帝国へ行かない理由
魔導院――シシリアの研究室は、静かすぎた。
いつもなら、紙を捲る音がある。薬瓶の触れ合う小さな音、ペン先が走る音がある。植物がしきりに葉を擦り、魔物の爪がカタカタと震える音――それらはすべて、彼女と共にあった。
今はない。
アーシェルは、彼女が使っていた作業台の前に立ち尽くしていた。
片付けられていない器具。書きかけの式。端が折れたままのメモと、放り出されたペン。ドロリとした何かに突っ込まれた銀の棒は、未だにぐるぐる動いているが、粘度が増したのか昨日よりも動きが鈍い。ガラスの容器を食べていた植物は、今は全身で陽の光を浴びている。
――昨日まで、確かにここにいた。
指先が、無意識に机の縁をなぞる。
触れた木材は冷たく、まるで他人の場所のようだった。
「……シシィ」
今一番に会いたい人の名前が、淋しいほど静かに響いた。
帝国が関与している。
転移の痕跡も、隠蔽の方法も、すでに解析は終わっている。
王国は動き、ユリアスは帝都へ向かう準備を進めるのだろう。
情報はある。
理解もしている。
――それでも、自分は動けない。
拳を握りしめる。
爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走った。
魔法が使えないわけじゃない。
実力が足りないわけでもない。
ただ、立場がない。
魔導院に籍を置く、公爵家の人間に、他国との交渉権も、使節団に名を連ねる資格もない。
「彼女を取り戻しに行く」理由を、公に持てない。
彼女のそばにいるために積み上げてきた知識も、彼女を守るために磨いてきた魔法も、今は、何の役にも立たなかった。
――守れなかった。
その事実が、胸の奥で重く沈む。
怒りがないわけじゃない。
帝国への憤りも、奪った者への殺意も、確かにある。
けれど、それ以上に――
自分自身への失望が、喉を塞いでいた。
今すぐに、王国を飛び出してシシリアを探し出せたら?
今すぐに、彼女の元へ転移できる術を見つけ出せたら?
――できるものならやっている。
「帝国が」シシリアを攫ったという事実が、アーシェルを動けなくさせていた。
今、帝国は国境を閉鎖し、明らかに王国へ敵意を向けている。
国家として彼女を攫ったのであれば、たとえ彼女を見つけ出して無理矢理にでも連れ戻したとして、その事実が帝国にとって交渉を有利に進める事柄になる――それは、シシリアが悲しむだろう。
では、王国に戻らずに、どこか誰も知らない場所で二人で暮らそうか――これは、シシリアが生涯王国を、家族を気にかけることになるだろう。
何をしてでも、シシリアを見つける自信はある。
しかし、彼女の笑顔を思い出すにつけ、実行に移す勇気がでなかった。
……アーシェルは、彼女のノートを一冊、そっと手に取った。
開けば、見慣れた癖のある文字が並んでいる。
研究の途中で止まった思考。
彼女が、今もここにいて、時が止まっているかのような風景。
「……シシィ」
それは、声にならない声だった。
ページを閉じ、ノートを元の位置に戻す。
彼女が戻った時、困らないように。
自分は、ここにいる。
動けない自分を、情けないと思いながらも。
それでも、耐えることを選んだ。
「――まだだ」
アーシェルは、そう呟いて、静かな研究室に背を向けた。




