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……は?

 微笑んでいる王太子の声は、初めて聞く冷めた声だった。

 エリスは、その温度差に戸惑い、言葉を探す。

 何か、言わなければならない気がした。だが、胸の奥で、嫌な違和感がざわめいていた。

 何も言えないままに、視線だけが右へ左へ、忙しなく動く。

 そのときだった。

 四阿の空気が、ふっと変わった。

 

 最初に気づいたのは、四阿の外にいた白金髪の男――ルーファスだった。

 自らの後ろに魔素の動きを感じて振り向き、驚きに目を見開いた。

 ユリアスは、魔素の動きに警戒しながらも、ルーファスが警戒もせずに一点を見つめているのを不思議に思った。

 何が起こっているのかわからないままに、エリスが言葉を発しようとした時、四阿の外の一点が淡く発光した。

 金色とも白ともつかない光が、地面に円を描き、次々と見たことのない文字が書き込まれてゆく。

 風が生まれ、冬の花々が一斉に揺れた。

「――まさか……」

 四阿の外で控えていたルーファスが、思わず低く呟いた。

 一歩踏み出しかけた瞬間、光が収束する。

 次の瞬間。

 そこに、人が立っていた。

 白金のブロンドの髪が、風に揺れて靡いている。

 少し動揺したように瞬きをする、見覚えのあるライラックの瞳。

 冬の空気に肩をすくめながら、きょろきょろと周囲を見回す女性。

「……あ…………れ……?」

 間の抜けた、小さな声。

 その声を聞いた瞬間、ユリアスの呼吸が止まった。

「……シ、シリア……?」

 椅子が音を立てて倒れる。

 立ち上がった拍子に、ティーカップが揺れ、紅茶がこぼれたが、誰もそれを気に留めない。

 ルーファスが、即座にシシリアに駆け寄り、肩に外套をかけた。

 シシリアの肩をがしっと掴み、顔を覗き込んだ。

 深い海を思わせる瞳は、半開きでやや鋭い。

「――シシィ。お前は…………何をやらかした?」

「あー……お兄様、ご機嫌よう?」

「今、魔具を使わずに、転移したね?」

「そうなんです、お兄様。これは、失敗ではなくて、成功なんです。喜ばしいことですね?」

「うん。この状況で、その発想は、私の妹にしかできないと思うよ」

「はい、私はお兄様の妹ですよ。何かお疑いでしたか?」

「私が、妹を見間違えるはずがないだろう? それで、シシィ。この状況がわかっているのかな?」

「ええと、たぶん、とってもまずいことだけは、わかります。私、戻った方がよさそうです?」

「さっき、帝国の護衛が一人、走っていったから、まあ手遅れだね」

「では、全力でしらばっくれてみてはどうですか?」

「お前は、どうしてそう、変なところで度胸があるんだろうねえ」

「お兄様の妹ですからね」

 兄妹は、ふふふ、と笑い合った。


 *

 

 エリスは、理解できずにその場に立ち尽くしていた。

 視界に映る“彼女”を、脳が拒絶している。


(……え?……どうして?……いない、はず……)


