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残酷な善意

 その夜。

 アシュレインは、また離宮を訪れた。

 シシリアの寝室。

 床に広がるのは、帝国の地図と何かの設計図、開かれた古文書、帝国の歴史書。

 何をしていたのか、わかるようでわからない状態で、シシリアは今日も落ちていた。

 開いた資料は大理石の床に、自身は毛足の長い絨毯の上にいるのだから、アシュレインはいつも、器用に寝落ちするんだな、と感心している。

 いつも通りのシシリアを見て、口の端だけを少し上げたアシュレインは、やはりいつも通りに外套をシシリアにかけた。そして、いつもとは違い、寝ているシシリアの横に、片膝を立てて座った。

 顔にかかっている白金の髪を、後ろへ流す。

 その頬に触れようとした指は、そこまで数ミリを残して止まり、諦めたように離れていった。

 金の瞳はシシリアから離れ、ここにはない帝国の大地を想う。

 ――育たない作物。

 ――痩せた家畜。

 ――小さな子供たちの手に乗る、小さな木の実。

 なんとかしなければと、歴代の皇帝に従って兵を動かした。

 だというのに、己の足元さえ、見えていなかったとは。

 アシュレインは息を深く吐き、ただその場で床に落ちた帝国の地図を眺めていた。


 どれくらい時間が経ったのか。

 シシリアが身じろぎする音が聞こえた。

 アシュレインがそちらに目を向けると、わずかに開いたライラックの瞳と視線が合った。

 見つめ合うこと数秒、ライラックの瞳の瞼が閉じて、もそもそと外套の中で丸くなる。

「――ちょっと待て。起きたら隣に男がいるのは、悲鳴をあげる事案ではないのか?」

 アシュレインは、シシリアが頭から被った外套を剥ぎ取った。

「……寝ている女性の掛け物を取り上げる方が、悲鳴案件です」

 丸くなったまま、むすっとしている。

「…………悪かった」

「いえ」

「…………」

「…………え?」

 シシリアの目が、まん丸く開いて固まった。一瞬間を置いて勢いよく起き上がる。

「じょ……女性の寝室に無断で入るなんて……失礼すぎますっ!」

 顔が赤くなっているのがおかしくて、アシュレインの表情は少しだけ緩んだ。

「今更だろう?」

「今更って……あっ!」

 シシリアは抗議をしようとして、重要なことを思い出した。

「あの、いつも、外套をありがとうございます」

 今朝言えなかったことを言えて、シシリアは安心した顔になった。

 その顔を見てアシュレインは呆れた。が、彼女らしいとも思った。

「ああ。――まあ、悪かったな。無断で立ち入って」

 アシュレインはそう言って腰を上げると、袖をくんっと引っ張られた。

 何かに引っかかったかと思って見ると、シシリアの指がアシュレインの袖を軽く摘んでいた。

「なんだ? 淋しいのか?」

 ライラックの瞳に見つめられて落ち着かないのを隠そうと、軽い口調で揶揄った。

 慌てて否定すると想定した目の前の女性は、その期待に反して落ち着いている。

「――大丈夫ですか?」

 アシュレインは、息が止まった。

 柔らかく、透明な声は、ゆっくりと続ける。

「泣いていたんですか?」

 残酷だ、と思った。

 不敬だ、と怒ってもいいはずだった。

 それもできずに、言葉の主を見つめ続けた。

「――陛下?」

 覗き込む瞳から、逃れられなかった。

 そのまま、その瞳に喧嘩を売った。

「――お前のせいだ」

 決して大きな声ではない。

 しかし、それは静かな部屋に、確かに響いた。

「お前が悪い。お前のせいで、俺は……」

 見返す瞳は、ガラス玉のようだった。

 ひどい言いがかりだということは、わかっている。

 彼女は、何も悪くない。むしろ、帝国は、彼女に救われた。

 全ては、自分が招いたことだ。

 泣くだろうか。怒るだろうか。それも――


(――嫌われただろうか……)


 そう考えて、アシュレインは途方に暮れた。

 まっすぐな瞳を、もう見返すことができなかった。

 形になった言葉は、戻らない。

 もう、元には戻らないのだ――

「――大丈夫です」

 それなのに、耳に届いた声は、変わらず柔らかかった。

「怖がらないでください。大丈夫です、陛下」


(――あの時も、そうだった)


 アシュレインは、思い出していた。


 ――貴重な素材が獲れました!

