帝国へ行く理由
シシリアの失踪が、帝国の関与によるものだと判明したその日。
王国は、即座に動かなかった。
拙速が、最悪の結果を招くことを、彼らは知っていた。
帝国はすでに国境に軍を集結させ、臨戦態勢にある。
こちらが「攫われたから返せ」と声を荒げれば、それは開戦の口実になり得た。しかも、王族であればいざ知らず、侯爵家とはいえ王国民の一人である。“国”が表立って動くのは、不自然だった。
国王と謁見した王太子、リュミエラ侯爵、ルーファス、そして魔導院長、魔法薬学科長、応用魔法科長は、それぞれに報告を行い、正式にシシリアを連れ戻す許可を得た。
ただし、と国王はユリアスを見る。
「帝国との開戦は絶対にならぬ。王国民が不利になることは、決して行わないこと」
次にリュミエラ侯爵と次期侯爵を見据える。
それは、国王としての強い眼差しだった。
「リュミエラ侯爵には悪いが、もし、誰かを差し出すことで王国が守られるのであれば、私は自分の子であっても差し出すだろう」
「陛下、それは――」
リュミエラ侯爵は何も言わなかったが、ユリアスが、思わず反論しようとした。しかし、国王は片手を上げることでそれを制した。
そして、息子を優しく見返した。
「もちろん、本人が全てを知った上で納得すれば、の話だ。納得しない者を送ったとして、得られるものは不幸だけだ」
国王の意を得たように、リュミエラ侯爵は返答した。
「存じております。娘が“帝国に残る”と言えば、それが王国にとって誤りでない限り、私は娘の意思を尊重します」
ユリアスは、ぎゅっ唇を噛んで耐えるしかなかった。
国王との謁見を終えたあと、ユリアスは、リュミエラ侯爵に呼び止められた。
王宮の奥、公式記録には残らない応接室だった。
「殿下。帝国へ向かわれるにあたり、確認しておきたいことがあります」
ユリアスは頷き、向かいの席に腰を下ろした。
侯爵は、正面から彼を見据える。
「殿下は、何を目的として帝都へ向かわれますか」
即答はできなかった。
沈黙の中で、ユリアスは自分の胸の内を整理する。
一拍。
ユリアスは、正直に答えた。
「シシリア嬢を、連れ戻す」
侯爵は否定しなかった。
ただ、静かに頷く。
「私も、娘を連れ戻したい。ですが、我々は貴族です。いわば、王国の“意思ある駒”です。――平民とは違う」
侯爵の言葉に、ユリアスは息をのんだ。
「侯爵、それは……」
「貴族は、平民を守るための“意思ある駒”です。彼らの生活を守り、有事の際は盾になって戦う。そのための教育も受けています」
リュミエラ侯爵は、穏やかに語る。
シシリアを守ることが第一ではあるが、本人が本心で望み、国益になるのであれば、無理に連れ帰ることはない。
ただし、帝国が彼女を攫ったのは、間違いなく戦争の兵器を完成させるため。実際、王国内で魔法薬術師が消えている。もし、兵器の完成に加担しているのであれば、無理矢理にでも連れ帰る、と。
何も言えないでいるユリアスに、リュミエラ侯爵は、ただ、と続けた。
「親の贔屓目かもしれませんが、娘は案外頭がいいのですよ」
父親の顔をした侯爵を、ユリアスは驚いて見返した。
彼は、いつも穏やかだが、こんなにも柔らかい表情を見るのは初めてだった。
「多分ね、娘は、本当に嫌だったら何をしてでも帰ってきます。それこそ、城を破壊してでもね。それをしないのは、娘の希望にあった環境なのか……少なくとも、安全なのでしょう」
「しかし、魔法を封じられている可能性も……」
「娘を封じられる魔法や魔具が、帝国にあるとは思えません」
断言した侯爵に、ユリアスは少し遠い目をした。
「でも、娘を心配していただいて、ありがとうございます」
軽く頭を下げる侯爵に、慌てるユリアス。
「あ、いや、私は……私は……謝らなければならない方で……」
クスクスと笑って、侯爵は続けた。
「成長されたと、聞いていますよ。二人ともね」
ここまでは優しい声だったが、次の言葉は、元の侯爵に戻っていた。
「――さて、殿下。殿下は、娘を連れ戻しに行っていただけるのですよね?」
急に雰囲気が戻った侯爵に驚いたユリアスは、「あ、はい」としか言えなかった。
「では、それを前面に出してはいけないことも、わかりますね?」
低く、穏やかな声に、ユリアスは頷いた。
「殿下が帝国に行かれるのは、王国の王太子としてです。今回は、帝国との衝突を避けるための、正式な使者です」
ユリアスは、拳を握りしめたまま頷いた。
「……わかっています」
「ならば、殿下は交渉に専念してください」
侯爵は、そう言って続けた。
「裏の調整、証拠の整理、外務庁への根回し。それらは、我々大人の仕事です」
その言葉に、ユリアスはゆっくりと息を吐いた。
自分が独りではないことを、ようやく実感する。
それでも、帝都へ向かう道のりが、これまで最も長く感じられるであろうことを、彼は予感していた。
ユリアスが王太子として帝国へ赴く準備は、迅速に整えられた。
表向きは、国境に展開された帝国軍と、国境閉鎖の解決のために。
王太子一行が帝都に入ったのは、シシリアが失踪してから十日。異例の速さであった。




