報告
帝国に連れてこられてから、九日が経った。
シシリアは、自分にあてがわれた部屋の周りから、徐々に行動範囲を拡大した。
離宮から始まった探索は、すぐに帝都全体へと広がっていった。
この日は、少し休憩にと、皇宮の書庫でトビアス・グレイと古文書を読んでいた。
「トビアスおじいさま。ここはどのように訳すのですか?」
シシリアは、古文書の一部を示した。
それを覗き込んで、トビアスは白い髭を触った。
「ふむ。それは、旧ルーンティカ王国の王族について書かれた書ですな」
トビアスは少しの間古文書を眺めてから、「おや、これは」と微笑んだ。
「そこは、『王太子は、市井に降りて身を隠した娘を見つけ出し、膝をついて許しを請うた』と書いてあります」
「王太子が許しを?」
「時の王太子は、身分違いの恋をしていたのです。爵位を返上した元男爵家の娘と激しい恋に落ちたのですが、旧ルーンティカ王国では、王族・貴族と平民は、話すことすらできないほどの隔たりがありました」
シシリアは、貴族と平民が話すらできないことに驚いた。
そんなことをすれば、国が成り立たないではないか。
「だからこそ、衰退していったのでしょうな」
トビアスは続ける。
「王太子を守るために身を引いた娘を追いかけて、自身も平民になった王太子のお話です。美談で書かれてはいますが、王太子が平民になったとして、果たしてその娘と幸せになれたのかまでは、わかりませんな」
そうですね、とシシリアはユリアスのことを考えた。
彼は身分を差別に使わないし、真面目で優しい人だと思う。ユリアスだったら、平民と恋に落ちることもあるだろう。しかし、平民になった彼は――生きていけない気がする。
それは、王太子だけではなく、シシリアの周りの誰もに当てはまる。もちろんシシリアも。ライルだけは、別だが。あと、兄は生きていける。絶対に、生きていける。
――まあ、王族や貴族とは、そういうものだ。
そこまで考えて、シシリアは、レガリア王国に思いを馳せた。
書庫の高窓から差し込む夕刻の光が、石の床に長い影を落としていた。
トビアスと別れたあと、シシリアは一人、書架の間を歩いていた。
皇宮の敷地や帝都を探索しながらも、考えること――家族や友人たち、魔導院の同僚、辺境の村で出会った人々……
彼らの顔を思い出すにつけ、帰らなければという思いは強くなる。
しかし、強引に連れて来ておいて、監禁するでもなく、使役するでもなく、シシリアの自由にさせている帝国の意図もわからない。
そして、やたらと揶揄ってくる皇帝も。どうも、過去に会ったことがあるようだが、シシリアにはどうしても思い出せない。
かといって、思い出すようにも言われていないので、失礼には当たらないだろう、と考えるのは、悪いことではないだろうとシシリアは思っている。
とりあえず、レガリア王国の迷惑にならない方法で帰らないとね、と思いながらも、シシリアは遠く母国に心を馳せるのだった。
その時、足音に気づいた。
規則正しく、迷いのない足取り。
振り返るまでもなく、誰なのかわかる。
「随分と歩き回っているようだな」
低く、よく通る声。
シシリアは立ち止まり、振り返った。
「陛下……書庫で調べ物ですか?」
夜通し、帝国の水の確保について議論した日から、アシュレインはシシリアに“名前呼び”を強制しなくなった。
そのうち嫌でも呼ぶようになる、というのが彼の言い分だが、果たしてそんな日が来るのだろうか。シシリアの頭は、疑問でいっぱいだ。
「お前の行き先を追っていたら、ここに辿り着いただけだ」
「ええと……ご用事でした?」
「ああ。“ご用事”だ」
アシュレインは、くつくつと笑った。
何か楽しいことでもあったのかしら、とシシリアが首を傾げると、彼は、やはり楽しげに目を細める。
「俺が来たのに、何も期待しないな。お前は、本当に何を考えているのだ?」
シシリアは、期待するようなことが何かあっただろうか、と考え込んだ。
あまりに真剣に考えるので、アシュレインは呆れて彼女を見る。
「……いや、いい。忘れろ」
小さなため息をついたのだった。
「それより、知恵を貸して欲しい」
急に皇帝の顔になったアシュレインに、シシリアは背筋が伸びた。
「浄水装置のエネルギー源の確保に行き詰まっていてな。何か、良い案はないか」
「エネルギー源ですか……あ! それでしたら、ラドビニアル共和国の古い魔導書がヒントになるかもしれません。先日、魔導研究所の資料室に伺った時に、読んだのですが、あの国は昔、お水に困っていて、たくさんの魔法を生み出していたようですよ」
「……魔導研究所の資料室に入ったのか?」
「はい。ここもそうですが、王国にはない貴重な資料がたくさんありました。帝国は素晴らしいところですね」
アシュレインは、シシリアがどこにいったのか、という細かい報告は、もはや省かれていると知った。細かい報告よりも、どんな発見があった、とか、何かが進展した、とかいう報告の方が、確かに重要ではある。
しかし、機密情報が多数置かれている資料室にまで入るとは……いや、職員が入れたのが問題なのか? そもそも、シシリアが入るのは問題なのか? アシュレインは、だんだんわからなくなってきた。
片手で目を覆って天を仰ぎ見ると、シシリアが不思議そうにした。
「――あの、陛下? いけませんでしたか?」
「……いや、お前に自由を許可したのは、俺だ」
はて?と首を傾げるシシリアの顔見て、アシュレインはクスクス笑った。
「なんでもないんだ。良いことを教えてくれた。礼を言う」
そう言ってシシリアの手を取り、閲覧スペースの椅子に座らせた。
自らも横に座り、体を彼女に向ける。
右手は、握られたままだ。
「――明日、レガリア王国の使節が帝都に入る」
シシリアは表情を変えず、少しだけ目を大きくした。
「王太子ユリアス・フォード・ディルクハイトが来る」
「えっ?」
思わず声を漏らしたシシリアに、アシュレインは静かに言った。
「王国の者たちが帝都を去るまでは、離宮から出ることを許さない」
金の瞳は、拒否を許さなかった。
「王太子の目的は、明らかだ」
シシリアの右手を握ったアシュレインの手に、ぎゅっと力が入る。
「俺は、お前を王国に帰す気はない」
「――ユリアス殿下の目的は、私には分かりかねますが……陛下は、なぜ私をそこまで拘束するのですか?」
実際には拘束されていない。何をさせるでもない。シシリアには自由がある。しかし、帰国は認められていない。
その理由を問うと、アシュレインは、口元だけ上げた。
「理由が必要か?」
シシリアの目をじっと見返す。
「お前が必要だ。――それではだめか?」
アシュレインの視線に耐えきれず、シシリアは目線を逸らして彼が握る手を見た。
帝国は、シシリアに――魔法薬術師に何かをさせるために攫った。シシリアがそれを拒否すると、ただここにいることを強制するようになった。
確かに不自由はない。周りも皆優しいし、皇帝も気にかけてくれる。希望すれば、大好きな研究もできるのだろう。けれど――
「……けれども、私は――」
言い終わる前に、シシリアの手を離してアシュレインは立ち上がった。
「明日より、俺が許すまで離宮から出るな」
そう言うなり、背中を向けて立ち去ってしまった。
その背中が、全てを拒絶しているように見えて、シシリアは彼に手を伸ばし――やめた。
シシリアは、彼にかける言葉を持ち合わせていなかったから――