 ――だから、怖がらなくても、大丈夫ですよ。


 四年前も言われた言葉。

 初めて見る魔物に苦戦していた時、横から現れて魔物を撃破した女。

 言われて初めて、手の震えに気づいた。

 もうダメだと思っていた自分に気づいた。

 

(そうか。今も、俺は怖がっていたのか)


 アシュレインは、もう一度シシリアを見た。

 泣いてはいない。怒ってもいない。困っても、戸惑っても、哀れんでもいない。

 シシリアは、ただまっすぐに、彼を見つめていた。

 アシュレインは、その瞳を見返しながら、彼女の隣にゆっくりと腰を下ろした。

「――手を、握ってもいいだろうか」

 シシリアは柔らかく微笑んで、彼の近くにある手――左手を少しだけ上げた。

 その手を握って、アシュレインは大きく息を吐き出した。


 そろそろ手が痺れてきたので、シシリアは、横にいる皇帝をチラリと見た。

「――あの、陛下?」

 声をかけると、金の瞳が鋭くなった。

「何度言わせる? 名で呼べ。ここには誰もいない」

「えー……」

 まだそれ続いているんですね、とシシリアは呆れた。その顔が、たいそう間が抜けて見えて、アシュレインはたまらず笑ってしまった。

 シシリアは、目を嫌そうに細め、もう一度「えー……」と言った。

 それすら面白いと感じるのは、頭がどうかしてしまったのだろうかと思いながら笑ったが、シシリアがため息をついたのを見て、アシュレインはなんとか笑いを収めた。

 一度深呼吸をしてから、彼女を見た。

「――悪かった。笑ったこともそうだが」

 言葉を切った皇帝に、シシリアがじっと見返して続きを待つ。

「――八つ当たりをした。すまない」

 シシリアは、目をぱちぱちと瞬いてから、首をコテンと傾けた。

「ええと……? 許します?」

「謝ったのに、なぜ疑問で返す」

 金の瞳が半開きになった。

 この皇帝は、たまに目つきが悪くなるな、と思ったが、賢明なシシリアはそれを喉の奥に飲み込んでおいた。

「だって……よくわからない冤罪をなすりつけられて、“あ、これは、皇帝の都合で消されるやつだわ”とは思いましたけれど、八つ当たり? の部分はどこだったのか……」

 帝国のトップは脱力してしまった。

 なんなのだろう、この緊張感のない会話は。

 ここで笑えば、また怒り出すのが目に見えているシシリアを前に、アシュレインは歯を食いしばって堪えた。

「まあ、お前がそう言うのなら……」

「冤罪は、“なし”ですか?」

「“なし”だ」

 アシュレインがそう言うと、シシリアは目に見えてホッとした。

 それを見て、アシュレインも、なぜかホッとしてしまった。

 空いている左手で、白金の髪を優しく撫でた。

 気が抜けたついでに、アシュレインはこの自由な令嬢に聞いてみたくなった。

「もし――取り返しのつかない間違いをしたら、お前はどうする?」

 帝国軍を動かしてしまった。もう戻すことなど、できないだろう。

 アシュレインは、唇を噛んだ。

 それに対するシシリアの答えは、呑気だった。

「まあ、謝って訂正するしかないですねえ」

 いっぱい怒られますけど、とおまけ付きだ。

「――取り返しがつかないのだぞ?」

 アシュレインが重ねて言うと、シシリアは首を傾げる。

「それは、もう完遂してしまったんですか?」

「いや。しかし、止めることなど……」

「でも、間違えなんですよね? わかってるなら、やめるしかないです」

 にっこり笑った。

「途中で気づけて、よかったですね」

 アシュレインは、笑顔は凶器になるのだと知った。

 それでも、質問を続ける。

「では、それを止めたとして、正しいやり方がわからない。お前ならどうする?」

 だったら、とシシリアはゆっくりと答えた。

「先人の知恵を拝借いたしましょう。何か物事を始める時は、必ず先人が力を貸してくれるはずです」

 アシュレインは、息を吐いた。

 それをするためには、皇帝の立場は重すぎる。

「――本当に、お前のせいだからな」

 苦笑いを含んだアシュレインの言葉に、シシリアは、また「えー……」と言った。

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