変な女
銀の食器が、かすかに触れ合う音を立てていた。
塔に出入りできる唯一の道は、石造りの渡り廊下。三階の高さの廊下は、外界の気配は遠く、窓もない。
皇宮の敷地内にあるこの塔は、昔の皇帝が、他国の姫を攫ってきた時に建てられたものらしい。
皇宮から距離は遠いが、他の干渉を受けない静かな場所だ。そのため、罪を犯した皇族を幽閉するために使用されるようになったとか。
食事が乗ったワゴンを両手で押しながら、離宮のメイドである彼女は、塔の入り口に当たる渡り廊下へ向かって、規則正しく歩いていた。
幽閉の塔。
今は、レガリア王国の侯爵令嬢が一人、収容されていると聞いている。
(……まさに“他国のお姫様”よね)
噂では、気を失って連れてこられたという。
白金の髪が絹糸のようで、とても美しかったと、先輩のメイドが言っていた。
彼女が勤め始めてから、この離宮に皇族や貴族が来たことはない。
どんな人だろうか。
穏やかな微笑みが似合う人だろうか。たおやかな雰囲気があるのだろうか。それとも、突然閉じ込められた牢で、怖がって静かに泣いているのだろうか――
もし怯えているのであれば、メイドの一人くらい、支えになってあげた方がいいのではないか。
“他国のお姫様”の支えに――お友達になるのは、とても特別なことに思えてきた。
お姫様に誘われて、二人でこっそりお茶を飲む。お菓子を食べて静かに笑い合う。夜には、お互いの国のお伽話を話し合って、お姫様が眠るまで手を握っていよう。
幸せな気分でワゴンを押し、渡り廊下の扉が見えてきた、その時。
――ズン。
足元が、わずかに揺れた。
「……?」
地震?
そう思った瞬間、耳の奥に、低く唸るような音が走る。
ズ、ズズズ……。
渡り廊下の扉に刻まれた魔法陣が、淡く光った。
防御結界の反応だ。
扉の前にいる兵士二人が、腰を低くして扉の方を警戒している。
彼女が立ち止まった、その刹那。
――ドンッ!!
轟音。
空気が、叩きつけられたように震え、視界が白く弾けた。
「きゃっ――!」
衝撃に、彼女は思わず床にしゃがみ込む。
食器がワゴンから跳ね、金属音を立てて転がった。
塔の方角から、信じられない音がした。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
石が、軋む。
否――砕けている?
渡り廊下の扉は光を増し、目を開けていられない。
「な、なに……っ!?」
結界が悲鳴を上げるように明滅し、耐えきれずに霧散した。
同時に、扉が砕けて散っていった。
揺れと轟音が収まり、彼女はそっと目を開けた。
廊下の床には、倒れたワゴンと軽食が散らばっている。
助けを求めて兵士の方を見ると、二人は呆然と一点を見つめている。
何を見ているのだろう、とそちらを見やると――壁の外には、空と、遠すぎる地面と、そして――何もなかった。
*
幽閉の塔は、もはや塔と呼べる姿ではなかった。
床は崩れ落ち、白い石材が無秩序に積み重なっている。かろうじて残っている外壁は避け、わずかに円筒の形を残している場所はあるものの、支えを失い今にも崩れそうだ。防御のために組み込まれていた魔具は沈黙し、空気の中に漂うのは、焼け焦げた魔力の残滓だけだった。
アシュレインは、瓦礫の前に立ち、無言でその光景を見ていた。
兵が慌ただしく周囲を固め、負傷者の有無を確認しているが、皇帝の意識は別の一点に向いている。
――いる。
根拠はない。
だが、確信だけはあった。
「陛下、危険です。内部はまだ――」
制止の声を背に、アシュレインは歩み出る。
瓦礫を踏み越え、崩れた壁の向こうへ。
そこに、彼女はいた。
元々は三階の高さにあった、崩れ落ちた床の中央。
粉塵の中に、ぽつんと立つ一人の女性の後ろ姿。
黒いローブはところどころ汚れているが、見た目に怪我をしている様子はない。怯えた様子も、混乱もない。ただ、壊れてしまった周囲を見回している。
「……あら」
小さく、間の抜けた声。
首を傾げると、白金の髪が肩から滑り落ちる。
「……なかったことに――は、できないよね」
呑気に諦めたようなその声に、アシュレインは呆れ、笑ってしまった。
その声にびくりと肩を震わせた女性が、アシュレインの方を振り返る。
アシュレインは見た。
淡い色の瞳。
その奥に――一瞬。
本当に、一瞬だけ。
金冠が、揺れた。
息を吸う音もなく、アシュレインの脳裏に過去の光景が蘇る。
――レガリア王国の辺境。
視察と称した、気まぐれな旅。
名も知らぬまま、偶然に出会った変な女。
森の中で見たこともない魔物に手こずっていた時、嬉々としてその魔物を狩り、獲れた素材に頬擦りしていた女。
こちらが声をかけなければ、たぶん気づきもしなかっただろう。
お互いに、名乗りもしなかった。
二言三言交わした言葉が、なんとも印象的だった。
その女の顔を見ているはずなのに、記憶の焦点が合わない。
――それでも、あの瞳だけは忘れなかった。
(――そうか。ここにいたか)
あの違和感――認識阻害。
同じ王国からきた“聖女”の、運命の女性、という言葉を、アシュレインは信じていない。
だが――逃すものか。
そう思った時、アシュレインの頭から帝国の大義名分が抜け落ちていった。
シシリアを連れてきたきっかけ、目的、これから何をさせようとしているのか。
それは、今やらなければいけないことからすると、些細なことのように思えた。
運命ではない。
偶然でもない。
(――これは、俺の意思だ)
アシュレインは、ゆっくりと表情を整えた。
興味を悟られてはならない。欲望など――論外だ。
アシュレインは、ゆっくりと歩み寄った。
「怪我はないか」
低く、落ち着いた声で言い、反応を待つ。
――この変な女を、どうやって帝国に縛りつけようか。




