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転機はあっちからやってくる

お兄様の登場です

 その日は、すぐそこに春が迫っているが、まだ寒い一日だった。

 シシリアが店先で薬草の仕分けをしていると、村人のざわめきが聞こえた。

「えっ、あれって……王都からの馬車じゃないか?」

「こんな辺境の村に? 村長の家にでも行くのか?」

 シシリアは、まさかと思いながら顔を上げた。

 馬車が停まり、そこから降り立ったのは――

 王都魔導院の紋章を刻んだ濃紺のローブをまとい、銀縁の眼鏡をかけた端正な青年。

「……お兄様?」

 シシリアの兄、ルーファス・エルネスト・リュミエラ。

 若くして魔導院の理事も務める切れ者。そして次期リュミエラ侯爵。

 常に冷静沈着で、頭を下げることなどほとんどない――そんな人物が、わざわざ辺境の村まで来た。

 シシリアは、とりあえず逃げようと考えた。だって、今のステキな生活を捨てたくない。魔法薬の研究し放題、素材採取し放題、ついでに森の探索もし放題だ。ちょっと身の回りにうるさい同居人はいるが、些細な問題だ。

 ――よし、逃げよう。

 素早く身を翻したシシリアだったが、一瞬遅かったらしい。目の前にルーファスがいた。

「……あら、お兄様、ご機嫌よう。さっきまで馬車の近くにいらっしゃいましたよね? 少し会わないうちに、移動魔法を開発なさったの?」

「やあ、シシィ、久しぶりだね。愛しい妹の近くに行けるなら、私は時間さえも飛び越えてみせるよ」

「まあ、お兄様ったら。それならお帰りもすぐですわね」

「だからこそ、ゆっくりできるというものだよ」

 シシリアより少し金の強い白金の髪は、ゆるく左耳の下で束ねている。父親譲りの深い海の色の瞳は、妹を優しく写している。

 リュミエラ侯爵家の兄妹が揃っていると、それは絵画のように美しいはずなのだが、シシリアの残念美人な様子と二人の不毛な会話が、またもや何もかもを台無しにしているのだった。

「――あの、とりあえず、中にどうぞ?」

 控えめなライルの声に従って、二人は薬屋に入っていった。

 後にはざわつく村人と、「close」の表示だけが残された。

 

 *


「講師になってほしい」

「謹んでお断りいたします」

 微笑む兄と、微笑み返す妹。

 その横で、ライルはそっと湯気の立つお茶を置いた。

 シシリアはにこにこしながら兄の言葉を受け流し、ルーファスはにこにこしながら妹の拒否を無視している。

「シシィ。君が本気を出した姿を、私は誰より知っている。だからこそ、魔導院で教える姿も見たいんだよ」

「まあ、お兄様、本気だなんて……そういうことでしたら、もっと研究を深めなければなりませんわね」

「そうだね。講師になるには、研究の深化も必要だと、私も思うよ」

「お兄様は、講師のお仕事をそのように思われるのですね。ご立派です」

「シシィは、講師を立派だというのだね。私は、そんな講師の仕事を君に勧められるのが誇らしいよ」

 永遠に続く平行線に、ライルは目眩がしてきた。

 会話をしているのに、全く話が噛み合っていない。


 (二人とも、さっきから全然会話が成立してないのに、成立しているように見えるのは……どういう理屈なの?)

 

