ここはどこ?
シシリアが目を覚ました時、最初に感じたのは――静けさだった。
耳鳴りも、痛みもない。天井は高く、白に近い淡灰色の石材。白い壁は緩く弧を描いている。家具や装飾は古いが、質の良いもので揃えられている。部屋に一つだけある大きな窓は、厚いガラスを嵌め殺しにした重厚な格子窓で、ここが“牢”であることを教えてくれた。
起き上がろうとして、右手首に重みを感じる。
銀色の腕輪。表面には細かな魔法陣が刻まれており、魔力が触れた瞬間に、ひやりとした感覚が皮膚を這った。
(魔力封じ……しかも、ずいぶん丁寧ね)
ベッドの端に座って腕輪を確認した。
乱暴なものではない。過剰な締め付けも、痛みもない。
(囚われのお姫様ってところかしら?)
なんとも危機感のない感想を抱きながら、シシリアは目覚める前の記憶を辿る。
確か、講義が早く終わったので、研究室に戻って研究をしていた――終了。
あら? と、首を傾けるシシリア。
これほど情報がないなんて、逆に笑えてきちゃうわね、と呑気な感想を抱いてから、今度は現在に目を向けてみる。
部屋の中、王国の様式ではない。サイドチェストには、美しい飾り彫のあるガラスの水差し。クローゼットにある衣装は帝国風だ。窓の分厚いガラスは透明度が高く、ずっと続く茶色い平原と遠くに見える雪化粧をしている高い山。建物は見えない。
(素直に考えるなら、帝国のどこかの貴族牢よね。あとは……“どうして”?)
シシリアは、窓の外を見ながら腕を組んでうーんと考えてみるが、思い当たる節はない。
とりあえず誰か来るだろうから、その人に聞いてみようと考え、本棚にあった本を読みながら待つことにした。
ほどなくして、控えめなノックの音が響き、扉が開いた。
「お目覚めですかな、リュミエラ嬢」
入ってきたのは、年配の男だった。落ち着いた灰色の髪、仕立ての良い服。武器も鎧も身につけていない。
「アウレリア帝国宰相、ヴァルディスと申します」
名乗りと同時に、軽く一礼する。その動作に、敵意は感じられなかった。
最初は使用人が様子をみに来るだろうと思っていたシシリアは、まさか宰相が出てくるとは思ってもいず、少しだけ驚いてしまった。
しかし、何も返事もしないのは失礼かと思い、読んでいた本を置き立ち上がる。
「初めまして。レガリア王国リュミエラ侯爵の娘、シシリア・ミラ・リュミエラと申します。ご挨拶が遅れましたこと、ご容赦を――目が覚めたときから、少々落ち着かない状況でしたので……」
言いながら、少し目を伏せてみた。
宰相は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに穏和な笑みに戻った。
「これはこれは……」
深く、だが過不足のない一礼。
その所作には、帝国宰相としての威厳と、相手を正当に遇する意思がにじんでいる。
「レガリア王国、リュミエラ侯爵家のご令嬢。その名を、かねてより耳にしておりました」
顔を上げ、穏やかな笑み。
「ご挨拶が遅れたなどと、とんでもない。むしろ――」
わずかに言葉を切る。
「目覚めてすぐ、このような“落ち着かぬ状況”に置かれたにも関わらず、これほど冷静なお振る舞いをなさるとは。帝国としては、感服するほかありませんな」
賞賛の言葉。
だが、どこか探るような視線。
「……もっとも」
今し方入ってきた扉を、指先で軽く叩く。
「その“落ち着かない状況”を生み出したのが、我々である可能性については――今は、あえて触れぬ方がよろしいのでしょうな」
あくまで、穏やかに。だが責任は取らない、という宣言。
宰相は、にこやかなまま一歩引いた。
「本日は、正式なご挨拶を交わすために参りました。事情の説明は――そうですな」
少しだけ、意味深に微笑む。
「もう少し、貴女が“落ち着かれてから”にいたしましょう」
その目には、シシリアを警戒する色がチラリと見えた。
ヴァルディスは、シシリアには口を挟ませない、一方的な話し方で続ける。
「どうか、ご不便はご容赦ください。――帝国は、無礼を長引かせるつもりはございませんので」
最後に丁寧な一礼を残して、踵を返した。
扉が閉まったあと、しばらく、音が消えた。
足音は遠ざかり、廊下の気配も薄れる。
魔力の揺れもない。
シシリアは、椅子に腰を下ろした。
(……すぐには何も起きないわよね)
宰相の言葉を思い返す。
丁寧で、曖昧で、核心に触れない物言い。
(攫った理由を言わない、ということは……今は“言えない”か、“言う気がない”?)
どちらにしても、次の動きがあるまでは待つしかない。
シシリアは、先ほどまで読んでいた本を再び開いた。
十分。
本を読み終わり、キョロキョロと室内を見ると、揺り椅子があった。
迷わず移動してゆらゆら揺らした。
十分。
本棚に、歴史書があることに気づいた。
読んでみると、一つの出来事でも王国と微妙に捉え方が違っていて、興味深く思った。
三十分。
少し目が疲れてしまい、窓の外に目をやる。
あら? と思い、窓に近づいた。
厚い窓ガラスを、コンコンと軽く叩いてみる。
(あ、これ多層結界ガラスだわ!)
何を守っているのか、どういう構造なのか。
考えながら足を後ろにずらして、違和感を覚えた。
床は石材。つるりとした大きな石材を組み合わせて敷いている。
(これ、防御石が混じっているじゃない!)
防御石を混ぜて石材を作ったのか、それとも帝国では素材として採れるのか。
(帝国は、素材の扱いに長けているのかしら? 窓の多層結界と防御石が反発しないようにするには、どうしているのかしら?)
シシリアの目が輝きを帯びる。
そういえば、と右腕に付けられた、銀色の腕輪を眺めてみた。
繋ぎ目はない。
魔法陣の刻印を、左手でなぞる。
(術式は三重かしら。でも、補強している魔法陣は、少し古いわね)
腕輪があるから魔力は使えない。
でも、体内の魔力を動かすのなら?
――動かせる。
体内の魔力を腕輪に流せるのか?
――それは無理……いや違う方向性なら?
例えば、位相を変えてみる。速度はどうか。量は。質は。
腕輪を含めて、この部屋が一つの魔具だとしたら?
床と壁と天井の防御石、窓の多層結界ガラス、そして魔力封じの腕輪。
建物の魔具は外部供給型、であれば内部からの共鳴には弱い?
でも、魔力の質を合わせる必要があるか……魔力封じの腕輪を媒体にしたらどうだろう……
シシリアは、抑えた。必死で抑えた。
もし、仮説が証明されたら、結界が壊れる、つまりこの建物が壊れる可能性がある。人がいたら、洒落にならない。
けれど、この状況は、人生でそうそうあるものではないだろう。
いやいや、帝国の貴族牢は壊しちゃダメでしょう。あとで説明できる自信がない。
でも……でも……
(――ちょっと……ほんの、ちょっとだけ……)
シシリアの人生で、最も葛藤した瞬間だった。




