動き出す帝国
翌朝。
皇帝アシュレイン・ザフィールは、定刻を過ぎても執務室に姿を見せなかった。
ヴァルディスは三度目の確認で、ようやく異変を確信した。
近侍は首を横に振る。寝室も空、浴室も未使用、準備された寝衣もそのままだ。朝食も食べていない。
「……陛下が、いない?」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
一方、離宮。
シシリア付きの侍女は、アシュレインが選別に口を出した。風変わりな令嬢が軽んじられては困る、と。
しかし、それはアシュレインの杞憂に過ぎなかった。
そもそも、女性に冷たい皇帝が珍しく連れてきた若い女性で、しかも明らかに甘い。態度がおかしい。
この令嬢を軽んじただけで自分に何が起こるかなんて、考えなくてもわかるだろう。
そういうわけで、シシリア付きの侍女たちは、彼女に驚かされてばかりいるものの、毎日真面目に仕事をこなしていた。
今日も、侍女はいつもの時間に扉を丁寧にノックした。
返事がないのも、起きていないのも、いつものことだ。
そっと扉を開けて、床を見る。
いつもなら、毛足の長いふかふかの絨毯の上で、床に資料を広げたまま寝てしまっているのだが……この日はいなかった。
珍しく起きているのかと視線を巡らすが、やはりいない。カーテンを開けながら部屋中を探したが、いない。
予想外の行動をするご令嬢なので、また何か思いついたのか。少し変わった方だけれど、本当にしてはいけないことはしない――と思う。とにかく侍女頭に報告をして、シシリア付きの侍女だけで、彼女が行きそうな場所を探すことになった。
そして、彼女たちの予想通り、シシリアはごく近い場所にいた。
侍女の一人が図書室の扉を開けると、中から話し声がした。
物音を立てないように気をつけながら入ると、朝日が差し込む閲覧スペースで、探しているご令嬢――と、皇帝がテーブルを挟んで向かい合っていた。
テーブルには、地図や本、何かを書き留めた紙が所狭しと広がっている。
それらを指さし、持ち上げ、ページを捲り、二人は呪文のような言葉を投げかけあっている。皇帝の指が地図の一点を叩く音だけが、時折り強く聞こえる。
意見はぶつかっているのに、その場に漂うのは対立ではない。
時々漏れる笑い声。まるで、遊びの延長のように、明るい閲覧スペースで議論が続く。
侍女は、そのままそっと図書室を出て扉を閉めた。
それから少し遅れて離宮の前に辿り着いたヴァルディスは、扉の前で足止めを食らっていた。
「陛下は?」
「いらっしゃいません」
「昨夜から、一度も?」
「私は、見ておりません」
「リュミエラ嬢に、お会いしたい」
「お嬢様は、お休み中です」
「…………」
明確な拒絶。
一歩も引かない表情。
胃のあたりが、きり、と音を立てた。
宰相は、天を仰いだ。
そして、彼は静かに踵を返した。
現皇帝が政務をサボったのは、後にも先にもこの一度きりであった。
⸻
翌日。
皇帝アシュレイン・ザフィールは、定刻より早く軍務会議室に姿を現した。
昨日の不在が嘘のように、背筋は伸び、金の瞳には曇りがない。
集められたのは、宰相、内務・外務・財務・工務・魔導・農政・水道の行政部門各局長、軍務・軍事研究の軍務部門各局長――帝国の中枢だった。
席に着くなり、アシュレインは口を開いた。
「レガリア王国への進軍は、即時中止する」
一瞬、空気が凍った。
誰かが聞き返すより早く、皇帝は続けた。
「国境に展開している部隊は、そのまま防衛配置に切り替えろ。補給線は維持するが、侵攻準備は全て凍結。国境を開き、通行する人々の保安にあたれ」
軍務長官の顔色が変わった。
「……理由を、お聞かせ願えますか」
アシュレインは、宰相を一瞥した。
ヴァルディスは、白々しく目を逸らす。
「水道局長。説明しろ」
命じられた水道局長は、はい、と返事をしてから、自らに職責を賭ける覚悟で、ことの次第を説明した。もちろん、彼女の存在は伏せた。
説明を聞いて、今度は軍事研究局長が顔色を変えた。
「まさか、それは――ヒッ!」
言いかけて、変な声を出してやめた。
金の瞳が刺さったためだ。
軍務局長は、ため息をついた。
「説明になっておりません。水道局の失態と進軍の中止、何の関係があるのでしょうか」
「それがわからぬのなら、お前は不要だ。帝国は、民を犠牲にして成り立つ国ではない」
その場にいた全員の視線が、皇帝に集まった。
軍務局長が、腰を浮かす。
「陛下。何をおっしゃっているのか、おわかりですか?」
金の瞳は、なおも冷たい。
軍務局長から興味を失ったように視線を逸らし、宰相の名を呼んだ。
呼ばれた宰相が、軍務局長に向き直る。
「陛下の帝国に、侵略者は不要だ。進軍という結論に至った理由を考えてみてはどうかな。――さて、ドルマン殿、退席願おう」
軍務局長にそう言って、副局長を呼ぶよう指示した。
軍務局長は、皇帝に異議を申し立てたが、彼が金の瞳に映ることは、もうなかった。
強制的に退席させられた軍務局長の代わりに来た男を加えて会議は粛々と進められた。
「行政部門は、この事態の徹底的な調査と解決策を検討しろ。軍務部門は、情報管理と治安維持を行え。民の安全を第一とし、不正や暴動を起こさせるな」
会議の最後、皇帝の言葉に、一同は頭を下げた。
ヴァルディスは、これから起こるであろう混乱をどう乗り越えるか考えを巡らし、胃の辺りを抑えた。が、これまでとは違う帝国の進み方に、広角が上がっているのも自覚していた。