 恐ろしいほどの微笑みで(たぶん)口論をしている兄妹に、ライルは気が遠くなるのだった。


 *


 しばらく平行線を続けた後、二人は仲良くお茶を飲んだ。

 少し冷めてしまったお茶は、疲れた喉に心地よかった。


「――さて、シシィ。」

 一息ついて、ルーファスは続けた。

 優しい笑顔と柔らかい口調はそのままだったが、雰囲気が変わったのをシシリアは見逃さなかった。

 こういう時のルーファスには、安易な返答をしてはいけないのだ。

「ねえ、シシィ。君が薬屋を開けたのは誰のおかげだい?」

 その声音には、微笑みの下に隠した冷たい刃のようなものがあった。

「建物は父上の援助。共同経営者のライル君も、我が家の伝手で来てもらった」

 全くその通りなので、シシリアは黙って頷いた。

「君が“貴族であり続ける”ために、どれだけの恩恵を受けているか、そろそろ理解しようね?」

 声は柔らかい。けれど、言葉の端に逃げ道がない。

「君は、未だ侯爵家の令嬢だ。婚約の白紙撤回という醜聞があるから、姓を変え姿を変えた。そして、心の傷を癒すために侯爵家の領地で療養している――そういうことだね」

 そう、シシリア・ミラ・リュミエラは、消えた令嬢などではない。今は「心を癒すために領地で療養している」が、領民を守り、国を支える貴族であることは間違いないのだ。

「――でも、お父様は好きにして良いと言いました」

 自分は我慢した、だからこの生活を続けたい、と必死に訴えるシシリアに、ルーファスは初めて表情を変えた。

 青い瞳は深さを増し、優しかった声の温度が下がった。穏やかな口調はそのままに、ふっと笑顔が張り付いたようだった。

「もし君が“貴族としての責務を果たさない”というのならね、君を除籍するという選択肢も、当然、出てくる」

「…………つまり、家族ではなくなる、と?」

「貴族の義務を果たさぬ者は、血縁であっても家に置けない」

 シシリアは、膝の上で組んだ両手をじっと見つめた。

「シシィ、私は少し怒っているんだ。頭の良い君なら、わかっているのではないかな。責任を放棄して、好きなことだけをしているのであれば、それは誰の賛同も得られない。君は、まさに今、愚か者になろうとしているんだ」

 沈黙が流れた。

 シシリアは、ルーファスの顔が見られなかった。

 そんなことはわかっている。わかっているが、十年も我慢したのだ。もう少し羽を伸ばしても、いいではないか。十年――いや、あと少しでいい。自由でいたい。

 声にした瞬間、それが甘えだとわかってしまう。シシリアは、唇にぐっと力を入れて、何かに耐えた。

 どのくらいそうしていたのか――ふと、両手が温かくなった。

 シシリアは、ルーファスの手が、己の両手を包んでいることに気付いた。

「――十年――よく耐えたね、シシィ」

 ルーファスは、いつもの柔らかい声で、労わるような笑顔で、シシリアの前に両膝をついていた。

「君は、よく頑張った」

 シシリアの心を締め付けていたものが、一気に解けた。

 ライラック色の瞳からは涙が溢れ、彼女の手を握ったルーファスの両手に、ぱたぱたと落ちていく。

「……わ、わた、し…………頑張っ……無視されて、も……いじわる……言われ……も、我慢し……てっ! ばかなふり、も……目立つ、なって……無難……にって……言われ……っ」

 傷ついたのだ。個性を否定されて、自由を縛られて、ただ従順さを求められた。自分を否定され続けた十年は、傷つかないわけがなかった。父や兄が、自分を助けられない立場なのも知っていた。けれど、十年は、長かった。

「――うん、シシィ。辛かったね。助けてあげられなくてごめんね。でも、もう大丈夫だ」

 ルーファスは、しゃくりあげるシシリアの隣に座って、彼女を横から両手でそっと包み込んだ。

「君を守る準備はできた。君は君のままでいい」

 子供のようにしがみついてくる妹の白金の髪を、ルーファスは愛おしそうに撫でた。

「シシィのままで、戻っておいで」

 

 *


 ライルは黙って二人を見ていたが、空気の重さに軽く縮こまっている。

 部屋を出ようにも、物音ひとつ立ててはいけないという圧が強すぎて、動けなくなっていた。

 二人の会話に目眩を覚え、ルーファスの空気に震え、シシリアの思いに目の奥が熱くなった。しかし――


(……これ、僕が居ていいのかな……?)


「今日の献立百選」を持ったまま、″とりあえず目立たない置物になる″という高度なスキルを獲得した。

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