シシリアの失踪
魔導院の夕刻は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
魔法薬術棟の廊下を、アーシェルが早足で歩く。
予定より講義が早く終わった。シシリアなら、もう研究室に戻っているはずだ。
シシリアの研究室の扉を、静かに開けた。
そこにいるはずの人を探す。
「……シシィ?」
返事はない。
研究台には様々な素材が散らかり、実験道具があちこちに散っている。
書きかけのメモ、放り出されたペン。ドロリとした何かに突っ込まれた銀の棒が、自分勝手にぐるぐる動く。茎をクネクネさせている紫色の植物は、置いてあっただろうガラスの容器をバリバリと食べている。
異常なまでに、いつも通り。
なのに、そこに彼女がいない。
(――庭にでもいるのか?)
心臓の音がうるさく鳴るのを自覚しながら、一瞬頭を過ぎった考えを振り払う。
アーシェルは、研究室を出て走った。
ハスの庭にもいない。
図書室にもいない。
中庭、実験室、ニナの研究室。
もう一度、シシリアの研究室に戻り、途方に暮れる。
「――どこに……っ!」
「アーシェル!」
カディルが駆け込んできた。
「いたか!?」
アーシェルは首を横に振る。
その顔は青ざめ、瞳は輝きを失っていた。
魔導院は有事に備えて結界に包まれており、出入りできるのは正門と、裏門に当たる白の門、黒の門だけである。
これらの門は判別の陣が施されており、許可のない者が出入りできないどころか、許可のある者も通行の記録がされる仕様だ。先の研究棟事故のときでさえ、災害即応部隊の登録が必要だった。
この日、シシリアがこの門を通ったのは、朝。出勤の1回のみだった。
午前の講義は通常通り終わらせて、午後も早い時間の講義のみだったシシリアは、講義を終わらせると早々に研究室に戻る姿を、数人の院生に目撃されている。
自身の研究室の前でニナに会い、短い会話をした後に研究室に入ったという。
彼女の研究室の前の廊下は、その後も何人かの講師が通ったが、誰もシシリアの姿を見ていない。
アーシェルが扉を開けるまでの一時間半。
許可のない者が出入りすることができないこの魔導院であれば、敷地内にいると考えるのが自然だ。
本塔会議室に集まった院長、各学科長、事務官長たちは途方に暮れていた。
「……そんな、馬鹿な……」
セルジュが青ざめた声で呟く。
この魔術院で、特級魔法薬術師が忽然と消えるなど、あり得ない。
「――状況はどうだ」
そう言って会議室に入ってきたのはリュミエラ侯爵とユリアス。
「いないのか?」
魔導院の面々を見渡して、リュミエラ侯爵は表情を変えずに確認する。
「魔導院は、古代の魔法により守られています。ここから、何にも検知されずに出るなど、不可能です」
院長は困惑した表情をしている。
応用魔法科長が硬い声を出す。
「しかし、院長。いないことは事実です。敷地内全て探しました。職員、院生にも聴取をしています。研究室には、リュミエラ先生の魔力痕以外、なかった」
「敷地内にいないとすると、どうやって出たんですか?」
魔導技術科長が、丸いメガネを掛け直しながら問いかける。
「リュミエラ先生なら、なんでもありな気がしますが」
それはない、と言うのはセルジュだ。
「ロウゲンの話によると、彼女の研究室は、今まさに研究中の様子だったそうだ。リュミエラ――先生が途中で研究を投げ出して席を外すとは、考えにくい」
「では、連れ出されたということだな」
リュミエラ侯爵が続けると、院長が悲鳴のような声をあげた。
「――そんな……! ありえません! ここは魔導院。王宮をも凌ぐ防御システムを持つ場所です! ここでは、ネズミ一匹の出入りでさえ検知される。そのシステムを欺いて人が消えるなど……っ」
リュミエラ侯爵は、冷たい目で院長を見返した。その瞳はシシリアと同じ色彩だが、侯爵のものは温かみが感じられなかった。
「ありえるか、ありえないか、それは問題ではない。私の娘が消えたことだけが、事実だ」
院長が、ぐっと言葉を飲み込んだのを見て、ユリアスが一歩前に出た。
「院長。この魔導院が王国魔法の最高峰であることはわかっています。けれど、現に講師が一人消えたのです。今話すべきは、“どうやって”ではなく、“どこに”、そして“だれが”ではないですか?」