 皇帝は、彼女を排除したはず。

 ストーリーは、正常に戻っていくはず。

 ユリアスは、自分を迎えにきたはず――なのに。

 ユリアスの、この反応は、何を示しているのか。

 なぜ、シシリアが目の前にいるのか。

 この世界で、何が起こっているのか……


 *


 見たこともない魔法陣から現れた人を認識して、ユリアスは、今やっていたこと――王国でエリスを拘束する下準備の一切を投げ出した。

 何も考えられずに立ち上がったが、彼女の兄が駆け寄る方が早かった。

 白金の髪がふわりと風に揺れ、赤く色づく頬が寒そうだった。

 ライラックの瞳が、やけに鮮やかに見えた。

 明らかに、帝国皇帝が隠していた女性。

 先ほど、帝国の護衛が、慌てて報告に走った。

 すぐさま彼女を保護して、出来うる限りの策を話し合わなければならないのに――これはなんだろうか。

 この兄妹の会話に、緊張感というものはないのだろうか。

 今、何をしたのかを確認している場合ではないと思う。

 実証実験の成功を報告している場合でも、妹に度胸があることを認めている場合でも、二人で微笑み合っている場合でもないと思う。

 それなのに――ユリアスは、その光景を穏やかな笑みを浮かべて眺めるのだった。



 皇宮、執務室。

 アシュレインは、机上に積まれた書類に目を通していた。

 レガリア王国との通商再開に伴う関税調整。帝国軍の辺境地域への派遣。宰相から上がってきた、どうでもいいとは言わないが、今すぐ判断を要しない報告。

 扉が、控えめに叩かれた。

「入れ」

 顔を上げることなく告げると、伝令役の近衛が、もう一人と共に入ってくる気配がした。

 近衛の声音が、わずかに硬い。

「陛下。至急のご報告がございます」

「言え」

「皇宮庭園で、レガリア王国の王太子殿下とご面会されている聖女様に付けた護衛からの報告です」

 アシュレインは、聖女が漏らした情報の報告かと予想した。

 彼女から情報が漏れたところで、自身の首を絞めるだけだ。帝国には何の問題もない。

 だから、近衛の報告に顔もあげなかった。

「ご面会の途中で、魔法陣が出現し、女性が現れたとのことです」

 文字を追う視線が、ピタリと止まった。

「王太子側の側近とよく似ていたそうで、レガリア王国の者ではないかとのことです」

 アシュレインは、ゆっくりと顔をあげた。

「…………は?」

 短い一音。

 だが、それだけで室内の空気が凍りついた。

「そ……その……ご、護衛の騎士が待機しております! 詳細はその者からお伝え致したくっ!」

 近衛は、切り刻まれそうな視線に耐えきれず、報告の全てを護衛騎士に任せて早々に退室した。

 一人取り残された護衛騎士は、冷や汗をかきながら立ち尽くした。

「その者の容姿は」

「白金のブロンドの、腰程の長い髪、肌は白く、背は王太子殿下の側近よりも頭ひとつ分ほど低い方です! 遠目でしたので、これ以上はご容赦ください!」

 明らかに不機嫌な声に、護衛騎士は間髪入れずに答えた。

「名は」

「王太子殿下が、『シシリア』と呼ぶのを――っ?!」

 護衛騎士は、最後まで言えなかった。

 皇帝から発せられる圧が、言葉を続けることを許さなかった。

 護衛騎士は、両足に力を入れて、なんとかその場に踏み止まった。

 アシュレインは、何も言わなかった。

 目を閉じて、椅子の背に、ゆっくりともたれかかる。

「ヴァルディスを呼べ」

 皇帝の言葉で、護衛騎士は、即座に執務室を出ていった。

 一人になって、アシュレインはゆっくりと息を吐いた。

 目は閉じたまま、眉間には皺がよっている。

 少しして、ノックの音の後に「失礼します」という声と共にヴァルディスが入ってきた。

「陛下。お出になられますか?」

 短い問いかけに、アシュレインはようやく目を開けた。

「無論だ」

 先ほどまでとはまるで違う表情で、金の瞳を輝かせて立ち上がる。

 執務室を出ながら、皇帝は続けた。

「あれは、黙って閉じ込められる女ではなかったな」

 その後を追いながら、宰相も続ける。

「いらっしゃった当日に、防御結界もろとも塔を壊した方ですと、私は忠告しましたよ」

「その後はおとなしかったから、忘れていた」

「あれを“おとなしい”とおっしゃるのは、陛下だけです」

「……扱いを間違えたのは、認めよう」

 珍しく非を認めた皇帝に、宰相は目をキラリとさせて続けた。

「そうおっしゃるのでしたら、次こそは間違えぬよう」

 宰相の声が低くなった。

「――帝国のためにも、あのお嬢様を逃さないでいただきたい」

 アシュレインは一瞬足を止めて、ヴァルディスを振り返った。

 二人の視線が鋭く交差する。

 が、すぐに視線を外して再び歩き出す。

 ヴァルディスには、わかっている、という小さな、けれども確かな声が聞こえた。

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