耐えた。
(……頼むから、今は――)
傷が、塞がらない。
出血を止めるので、精一杯だ。
武器に、何か細工がされていたのか。
ユリアスは、周りを見渡し、落ちている短刀に目を向ける。
――無理だ。手が回らない。
「カディル! 短刀を解析してくれ!」
「――こいつを離せないっ!」
アーシェルを抑えるカディルに、余裕はない。
「殿下、一度離れます」
ルーファスが短く声をかけ、シシリアを丁寧にユリアスに渡して離れていった。
シシリアを襲った男は、地に臥したまま動かない。
アーシェルの腕を抑えるカディルは、今にも彼の魔力に呑まれそうになっている。
その魔力は歪に波打ち、周りを巻き込んでいる。
草は枯れ、木は朽ちてゆく。
魔力を持つものは、その魔力により守られているが、そう長くは持たないだろう。
ルーファスは、その魔力の中に入り、魔法陣を展開してアーシェルを拘束する。
「カディル、行け!」
ルーファスの声と共にカディルは飛び退き、短刀の解析を始めた。
アーシェルは、己の魔力の只中にいながら、ルーファスの魔法陣にも絡め取られた。
アーシェルの魔力が、更に歪む。
薄灰色だった瞳が、鈍い紅に染まっていく。
「止めるな」
ルーファスの表情が、苦悶に歪む。
「止めるよ。お前が人殺しにならないために」
魔法陣に、ありったけの魔力を叩き込む。
魔力同士がぶつかり合い、バチバチと火花が散った。
アーシェルの魔力が、どんどん拡大する。
地面が、ところどころ割れ始めた――その時。
「終わった! ユリアス、解呪を重ねるぞ!」
カディルの声が響いた。
「――大丈夫だ。シシィは、助かる」
ルーファスの声は、優しく、穏やかだった。
「目を覚ました時に、お前が人を殺したと知ったら――」
アーシェルは、シシリアの方を見た。
「あの子が、悲しむ……」
アーシェルの口から、「あ……」という声が漏れた。
鈍く光っていた紅の瞳は、徐々に色を失い薄灰色に戻る。
周囲の全てを壊そうとしていた魔力は力を失い、地面に吸い込まれるように溶けていった。
ルーファスは、拘束の魔法陣を解いた。
アーシェルは、両腕をだらんと垂らし、気を失っている男を見る。
「……でも、俺は……許せない」
言って、憎しみに満ちた顔を向ける。
ルーファスは、私もだよ、と返した。
その時――
「――だい……じょう……よ」
微かな声が聞こえた。
振り向いたアーシェル目が、ライラックの色をとらえた。
「え……る……、わたし……だいじょ……ぶ、よ」
大切な人が、微笑んでいるのが見えた。
「……ありが……と……」
アーシェルの視界が歪んだが、シシリアの顔だけは、はっきりと見えた。
しんと静まり返ったその場所に、涙が落ちる音が、確かに響いた気がした。