丁寧な言い方をしているが、その言葉は王太子のものだった。
“さっさと探せ”
ユリアスが言ったのは、それだけだった。
院長が「仰せの通りに」と言い、情報のすり合わせを再開すると、会議室の扉がノックされた。
話がある院生が来ている、という事務員の知らせの後に、三人の院生が入室した。
アーシェルが先に入り、続いてカディルに腕を掴まれたレオンが入室する。
レオンの左頬は、赤く腫れていた。
アーシェルは、昏い目をして説明する。
「リュミエラ先生の行き先を知っている者がいるので、連れてきました」
その言葉に、ユリアス含め数人が立ち上がった。
レオンが一歩前に出る。
「応用魔法科のレオン・ノクト・ディスタンです」
視線だけで礼をして続ける。
「予想の域を出ませんが……リュミエラ先生を攫ったのは――帝国です」
レオンは、はっきりと言った。「帝国が、攫った」と。
拳が、微かに震えている。
セルジュが立ち上がり、レオンの前に立つ。
「なぜそう思う?」
「――エリスが……」
そこで、言葉が詰まる。
エリスは、最近おかしかった。
笑ってはいたが、どこか焦点が合っていなかった。
帝国の人間と接触していた痕跡がある。
魔導庁関係者とも。
守るべき対象だと思っていた。
だが、同時に――危うさも感じていた。
「エリス・バンデールです。同じ、応用魔法科の女性です。魔導庁と帝国、双方と接触していました……」
レオンは語った。
エリスが、シシリアの研究を調べるように、魔導庁に進言していたこと、シシリアが王国にいると危険だと言っていたこと、ここ最近は、魔導庁ではなく帝国の関係者と接触していたこと――
沈黙が落ちる。
ユリアスは、額に手を当てた。
シシリアの失踪に、帝国が絡んでいる。
そして、シシリアは王国に五人しかいない特級魔法薬術師だ。
既に、問題は魔導院の範囲を超えている。
しかし今は、帝国と国境で小競り合いの最中。
確証もなく、国を動かすことはできない。
「……わかった。あとは私が預かる」
苦渋の判断だった。
レオンは、唇を噛みしめて頭を下げる。
その時、会議室の扉が再び開いた。
「――失礼」
静かな声。
だが、その空気は、凍りつくほど冷たかった。
ルーファスだった。
「殿下と父上に報告があります」
淡々とした口調。
深い海の瞳の奥で、金冠が揺れている。
「シシリアの居場所がわかりました」
ユリアスが顔を上げる。
リュミエラ侯爵が静かに問う。
「確証は?」
「十分に」
ルーファスは、机の上に資料を置いた。
魔具による転移の証明、その隠蔽方法、情報漏洩の痕跡、資金の流れ、帝国側の動員――
いつの間に調べたのか、これはこの数時間の成果には到底思えなかった。
「……魔導庁の残党も噛んでいます。彼らは、自らの恨みをはらすために、私の妹を利用した――」
その瞬間、室内の空気が、圧縮された。
その場にいた者たちの肌を逆撫でし、腹の中をヒヤリとしたものが込み上げてきた。
ユリアスは、その怒りを知らない。
いつも穏やかな男の瞳に、金冠が揺らめき、まるで燃え盛っているように見えた。
「――落ち着け、ルーファス」
その場に似合わぬ、低く、穏やかな声。
リュミエラ侯爵の声で、その場の空気が瞬時に軽くなった。
会議室にいた者は、呼吸をすることを思い出したかのように、一斉に息を吐き出した。
ルーファスの瞳は、いつもの穏やかな、深い海の色に戻っていた。
「お前も、まだ未熟だな」
父の言葉に、軽く頭を下げる。
「――が、よくやった」
今度は、僅かに頷いた。
「私の娘を攫ったのは、帝国で間違いはないだろう。問題は、その意図か……」
リュミエラ侯爵は立ち上がり、ユリアスに向かい合う。
「殿下。至急、陛下へお目通を」
ユリアスは、一瞬だけ目を閉じた。
そして、決意を宿した瞳で頷く。
「王宮へ戻ります。リュミエラ侯爵、次期侯爵、一緒に来てください。魔導院の院生も関わっています。状況報告のため、魔導院長、魔法薬学科長、応用魔法科長も同行を」
レオンは、会議室を出ていく六人の背中を見つめた。
アーシェルに殴られた頬以上に、自分が迷ったことで招いた結果が、胸を深く抉っていた。




