手遅れかな?
瓦礫の撤去が進み、立ち入り禁止の結界が張られた後、シシリアは別棟へと移された。
怪我はない。医師の確認も形式的なものだった。
問題は――その後だ。
シシリアは帝国の侍女たちに囲まれ、お風呂に放り込まれ、あっという間に着替えさせられていった。
実用性を重視した、淡い色合いの室内服。装飾は控えめだが、上質だと一目でわかる。
皇帝は少し離れた位置から、髪を結われるシシリアを眺めていた。
(……落ち着いているな)
混乱も、抵抗もない。
連れてこられるがまま、されるがまま。
恐怖はなく、適度な警戒はある。
侍女たちが一礼して下がり、部屋には皇帝と宰相、そしてシシリアだけが残った。
アシュレインは、ゆっくりと口を開く。
「不便はなかったか」
「……服は、動きやすいです。ありがとうございます?」
礼を言われるとは思っていなかった。
アシュレインは、わずかに目を細める。
「率直に言おう。君には、帝国に滞在してもらう」
反発を予想していた。
だが――
「滞在、ですか?」
シシリアは、首を傾げるだけだった。
拍子抜けしつつも、アシュレインは言葉を続けた。
「研究環境は、保証しよう」
その一言で、シシリアの空気が変わった。
視線が、鋭くなる。
「魔導府の第一研究区画。素材、資料、人員、自由に使える」
皇帝は、淡々と条件を並べる。
「身の安全も、行動の自由も制限しない。監視は最低限だ」
椅子に座るシシリアに近づき、片膝をついた。
驚くシシリアの右手をとって、銀の腕輪を示した。
「これも、外そう」
少し間を置いて、核心を投げる。
「協力してくれれば、だが」
宰相が、横でわずかに眉を動かした。
(……餌が強すぎる)
研究環境。
自由。
素材。
制限なし。
普通の交渉相手なら、疑う。
だが、相手は――
「……第一研究区画って、禁書庫と直結してます?」
聞いてきた。
そこか、と宰相は内心で天を仰いだ。
アシュレインは、笑みを浮かべた。
「ああ。必要なら、閲覧許可も出そう」
「実験規模の制限は?」
「帝都を吹き飛ばさない限りは」
「……塔は?」
「想定外だった」
シシリアは、顎にほっそりとした指を添えて、真剣な顔で考え込んだ。
数秒後、ぽつり。
「……協力、の範囲は?」
「帝国の研究への助言、共同研究だ」
嘘は言っていない。
目的を、全部言っていないだけだった。
シシリアは、少し俯いて考えた。
塔は壊れた。
完全に、自分のせいで。
なのに、叱責はない。
強要もない。
代わりに提示されたのは――研究環境。
帝国第一研究区画。
禁書庫。
素材と自由。
蜜のように、甘い提案。
(……ずるい……こんなの、抗えるわけないじゃない……)
シシリアは、軽く目を瞑った。
息を吸い、深く吐く。
再び目を開き、金の瞳をまっすぐに見つめる。
はっきりとした意思を持って、帝国の皇帝に言葉を返す。
「――お断りします」
アシュレインが、わずかに目を見開く。
後ろでは、宰相が考えの読めない視線でシシリアを見ている。
「――私を、レガリア王国へ、返してください」
シシリアは、はっきりと言葉を結んだ。
しかし――
(……我慢するのよ、私……っ!)
強い意思を込めたようなライラックの瞳は、その実ものすごく葛藤を秘めていた。
(だって、しょうがないじゃない! 私、いきなり魔導院から消えたのよ!? お兄様やお父様、ニナさん、エル、カディル……ユリアス様だって、きっと……みんな、きっと探してくれているわ。なのに……)
シシリアは、膝の上の左手をぎゅっと握りしめた。
(ここで楽しいことばっかり、していられないじゃないの……っ!)
甘美な誘惑に打ち勝ったシシリアは、アシュレインの強い眼差しを負けじと見返した。
見つめ合っていた時間は、どのくらいだったのか。
視線を逸らしたのは、アシュレインが先だった。
シシリアの右腕に嵌ったままの銀の腕輪を持ち上げる。
「――これは、もういらないな」
「……へっ?」
思わず変な声が出た。
アシュレインの指が腕輪をなぞり、そっと魔力を流すと、腕輪が広がり腕から外れた。そのまま、音もなく絨毯の上に滑り落ちた。
「もともと、これはお前が壊してしまった。装飾品としては、品がない」
シシリアは、床に落ちた腕輪を見て、ちょっと反省した。
建物だけではなく、魔具まで壊してしまったことに、もう一度謝罪をしようと口を開きかけると、それより先にアシュレインが続ける。
「――協力は、諦めよう。拘束も、しない。しかし、王国へは帰さない」
シシリアの右手が持ち上げられ、指が皇帝の唇に触れた。
その動作に、シシリアは拒絶を許されない圧を感じた。
「今、この時から、お前は帝国の人間だ」
金の瞳が、ライラックの瞳を射抜くように見つめて言った。
宰相は、ため息をついた。
(……これはもう、手遅れですな)




