静かな夜
夜の離宮は、静かだった。
帝都の灯りは遠く、窓越しに見える光はどこか非現実的で、研究用の標本瓶を眺めているような気分になる。その窓は外に張り出した作りで、腰掛けられるようになっていた。
シシリアは、そこに腰掛けていた。
膝に抱えた本のページは、先ほどから進んでいない。
(……本当に、皇帝だったのよね)
塔を壊して、着替えさせられて、取引を持ちかけられて、断った。
けれど――彼の視線が気にかかっていた。
控えめなノックが聞こえた。
「入っても?」
返事をする前に、扉は静かに開いた。
わずかな隙間から顔を覗かせたのは、アシュレインだった。
シシリアが小さく頷くと、そっと扉を開いて歩み寄る。
昼間と同じく、装飾の少ない服。皇帝としての威圧は薄く、むしろ落ち着いた研究者のように見える。
アシュレインは、シシリアの座る出窓の反対側に腰掛け、彼女の顔を覗き込んだ。
「眠れない顔だな」
「……少し」
それだけで、すべて察したように彼は頷いた。
「無理もない。お前にとっては、すべてが唐突すぎるからな」
距離を詰めてこない。
だが、逃げ場も与えない。
「それでも、逃げなかった」
シシリアは、アシュレインを見上げた。
「逃げようと思えば、できただろう」
事実だ。
この離宮に、彼女を本気で拘束できるものはもうない。
扉の前には兵士が立っているが、形だけだ。
拘束用の魔具も、魔法陣も、何もない。
「……ちょっと……反省しまして……」
これも事実だ。
アシュレインは、一瞬沈黙してから、我慢できずに吹き出した。
「――っく……くっ……はははははっ! お前がそれを言うか!」
大笑いするアシュレインに、シシリアは気分を害した。
自分だって、失敗したら落ち込むし、反省だってするのだ。
けれども、失敗したことを話す友人たちは、ここにはいない。
呆れてため息をつく人も、怒って「次はしない」ことを約束する人も、眠たくなるまでお説教を続ける人も――
そこまで考えて、シシリアは「あら?」と首を傾げた。
よく考えると、自分はまあまあ怒られている。
失敗が多いのか? いや、一人で素材採集に行っても、研究台を焦がしても、触れるとちょっと気絶する魔法植物を育ていても、ため息をつかれたり怒られたりする。
そうすると、周りに怒る人が多いということか?
シシリアが、首を捻って考えていると、アシュレインの声がした。
「――一人で何をコロコロと表情を変えている?」
もう笑っていない。
興味深げな金の瞳が、シシリアをじっと見つめている。
そんなに表情を変えていたかしら、と、シシリアは両手で頬を覆った。
「あの、いえ……少し、考え事を……」
恥ずかしくなってそのまま俯くと、アシュレインは彼女の両手をそっと顔から離して、下から顔を覗き込んだ。
「――どんな?」
低く、落ち着いた声でシシリアに問う。
シシリアは、きっと顔が赤くなっているわと思い、慌てて俯こうとしたが、今度はアシュレインの両手に顔を包まれてしまい、彼の方を向くことしかできなくなってしまった。
「シシリア。お前という人間を、知りたいんだ」
この状況で、この人は、なんてことを言うんだ!? とシシリアは心の中で叫んだ。
この人、自分の顔の良さをわかっていない!
声の色気をわかっていない!
言ってることの破壊力をわかっていない!
これは、今注意をしてあげないと、この人派手な誤解を受けるわ!
――と、シシリアは使命感に駆られた。
よし、と気合を入れて口を開く。
「陛下、あの――」
「アシュレイン」
最初から言葉を断ち切られた。
「陛下ではなく、アシュレイン、と」
あなたもですか、とシシリアは自国の王太子を思い出したが、余計なことは言わないことにした。
「アシュレイン様――」
「アシュレイン」
「アシュレインさ――」
「アシュレイン」
「…………」
「アシュレイン」
――自国の王太子よりも、手強かった。
「……アシュレイン」
シシリアが負けを認めると、金の瞳が細められた。
その表情を見て、やっぱりこの人、わかっていないわ、とシシリアは気持ちを持ち直した。
「あの、誤解を招く言い方は控えられた方がよろしいかと」
「何のことだ?」
アシュレインが、不思議そうな顔をする。
とりあえず、顔から手を離していただきたいものだ。ずっと手を挙げていて、疲れないのだろうか。
「“お前を知りたい”などと仰いますと、女性に誤解を生むのではないですか?」
アシュレインは、首を傾げた。
「誤解とは?」
「いえ、ですから、陛下――じゃない。アシュレインさ……は、お顔もきらきらしいですし、あんなことを言われたご令嬢は、その……へい……アシュレイン……に、好かれていると、勘違いするのではないのでしょうか」
シシリアは、なんとか言い切った。
達成感に満足しているシシリアを、アシュレインは、ようやく手を顔から離して不思議そうに見つめる。
少しだけ、距離が離れた。
「――シシリアは、そう思ってくれないのか?」
金の瞳が不思議な色に揺れたのを見て、シシリアは、それよ!と思った。
「ほら、それです! へい……アシュレインは、無意識に誤解をばらまいているのです! 自覚をお持ちくださいませっ!」
シシリアの勢いに、アシュレインは押され――なかった。
一瞬の間の後、たまらず吹き出した。
口を抑え、苦しそうに肩を震わせている。
笑いを堪えているが、全く堪えきれていない。
本日二度目の場面な気がする。
「――もう、いいわ」
何がそんなに笑えるのか、今度こそとても腹が立ったシシリアは、腕を組んでプイと窓の外へ顔を背けた。
出窓に腰掛けて怒る他国令嬢と、その前に膝をついて笑いを堪えうずくまる帝国皇帝という、とんでもない構図だ。
アシュレインは、息も絶え絶えになりながら、ようやく動き出した。
何とか出窓に座り直し、シシリアに向き直る。
「――いや……すまなかった」
シシリアは、不機嫌顔のまま外を向いている。
「無自覚の塊に自覚を持てと言われるとは、思わなかったのだ」
笑いを含んだ言葉に、シシリアは怒ったままだ。
「なによ! 私はただ、心配しただけなのに、笑うことないじゃない!」
アシュレインを見ようともしないシシリアの怒った顔を見て、彼はつい微笑ましく思ってしまった。
シシリアの組んだ腕を解いて、左手を取る。
「心配してくれたことには礼を言う、シシリア。だが俺は、お前のいう“誤解”をされたいんだ」
不思議なことを言われ、シシリアは思わずアシュレインを見た。
彼は、シシリアの瞳をじっと見つめ返す。
「四年だ」
「……え?」
「お前と出会って、四年」
アシュレインは、シシリアの右頬を撫でた。
「俺は、気が長い方ではないからな」
金の瞳は、獲物を見つけた猛獣のように光っていた。




